エピローグ 激情の行く先(完)
気分がすぐれない。教科書類をまとめたバッグを背負っていないのに、肩に富士山が乗っかっている。間食を胃に入れても、濁った消化液と共に送り返されそうだ。
草が散り散りになった荒野に、健介独りぼっち。大声で助けを求めても、人っ子一人駆けつけてくれない。
昨日、和室で麻里が吐き出した衝動が、暴れ車となって健介の外壁を破ろうとする。クッション無しにバンパーがぶつかり、臓器が外に飛び出そうな苦痛が走った。
蝉も鳴く穏やかな日差しの下で、修羅場は沈黙と供述を繰り返した。
蛇口の締めが甘く、水滴が水槽にポタリと落ちる。これが満杯になるまで眺め続ける、永遠の時間だった。
これまでに培ってきた誇り、権力、依存欲。麻里が蓄えたものが、何もかも抜け落ちて行った。厳重にパトロールされていた金庫も、彼女自身が開け放った。
『……私なんか、いらないよね……』
この世の生存権を返上し、天に昇ろうとしていた。背景と麻里の輪郭が、緩やかなカーブを描いて溶け込んでいった。
去る者追わずの悠奈に対抗した鋼鉄の意志も、酸に柔らかくされて見る影もなくなってしまった。
『……でもね、健介。これだけ、これだけは……』
何も、聞きたくない。麻里の言い訳など、これっぽっちの慰めにもならない。自記の書籍を出版して、印税で得た金を納めてくれる方がよっぽど償いになる、と。
健介もまた、自らの行く道を見失っていた。霧が一面にかかって、平凡な明日へとたどり着く道が判別できなくなったのだ。
……悠奈の時は、あれだけ生理的に受け付けなかったのに……。
理不尽は、驚くほどに人を変質させる。強がりで見栄を張ろうとしていたあの子が、頬指で突かれても無表情を向けてくるくらいには。
一年前、健介は崖から突き落とされた。ゴールテープを切った先に、大手を振って着地するものが無かった。なす術無く、地面に足から叩きつけられたのである。
幼馴染に告白した直後、存在を消されそうになった。目撃証拠が不十分でも、犯人の目星はつく。
失意のどん底で蛹の殻を生成して、その次の日。悠奈との集合時間を無視し、連絡もせず教室へ着いた。
慎重な手つきで扉を開くと、窓際にはグラウンドを眺めてやまない腐れ縁の異性が立っていた。外気に長髪が揺られ、整った毛束がリズミカルな音符を奏でていた。
『悠奈』と『崖から突き落とした犯人』が合致した瞬間、幼馴染に関するデータベースがシャットダウンされた。目の前が真っ暗になり、敗北の結果画面が表示されたのを覚えている。
「……どうして、麻里はほっとけないんだろう……」
心労で感情が制御できず、思考がそのまま口にでてしまう。やや住宅街の外れに位置した悠奈宅付近だったのは、幸いである。
協調性を重視して空気になり切ってきた健介にも、自我はある。意中の女子から告白されれば有頂天で踊り狂い、悠奈から切り捨てられた日には自室に引きこもった。
つい昨日の朝までは親友だった麻里。それならば、今はどうなのだろうか。
親友が解消されても、クラスから友人が一人消えるだけ。馬鹿の一つ覚えで流行語を話す男子にも気の合う奴がいて、幼馴染の悠奈もいる。騒がしいお嬢様が側を離れて、むしろ自身の趣味に集中できる。
……それでも、よ……。
昨日、麻里はカバンをひったくって悠奈宅から逃げ出した。大粒の涙を瞳にこめて、捨て台詞も残さず場を後にした。
法廷で被告人が逃走するなど、言語道断。現実の裁判所であれば、何らかの罪状が追加されるだろう。言論や証拠で真っ向勝負する機会を捨てた人間に、幸福は訪れない。
「……健介、通り過ぎてるよ、私の家」
「……気付かなかった。古風な暴力団事務所に見えるのがいけないんじゃないか……?」
「……そうだったとして、ヤクザの娘を敵に回すのはいけないと思うな」
アナウンサー殺しの活舌も、今日は鳴りを潜めている。姿勢を崩さず立つあの悠奈が、顎を引いて間引かれていない雑草に目を落としていた。
ネタのキレも、いつもよりぎこちない。江戸時代末期の寂れた刀で、何十にも絡まったツタを切断できはしないのだ。
明日がおぼつかない足取りで、正門をくぐる。荘厳な屋敷は、観光名所に載っていてもおかしくない。
麻里が去った抜け殻で、議論を行えるはずがなかった。一言も交わさず散乱した紙屑を集め、掃除するので精一杯だった。
「……俺は、悠奈に取り返しの付かないことをしそうになった。壊しかけたんだ……」
そして加害者だったのは、健介も変わらなかった。
冤罪だったと言っても、悠奈を冷たくあしらった事実は洗い流せない。こびり付いた負の記憶は、時間経過で消えるようになっていないのだ。
