第5話
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サガミと別れたキサラギとウィジェは、途中で車を拾い速やかに狼の国へと向かっていた。
しばらく走った頃、遠くから砲撃の轟音が響く。象の軍が本格的に攻撃を始めたようだ。運転手が怯えたように「飛ばしますよ、危なそうだ」とアクセルを踏み込んだのは嬉しい誤算である。
象の国から狼の国は少しばかり離れているが、このスピードなら半日と少し走り続ければ着くだろう。この運転手がどこまで行ってくれるのか、試しに「狼の国に行きたい」と言ってみれば、運転手はサイドミラーをチラリと見た直後「それはいい。そうしよう」と案外乗り気になってくれた。
サガミは無事だろうか。キサラギの頭の中はそんなことでいっぱいだった。
(……いや、サガミ様には銀龍がいる。危険はないはずだ)
しかし龍に関しては未知数だ。少し気に入らないことがあると、ナギのように食い破られる。あの光景を思い出し、キサラギは思わず肝を冷やす。無意識に左手首に触れていた。
——自身に龍殺しの自覚はない。こうして目に見える印でもない限り、自分が普通の人間であると勘違いしそうなほどである。
(……あと少しもってくれ……)
龍殺しの末路を誰も知らない。このアザが広がればどうなるのか。どうして痛みを伴うのか。それはキサラギしか知ることのない結末である。
真っ黒なアザはジクジクと痛む。キサラギは気をそらすように窓の外に目を向けた。
狼の国に着いたのはやはり半日と少しが経ってからだった。予定通りに到着をしたのは、運転手が思った以上にスピードを出したからだろう。礼もそこそこに、キサラギはすぐに王宮へ向かった。
草薙剣を持って走る姿はやはり目立つ。しかし躊躇っていられない。キサラギは真っ直ぐに王都を駆け抜け、正面から王宮に戻ってきた。
「キサラギ、貴様今までどこにいた! サガミ様は何をしている!」
半日も経てば、象の軍との衝突も耳に入るのだろう。世話役としていつもサガミの側にいたキサラギに怒鳴りつけたのは、顔色の悪いカゾン宰相であった。
杖をついてゆっくりとキサラギに歩み寄る。キサラギが足を止めることはない。
「今は話している暇はありません。失礼します」
「待て!」
キサラギが向かうのは、サガミとカグラが「秘密基地」と言っていた場所がある、カゾンが頻繁に通っていたという裏庭である。
「キサラギさん、あの人は……」
ウィジェが気遣わしげに横目に振り向く。カゾンは必死に二人を追っていた。
「カゾン閣下は狼の国の宰相です。重篤な方なので、きっと私たちには追い付けません」
「待ちなさい!」
「やあ、カゾン閣下。相変わらず不気味な顔色だね」
背後から聞こえた声に、キサラギは思わず足を止めた。ウィジェも併せて立ち止まる。
ざわつく王宮がさらに大きく揺れた。キサラギを追っていたカゾンも、普段からは考えられないほど阿呆な顔をして驚いている。
廊下にある大きな窓の縁、そこに優雅に立つ人物に、誰もが言葉を失った。
「カグラ様、なぜ狼の国に……」
今回の作戦は伝えていない。キサラギが驚きのままに問いかければ、カグラは少し呆れたように、けれどやや楽しそうに微笑んだ。
「サガミが中心的に動いてくれているから、僕は銀龍の実体を守ることに助力しようかなって」
「……カ、カグラ様、カグラ様がなぜ生きて……」
カグラは死んだ。葬式も執りおこなわれた。世界が知っていることである。
カゾンは自身の目で見ているものが信じられないのか、何度も目を擦っていた。
「キサラギが助けてくれたから」
「……キサラギが?」
「カグラ様、その件については……」
「ああそうだよ、今となってはどうでもいいことだ。すべてを企てたナギは死んだんだから。おまえの忠義は知っている。……僕について来い。目的を果たすぞ」
キサラギの腕を引っ張り、カグラがどこかへと向かう。カグラも裏庭に向かっているようだ。
背後ではカグラが生きていたということだけでなく、ナギが死んだと言われて別のどよめきが起きていた。しかしカゾンは追いかけることをやめない。誰よりも早く我に返り、遅いながらに足を動かす。
「待てキサラギ!」
キサラギは振り返らなかった。
「カグラ様、どうしてお姿を……」
「……サガミの裏切りはすでにこの国にも届いてる。って言っても、まだ上層部にだけだけど……世界中に知れ渡れば、サガミはこの国にはもう戻れない。だから僕が狼に戻るんだ。サガミと、サガミが守ろうとしたものを両方なくさせない」
