プロローグ
「ねえカグラ、緊張してるの?」
夜の帳も下りる頃。眠れないのかサガミの隣で身動ぎをしていたカグラに、サガミが優しく問いかけた。一人分の布団に二人が向かい合って横になっている。十の頃に部屋を分けられて以来の温もりだった。
二人の視線がぶつかる。カグラは少し気まずげに、渋い顔で頷いた。
明日は待ちに待った継承の儀式の日だ。狼の国の王となるべく、十八歳を迎えたカグラはその身に神剣、草薙剣を宿す。
狼の国と獅子の国は、世界皇帝の住まう「龍の宮」を守るという役割がある。カグラはもうずっと、その役目を担うことを待ち望んでいた。
「……サガミ。僕、嬉しいのにすごく怖いんだ」
「怖い? カグラが?」
カグラは勇敢な少年だ。サガミが一番よく知っている。みんなを引っ張る太陽のようなカグラでさえそんなことを思うのかと、サガミにはそれが意外だった。
「怖いよ。……嫌な予感がする。ざわついてるんだ。何か恐ろしいことが起きるんじゃないかって。……ううん。もう起きているのかもしれない」
「なにそれ。変なの」
何を言い出したのかと笑うサガミを見て、カグラもようやく笑みを漏らす。肩の力が抜けた。緊張状態が続いていたから、思った以上に体が疲れていたらしい。
力が抜ければ、突然睡魔がやってくる。
「ずっと……一緒に」
その言葉を最後に、カグラは深い眠りに落ちた。
カグラとサガミは二卵性の双子である。顔も性格もまったく似ていないが、二人は仲が良く、幼い頃からいつも一緒に居た。兄のカグラは行動派で明るい。社交的であり、何でも器用にこなしてしまう。妹のサガミは大人しく箱入りのお嬢様で、何をさせてもあまりうまくは出来なかった。しかし所詮、サガミは他所の国に嫁ぐだけの存在である。カグラは狼の国の王となるから求められることは多かったが、サガミには何も求められなかった。
——ふと、先に目を覚ましたのはサガミだった。隣には熟睡するカグラが居る。ふすまには薄ぼんやりとした光が入っているために、早朝であるのが分かる。
サガミは体を起こすこともなく、ゆっくりと目を閉じた。屋敷も静まりかえっているし、起きる時間でもない。カグラの勇姿を見届けるためにも、サガミだけでも万全の体調で朝を迎えなければならないだろう。
しかし。
サガミは、閉じた時と同じようにゆっくりと目を開けた。音が聞こえる。細く、綺麗な、まるで鈴が鳴るような……それはもしかしたら「声」なのかもしれない。
「……カグラ」
キョロキョロとしながらも上体を持ち上げたサガミは、隣で眠っているカグラを揺する。けれどカグラは起きる様子もなく、ううんと唸ってそれだけだった。
「起きて、カグラ」
声だと思えば、音は突然「声」になった。それを「言葉」として認識したのかもしれない。女性の声である。
いったいどこから聞こえてくるのか。サガミがそれを探していると、声がサガミに語りかける。名を呼んだ。サガミのことを知っているのだろうか。サガミは恐怖のあまりもう一度カグラを起こそうと試みたが、カグラはやはり起きなかった。
「ねえカグラ、起きて」
声がサガミを呼んでいる。こっちにおいでと誘っている。カグラはやっぱり起きてくれなくて、サガミはとうとう恐る恐る立ち上がった。
怖いと思うのに、どこから聞こえてくるのか気になって仕方がない。どこか優しく、落ち着く声音だからだろうか。サガミはそっと部屋を抜け出すと、すっかり冷えた廊下を歩く。
声はまだ遠く。一定の間を置いてサガミの名前を呼んでいる。
たどり着いたのは、儀式の準備がされている大ホールだった。普段は人で溢れているそこには今は誰もおらず、普段以上に広いとすら思えてしまう。
本来なら立ち入り禁止だ。儀式前ならば尚更、立ち入って良いわけがない。もともと小心者のサガミは、立ち入ることをためらった。しかし声が呼んでいる。まるで何かに操られてでもいるかのように、次にはサガミはホールに忍び込んでいた。