手紙の宛名を、冷静に精査すべきだった。筆跡は悠奈そのものでも、『健介』と圧から付け足された文言は麻里が書いたもの。上下を見比べていれば、僅かな違和感を抱いたはずだ。
季節に似合わない北風が、木の葉を斬りながら吹き付ける。骨の髄まで凍ってしまえと言わんばかりに、健介の体温を奪っていく。
……目を逸らしちゃいけない。
関係を完膚なきまでに消去しようとした事実は、十字架となる。誰が免罪符を出そうとも、心の贖罪が泡となって空気に溶けることはないのだ。
地面に目線を落とした悠奈に、焦点を合わせる。フィルター効果がまだ残っているらしく、好意が浮かんでこない。
麻里が覚悟無く赤い糸を切ったように、健介もまた寄ってくる幼馴染を追い払った。軽蔑のまなざしを向け、告白をつまらないお遊戯だとレッテルを貼った。
「……健介、顔上げなよ……って、私の方だった……。これから言う事、よーく脳に刻み込んでくれないかな?」
静かに、健介は頷いた。現実逃避で拒否権を行使したが最後、彼女に愛想を尽かされる気がした。
泥にまみれて、地に這いつくばる。雨水が溜まった穴で渇きをしのぎ、倒れた仲間でバーベキューをして生きていく。居間から始まるのは、コンティニュー―なしのサバイバルだ。
回復措置も、セーブポイントも存在しない。想いと想いが交差する、生涯の放物線。傾きが不一致であれば、再び交わりやしなくなる。
……悠奈は、甘さを見せない。それが、親友だとしても。
裏バレンタインデーでも、そうだった。軽微な裏切りは正義執行で清算していた悠奈だが、重大事件ではそれを保留した。
心臓の冠動脈に血栓が詰まってくれれば、どれほど気が楽になるだろうか。呼吸することにも体力を消費するこの場所から立ち去れるなら、非合法な手段を使ってでも脱出したい。
正義執行官は、甘えを許さない。気絶させられて万事解決するのなら、絶縁など起こりえないのだ。
悠奈の顔には、力が入っている。伸びるチーズの要領で引っ張ることの出来た頬も、筋肉に張り付いて離れない。
「……ある日突然、転機は来る。そう言ったよね。健介は信じて無かったかもしれないけど」
分岐路は、想像していたより早くやってきた。一方通行の看板が掲げられて、引き返し不可の選択肢が示されている。
「……本心で、答えてね。……四月に空き教室で告白された時、健介はどう思った?」
テレビ局の取材カメラを探して回った、偽装告白だと健介が思い込んでいたもの。整った設定が、却って疑心暗鬼の心を突いた。
黄昏の夕陽が、ラブレターを却下しておいて迫ってくる幼馴染を赤く燃やしていた。人気のない空間が、悠奈の背中を後押ししていた。
……上手くいきすぎてる、って思ったんだ……。
ようやく疎遠の友達にまで修復された所で起こった、まさかのハプニング。
「……悠奈が正気かどうか疑ったよ。……だってそうだろ? 心無い手紙をよこしておきながら、自分が恋したからって……」
模範解答の冊子は、事前に配られていない。解答を丸写し出来ない仕様になっている。
悠奈に、表情が変化する様子が無かった。地雷を踏み抜くと、そこで討論終了。想いの強弱を問わず、健介は敗北する。
「……次の質問。マリちゃんのこと、どう思う? どうすればいいと思う?」
盲点を焼き鳥の串で突き刺された。
「麻里は今、関係ないだろ。あくまで、俺がどれだけ悠奈を傷つけてきたか……」
「うるさい、答えて」
大蛇に睨みつけられた蛙は、文面をそのままに受けとるだけだった。
麻里を受け入れる寛大な処置を求めているのだとすれば、健介の想いとは擦れ合う。摩耗で結晶に亀裂が入り、砕けることになるだろう。
世の中の罪人を裁くために、法律は存在している。如何なる理由があろうとも、許可なしに法を犯せば罰せられるのだ。
他人の恋愛心を踏みにじる悪女など、釜ゆでの刑に処されても厳しいとは思わない。下手をすると、高校卒業と同時に悠奈と音信不通だったかもしれない以上、酌量の余地は見当たらなかった。
……間接的に、悠奈も苦しめた……。
健介を悠奈から遠ざけると、悠奈からも健介が遠ざかる。人物名を反転させただけの例えで、事の重大性を知ってもらいたい。
勢い余って告白を敢行してきたのだ、好意を抱いていたことは言うまでもない。冷やかしであの演技が出来るのなら、報奨金として健介の小遣いを充てる。
麻里は、悠奈の笑顔をも消しゴムで潰してしまった。悠奈がどのような考え方でも、無罪放免は認めない。
「……麻里には、償ってほしい。ラブレターの分と、……悠奈も傷つけた分。傷つけたのは俺もだから、強くは言えないけど」
