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かつて平和だった世界へ。名もなき龍より  作者: 長野智
第2章

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第5話

「……何? 誰か居たよね……?」

 視線を巡らせるけれど、どこにも誰かが居たような痕跡は残されていない。キサラギがコンクリートに座り込んでいるだけだった。

「……すみません。転んでしまって」

「転んだ? キサラギが?」

「はい」

 サガミはすぐにキサラギの元にやってくると、さっそく怪我の確認をおこなう。血が出ていないか、意識ははっきりとしているのか、特に頭に念入りに触れたからか、カグラに馬乗りになられたときに打った後頭部に鋭い痛みが走った。

「いっ……」

「どこ? ここ? ちょっと腫れてる……冷やそう」

「いや、サガミ様、あの……」

 はたと気がつけば、サガミはキサラギの後頭部に両手を回し、抱きしめるような体勢でキサラギの上に膝立ちになっていた。距離も近い。一瞬の後、サガミもようやくそれのおかしさに気がついた。

「う、わ! ごめん!」

 サガミはキサラギの上から離れると、すぐにキサラギの後ろに回って後頭部を間近で確認する。キサラギからはその表情は確認できなかったが、サガミの頬はほんのりと赤くなっていた。

「サガミ様、私は大丈夫ですよ。そのように心配されなくとも……」

「……そんな保証、どこにもない」

 患部は腫れているだけで、前のように血が出ているわけではなかった。サガミはひとまず安堵して、持っていた荷物から手当て用の氷嚢を取り出す。すでに中身は溶けてはいるが、触った心地がひんやりとしていたために処置的にそれを押し付けた。首元には切り傷はなかった。どうやら刃を当てられていただけのようだ。

「キサラギまで居なくなったら、私は本当にひとりぼっちになる。……気をつけて」

「……はい」

 その言葉に、サガミの弱さが見えた気がした。


 ——サガミとカグラの元にキサラギがやってきたのは、二人がまだ五歳の頃である。そのときキサラギはすでに二十歳で、ある日突然「お二人のお世話役をさせていただきます」と、胡散臭い笑顔とともに現れた。

 サガミとカグラはもともと、二人だけの世界で生きていた。サガミにはカグラが居れば良かったし、カグラもサガミから離れることは絶対になかった。そんな二人の前にキサラギが突然現れ、二人がすんなりと受け入れるはずもない。悪戯好きなカグラが主となり、キサラギを試すようなことばかりを繰り返していた。

 キサラギの目を盗んで部屋を抜け出したり、皿を割ったことをキサラギのせいにしたり、ときには神剣を見たいと駄々をこねたこともある。無理難題を押し付けてはキサラギの反応を見て、カグラはその度サガミに「もうそろそろ嫌になるんじゃないかな」と言って、悪戯が成功したかのような無邪気な笑みを浮かべていた。

 結果的に、キサラギは二人の側を離れなかった。むしろいつも全力で二人を相手にして、いつも必死に二人を追いかけていた。

 十歳を迎える頃には、カグラもすでに折れたようだった。サガミもキサラギのことは可哀想に思えていたところだったし、二人の中に入れるのも違和感がなくなってきた頃である。二人は存外すんなりと、キサラギという存在を受け入れた。

 だからこそ、サガミはキサラギを疑いきれない。それどころかキサラギが何かをしているとも思いたくなくて、今回のカグラの件についても結局一緒に調べている。

 狼の国の王と言っても、サガミはまだ十八の少女である。王位も神剣も、背負うにはまだまだ荷が重い。

「……さっきまで誰かが居たんじゃないの?」

 疑うような言葉に、キサラギはそれでも「いいえ」と何も話さなかった。

「奇妙な気配はあったのですが、周囲に怪しい人物はありませんでした」

 キサラギから氷嚢を受け取ったサガミは、やはり訝しげにキサラギを見ている。

 探り合う視線が絡んで少し。けたたましい足音と共に二人の居る部屋に入ってきたのはラルグだった。

「お二人とも、無事ですか」

「……怪しい動きがありましたか」

「いえ。ないから急ぐのです。先ほどの気配は初めてのものでした。何者かが銀龍様の気配に気付き狙っているのかもしれません」

 鼠の国は未知である。ラルグらもそれが不安なのだろう。

 同意したサガミとキサラギは、抗うことなくラルグに続く。外にはほかの龍人族も控えており、二人の無事を確認して安堵していた。

 周囲に気配はない。サガミがそれをひそやかに確認しつつ歩いていると、少し後ろを歩いていたキサラギが口を開く。

「……一つ、気になったのですが」

 少しばかり緊張したような声に、ラルグがキサラギを一瞥した。

「深く龍を思いながら、どうして龍帝王陛下を取り戻そうと動かれないのですか」

「……キサラギ? 急にどうしたの?」

「単純に気になっただけです。優れた能力を持ちながら、鼠の国でくすぶっていることにどうしても違和感がありまして」

「……なるほど」

 ラルグは特に気にした様子もなく、進行方向を警戒しながら足を進める。

「——我々は人と争うことを望んでおりません。真実です。理由などそれに尽きますが」

「人があなたたちを裏切ったのに?」

「キサラギ、失礼なことを言わないで。いきなりどうしたの?」

 サガミの制止も関係がない。キサラギはただ緊張の中ラルグからの答えを待つ。

「……何か、発破をかけたいのでしょうか」

 キサラギは何も言わなかった。

「我々は確かに悔しく思うことも多くありました。人が憎いと思い、侵略しようと思ったこともあります。しかし出来ませんでした。そのもどかしさにさいなまれながらも、現状にはそれなりに満足しております。天龍様もそのはずです。だからあのお方はあの場所から退かない」