ひんやりとしたホール内。そこにはポツンと、刀掛けに一本乗せられた草薙剣が用意されているだけである。
「……あれが……」
声はもう聞こえない。しかしサガミはそれに気付くこともなく、魅入られたように歩み寄る。
神剣は普段、立場のあるサガミたちでさえお目にかかれるものではない。しっかりと大切に保管されているために、儀式の時でもすぐに片付けられてしまうのだ。
近くで見るなど言語道断である。けれど今は誰も居なくて、誰が置いたのか神剣がそこにあるものだから、触れることさえも可能だった。
サガミは草薙剣の側までやってくると、その場でぺたりと膝をつく。鞘に隠された刃はどうなっているのだろうか。これだけ雰囲気のある刀の刃だ、どれほど美しく澄んでいるのかは想像に難くない。
「草薙剣……」
どうしても気になって、サガミはゆるりと手を伸ばす。普段のサガミならばしない行動だった。部屋を出るところから少しおかしかったのかもしれない。サガミはやはり何かに誘われるのように、危うい仕草で手を近づける。
サガミの指が、刀に触れた。
その瞬間だった。
眩いばかりの光が溢れたかと思えば、それは途端にサガミを包み込んだ。鈴が鳴る。声が聞こえる。歓喜しているかのような浮わついた感情が、サガミに流れ込んでくる。
『――いらっしゃい』
光の中。銀の髪の女が、サガミにはしっかりと見えていた。
女はサガミを呼んだ。サガミを受け入れた。それからどうなったのかは分からない。サガミはぐらりと体を揺らし、力なく冷たい床に倒れ込んだ。早朝の、誰も来るはずのない大ホール。サガミは気を失ったまま、ゆっくりと時間が過ぎていく。第一発見者がやってきたのは、それから数時間後。見つけたのは、二人の世話役のキサラギだった。
「サガミ様!」
キサラギがサガミを抱き上げる。サガミの体はすっかり冷えきっていた。
「……キサラギ?」
「サガミ様、何があったのですか。……どうしてこのような場所に……」
意識を戻したサガミは、すぐに状況を思い出す。
いったい何が起きて、どうなったのか。
「離して! く、草薙剣は……」
無事下ろされたサガミは、すぐに刀掛けを振り返る。
そこはもぬけのからだった。まるで最初から何もなかったとでも主張しているかのように、冷えた空気が漂っている。
「草薙剣がこの時間から出ているはずがありません。……何があったのですか」
「……そんなはずない……神剣はあったの、ここにあった」
「いいえ。あれは儀式の直前に祀られる段取りで、」
「あったの!」
サガミは覚えている。夢ではない。サガミが刀に触れた瞬間、眩い光が弾けたことさえも明確に思い出せるほどだ。
しかしキサラギの言うとおり、普段厳重に厳重を重ねて管理されている神剣が誰も居ない時間帯に放置されているなんて、ありえない状況だったのかもしれない。
サガミの顔から色が失せる。一つ思い当たる可能性に、自然と体が震え出す。
「……サガミ様?」
「声が、したの。呼ばれていたと思う。でも何を言っているのか分からなくて、だけどなぜか気になったから、たどってきたらここだった。神剣があったのは間違いない。間近で見れたことが嬉しかったから手を伸ばして……触れた途端に、光が……」
「……光?」
「ち、違う、違うんだよ、私は本当に気になっただけ! 奪おうなんて思ってもなかった! だけどどうしても見てみたくて、そしたら、消えてた……無くなったの、神剣が……ねえキサラギ、本当だよ、嘘なんかついてない。でも無いの、私、もしかして……」
ふわりと、サガミの髪が不自然に空に漂う。それと同時、縋るようにキサラギを掴んでいたサガミの腕に、指先から肘にかけて銀色の鱗がビシビシと這う。
「いや!」
「サガミ様!」
とっさに、サガミは尻餅をついた。キサラギもまだ受け入れられないのか、唖然とした表情でサガミを見下ろす。