カグラはいつも、外を羨ましそうに眺めていた。龍を継ぐことを望みなもがらも、心のどこかで自由を手に入れたがっていたことは、キサラギだけではなくサガミも気付いたほどである。
王宮に戻れば自由は失われる。龍が解放されたなら龍を継ぐこともできないだろう。
「カグラ様、お逃げください。サガミ様は思っていたよりもお強いお方ですから、大丈夫です」
「……そうだね。そうだった」
広い王宮内を突き抜け、ようやく裏庭に到達した。
「きみ、龍神族の人ですよね」
「あ、はい。ウィジェといいます」
「そう、じゃあウィジェくん。初めまして、僕はサガミの双子の兄のカグラです。今回は、サガミが無茶を言ってすみません」
カグラは謝りながらも足を止めることはない。
「いえ。……サガミ様が居なければ、自分たちは今も壁の中でした。両親の無念も遂げられず、人間とは良い隣人でいようと、そんな綺麗ごとを建前に肩身狭く生きていくだけだったと思います。自分は、サガミ様に感謝しています」
「そっか。サガミは、そんなふうに言ってもらえる人になったんだね」
カグラがある地点で足を止めた。それにならい、ついて歩いていたキサラギとウィジェも立ち止まる。ウィジェは人の気配が多く集まっていることに少し焦っているようだ。
「カゾン閣下はこのあたりに足しげく通っていた。小さな頃の記憶だから定かではないけど……きっとどこかに入り口がある」
「ウィジェさん、気配などでは追えませんか」
キサラギの問いかけに、ウィジェは集中しようと目を閉じたが、すぐに首を横に振る。
「すみません、おそらく実態には今銀龍様が宿っていませんから、気配という気配が漏れていないかと……それにここには人が多すぎて特定が難しいです」
カグラがぐるりと周囲を見回す。どこもかしこも整備されていて、怪しいところは目視では見当たらない。
「だけどこの近辺にあるのは間違いない。こうなったらこのあたり一帯を全部掘っていくしか……」
「そこまでに」
ようやく追いついたカゾンが、肩で息をしながら三人の背後に立っていた。カゾンの背後には衛兵が多く控えている。すべてが剣を構え、カグラを認めて驚愕を浮かべた。
「カグラ様、今から何を暴こうと?」
「……懐かしい場所に戻っただけだよ」
「ほう、このタイミングで。……よもやサガミ様と手を組み、何かを企てているわけではないでしょうな」
「まさか。サガミは関係ない」
「言い訳はあとでいくらでも。少しでも疑いのある今、あなたを容疑者として捕らえる必要があります」
カゾンが衛兵に合図をしているのを見て、ウィジェが一歩、カグラをかばうように前に出た。
「閣下、カグラ様に対しそのような扱い、無礼ですよ」
キサラギも草薙剣を抜く。
「ではサガミ様と共にいたおまえが、サガミ様が裏切ったタイミングで戻ったのは何故だ。カグラ様も生きている、そのカグラ様を救ったのがおまえともなれば、カグラ様とサガミ様は繋がっていると言っているようなものではないか……!」
カゾンは普段、声を荒げることはない。淡々と厳しいことを伝えるために、王宮内では「いっそ怒鳴られたほうがマシだ」とすら言われるほどには怖がられている。
しかし今は声を震わせ、そこに怒りを乗せている。その様子に、見慣れないカグラとキサラギはぐっと言葉をのみ込んだ。
「カグラ様が殺されたと世界を騙したことも計画の内かもしれない。ナギ様を殺したということも関係があるかもしれない。おまえが持つその草薙剣がサガミ様との強い繋がりを証明しているようなものだ! ……世界の危険因子として、我々にはそれを止める義務がある」
衛兵が三人を取り囲む。カグラはうんざりしたように深く息を吐き出した。
「世界の危険因子? それは龍に危害を加えるかもしれないからか? だけど空を見てよ、サガミがあれを空に返した。あののびのびと泳ぐ龍を見ても、僕たちが危険因子になりうると?」
「ええそうです。龍は我々が管理せねばなりません。人間は彼らが思っているよりも残酷なのですから、我々が管理し、守って差し上げなければ」
杖を持つ手が震えている。カゾンがここまで感情的になることが珍しく、カグラは探るように目を細めた。
「龍を管理なんてする必要はない。龍は自由な生き物だ。龍を空に返せば、龍の崇拝による統制が終わる。人と龍は良い隣人になる」
「神にも近い龍と我々が? ご冗談はそこまでに。ただでさえ人間には『龍殺し』の罪があります。彼らと隣人になるなど、そのようなおこがましい考えはおやめください」
ピクリと、キサラギの指先が揺れる。草薙剣が軽い音を立てた。