方法までは、思いつかなかった。具体的な事柄は、後回しである。
肉体労働でも、精神奴隷でも構わない。麻里に謝罪の志を見せてほしいのだ。
氷の目で意識を串刺しにしてきた悠奈が、夏の陽気に温め直された。彼女が課した試験は、結果がどうであれ終了したらしい。
緊張で柔軟性を失った正義系少女は、あっという間に普段の凛々しくて接しやすい幼馴染に変身していた。
「怖かった? 私が嫌悪の目で見ると思った?」
「……冗談かよ……。俺は真剣に話してたのに……」
針山の上空で機関銃に追い回される悪夢から、健介は解放されていた。この場で冗談を混ぜ込まれて肺が飛び出そうになったが、笑いを取りに来たのではないことくらい分かっている。
悠奈が、言葉を続けた。
「空き教室で想いを伝えた時、健介が手紙を見せてきて、さ。一目で分かったよ、宛名以外、私の直筆だって」
「それなら、どうして……」
せかそうとするも、手で制止させられる。
「あそこで何を言っても、無駄だって思ったから」
悠奈の魂は、回想世界に飛び立っていた。現世の肉体が、一時的に生気を失っている。
証拠を元想い人に突きつけた健介は、安易な公道への怒りが高まっていた。血圧で眼球の発射準備が完了されていた。
燃え盛る業火に油を注げば、火の手はたちまち天井にまで達する。自力で消火することは叶わない。
……どこまでも、計算されてるな……。
直筆の悪用された手紙を使われて、彼女の頭は真っ白になっただろう。降り積もってやまない雪が、地面を覆っていただろう。
それでも、あの手この手で除雪作業を実施し、健介の中に潜む疑心をほぐそうとしてくれた。感謝以外の言葉が見つからない。
悠奈に想いのこもった感謝をぶつけるのは、何か月ぶりなのか。当たり前が当たり前でなくなった日から、きっと一分では数えきれない。
「……私が健介だったとしても、同じ行動をすると思う。……正義と恋愛は、別の話だから」
歯を見せて照れ笑いをした悠奈。彼女から幸福を根こそぎ引っこ抜いたのは、今までの健介だった。
「健介を信じて良かった、って思ったよ。たまたまだとしても、健介が戻ってきたことに変わりない」
自己批判の材料が、塞がれていく。自身の主張を正当化する手段が、失われた。
手紙が暴露されたのは偶然の産物で、健介は何も貢献していない。大ポカを麻里が犯さなかったのならば、今でも悠奈と完全講和は達成できていないはずだ。
……そんな俺でも、良いって言うのか……。
自虐ネタを呟く回数が増えたこの頃、感嘆に自身を傷つけることが多かった。もしかすると、悠奈はそれに気づいていたのかもしれない。
「……麻里は、どうするつもりなんだ? ……普通に考えたら、もう……」
「マリちゃんはー……、しばらく放置しとこうかな。立ち直って反省したら、それで執行完了で良いと思う」
概ね、健介の意見を踏襲した取り決めだった。ベーリング海に沈められても仕方ない悪行であるのだが、正義の味方兼幼馴染には関係ないらしい。
「……過ちは、取り返せる。道を踏み外しても、戻って来られればそれでいいんだよ。……頑張って、麻里ちゃん……」
如何にも、事故の正義を重視する悠奈らしい名言だった。詩人気取りの中高生のポエムとは、言葉の重みも厚みも段違いだ。
正対して、改めて悠奈を漫然と見つめた。
一匹狼で、来る者を拒まない。不正や暴力を認めず、正義の下に刑を執行する正義執行官。スポーツもスタイルも、男子から玉砕覚悟のラブレターを送られるほど飛びぬけている。
黒の長髪は毎日丁寧に洗われて新鮮を保ち、やや小柄で可愛らしい。かと思えば、戦闘で男子顔負けの闘志をむき出しにする。
そして何よりも、健介の幼馴染である。腐れ縁でも、同じ時間を過ごしてきた幼馴染である。
……悠奈……。
大好きだった人が、また傍に戻ってきたのだ。
「……健介、改めてどうかな? ……その、私……」
そっぽに目線を移しているが、悠奈の赤みは引いていない。
深呼吸で拍を刻み、健介も意を決した。
「……しばらく、お友達のままでいて欲しいんだ。……今のところは……」
「……なんでそうなっちゃうかなぁ……」
今日限りは、不満を垂らしたジト目にも心が晴れやかになる。
……もうちょっとだけ、我慢してほしい……。
一年も装着していた軽蔑フィルターは、いきなり外して効果が消失してはくれなかったようだ。
悠奈が恋愛対象リストに帰還するまでには、もう少しの期間が必要になりそうである。
最後まで読んで下さり、誠にありがとうございました!