神剣は龍だ。
天叢雲剣は金龍を。草薙剣は銀龍を。それを継いだ者こそが、天龍であり、世界皇帝でもある龍帝王陛下の腹心として側にあれる。
神剣を継ぐと言うことは、半身を龍に捧げるのと同義である。
カグラではなく、サガミがその役を担ってしまった。
「……なんで、どうして、いや、キサラギ、神剣なんか継ぎたくない! カグラの夢を壊したくなんかない!」
「……継いだ? あなたが……?」
「カグラはずっとお役目を担いたいって言ってたの! このままじゃカグラに嫌われちゃう! これから一緒にいることも出来なくなる!」
少しばかり動きを止めていたキサラギが、弾かれたように駆け出した。
「キサラギ!」
呼んでも彼は振り返らない。いつも従順なキサラギにしてはなかなか珍しい行動だった。
様子がおかしい。すぐに気付いたのだが、サガミは何より一人になりたくなかった。カグラに嫌われる未来が見える。それを払拭してほしくて、唯一状況を理解したキサラギに「大丈夫」だと言ってほしくて、すぐさま彼を追いかけた。
けれどすぐに見失い、どこに行ったのかも分からなかった。必死になって探していると、起き始めた使用人たちが不思議そうにサガミを振り返る。その目に自分がどう映っているのかが気になって、サガミはさらに必死にキサラギを求めた。
もしかしたら「兄の夢を奪った最低な妹」として見られているのではないか。疑心暗鬼が回って、嫌なことばかりが頭に浮かぶ。
「キサラギ……っ!」
たどり着いたのはカグラの部屋だった。逃げ出したい気持ちと謝りたい気持ちが混同して、キサラギを求めながらもそこに足を向けてしまったのかもしれない。
サガミは混乱していた。どうしたら良いのかキサラギに教えてほしかった。そんな気持ちのまま、カグラの部屋のふすまを開く。
一番に見えたのは、鮮烈な赤だった。
「目を閉じて」
小さくかすれた声がした。次にはサガミの視界が奪われる。
目元に置かれたのはキサラギの手だと分かる。もう彼との付き合いも長いサガミからすれば、それに気付くのも容易なことだ。
「キサラギ……?」
「……あなたは見なくていい」
見なくていい、とは、いったい何を。
考えるけれど、目を隠される直前に見えたそれが、まぶたに焼き付いて離れない。
見えた。見えてしまった。ほんの一瞬。それでも、強烈に焼き付いて離れなくなるほどの衝撃的な光景だった。
「……カグラは?」
「……ひとまず出ましょう」
「キサラギ! ……カグラは? ねぇ……さっき見えたアレがカグラなんて、そんなことないよね……?」
部屋中に飛び散った赤。大量のそれの中に沈んでいた無残な姿が、サガミの頭にぐるぐるとめぐっている。外に連れ出されても、当然ながらサガミの混乱は消えない。
「サガミ様、」
「ねえ、死んでないよね? カグラは生きてるんでしょ? 教えてよ、キサラギ」
震える問いに、キサラギは何も答えない。
「キサラギ!」
どれほど悲痛な声で呼びかけても、キサラギはサガミと目も合わせなかった。
「……あなたがやったの」
「誓って、違います」
「だけど突然走り出した」
「……嫌な予感がしたので」
この数時間の間に一気にいろいろなことが起きて、まったく理解が追いつかない。サガミの身に起きたこと。カグラの身に起きたこと。何もかもが理解の範疇を超え、脳が拒絶しているようだ。
サガミが神剣を継いだ。カグラの夢を奪った。カグラが殺されていた。頭の中がぐちゃぐちゃで、キサラギを問いただすこともできない。
「……私は、狼の国の、王になるの?」
混乱の中、ようやく出た言葉はそんなことだった。
神剣を継いだ者が王になる。そのしきたりを知っているからこそ、サガミは一番に聞いていた。
キサラギは何も言わなかった。けれどその沈黙が肯定のように思えて、あらゆる感情が混同したサガミは、静かに涙を流していた。