「彼は逃げようと思えば逃げられるということですか?」

 ラルグは一度、足を止めて周囲をぐるりと見渡した。気を遣ってキサラギが歩み寄る。サガミもなんとなく近づいた。

「その通りです。天龍様はいつでもあの場所から抜けて自由になれます」

 一瞬の間を置いたが、ぐっと踏み出したのはサガミだった。

「それならどうしてそうしないんですか。陛下があそこに居るメリットなんて何一つとしてありません」

「……人間の命令に逆らえば争いになり、我々はあっさり人間を殺してしまうでしょう。天龍様はそれを深く理解しておられる」

「……まるで捕まっているみたいに、足に輪っかがつけられていました。あれがあるから出られないわけではないんですね」

「……輪っか?」

 何かまずいことでも言ってしまったのだろうか。ラルグは眉を寄せ、訝しげな顔をしていた。

「見たこともない文字が光っていて不気味でした。見間違いではありません」

「……何にせよ、天龍様が人の作ったものに縛られるなどあり得ません。その輪っかが何なのかは気になるところですが」

 ラルグは何かを探るような瞳をしていた。疑っているのかもしれない。あるいは何か触れてはいけないことにでも触れてしまったのか。サガミが思わず一歩引くと、キサラギが庇うように口を開く。

「とにかく、龍帝王陛下をつないでいる枷は、人が作ったものであるのなら陛下の意思で自由に外すことができるということですか」

「……その通りです」

 人間が龍帝王に枷をつけていたなど思ってもみなかったのだろう。そんな扱いを受けていると知って心配になったのか、ラルグの表情は渋く変わる。

 しかしここが攻め時だ。龍帝王を心配する気持ちを利用すれば、キサラギが思うままにことが進むかもしれない。

「ラルグさん。昔のように、人と暮らしたいとは思いませんか」

 シンと、重たい間が落ちた。

「……夢物語を語るつもりはありません。我々は現実を理解しています」

「キサラギ……?」

「サガミ様。……ここはひとまず、龍を自由にすることに専念したほうが良いかと思います」

 キサラギはサガミに、周囲に聞かれないようささやきかける。

「……龍を? どうして?」

「少し、違和感があるのです。——犯人はカグラ様のみを手にかけ、サガミ様には手を出しませんでした。カグラ様が神剣を継承しないとなると、サガミ様が継承することは分かっていたはずです。しかしサガミ様は今現在も命を狙われておりません。つまり、犯人の望むようにことが進んでいるということです」

「……それでどうして龍の解放?」

「犯人はサガミ様に神剣を継がせたかったのだと思います。それならば、犯人が思う通りにならない展開を仕向け、おびき寄せるのが得策かと思いました」

「犯人は、私が銀龍を宿したままのほうが都合が良いと思っているってこと?」

「その通りです」

 潜めた声音はラルグには届かない。正しくは、聞こうと思えば聞こえるのだろうが、気を遣って聞こえないフリをしている。サガミはただ迷うように目をそらした。

「サガミ様やナギ様の中にいる龍の出し方も探りましょう。龍帝王陛下が何かを知っているかもしれません。陛下を解放し、その後に聞いても遅くはないと思います」

「……たしかに、龍関連のことに巻き込まれたとして、そのことでアクションを起こせば犯人の尻尾は掴みやすい」

「世界皇帝を解放すれば、犯人も焦り怪しい動きを見せるはず。狼の国に手を出すほど肝の据わった犯人です。たとえば世界を掌握したいというのが動機なら、世界皇帝を解放した程度ではその野望を諦めないでしょう。必ず次の作戦に移行すると思います」

「……なんだかキサラギ、全部のことが分かってるみたいだね」

 サガミは、探る瞳をキサラギに向けた。しかしキサラギは引かない。いつものように強い瞳で、サガミを静かに見つめ返す。

「どうされました。急ぎましょう」

 ラルグの急く声に、サガミは動かなかった。

「……分かった。たしかにそうしたほうが犯人をあぶり出すことができそうだね」

 何かを考えながら了承したサガミに対し、キサラギは緊張気味に一つ頷く。

「龍に関心のあった崇拝者や反対派の人たちを含め、大勢が容疑者になる。その可能性を一気に潰すってことだよね」

「……はい」

「カグラを殺した犯人は、絶対にそれで見つかると思う?」

 もちろんですと、キサラギは間髪入れずに言葉を返した。それに一つ頷いたサガミは、不思議そうな顔をして二人を待つラルグに振り返る。

「ラルグさん。少しお話をしてもいいですか?」

「はい。なんなりと」

 ラルグが一度、周囲の龍人族に合図を出す。すると龍人族はそれぞれが持ち場に移り、周囲を警戒する体制をとった。サガミはひとまず道の端にラルグを誘い、「龍の解放についてなんですが」と、ラルグの言葉を挟まないようにと言葉を続けた。


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