048 崩壊
あの日、健介が受け取った別れの手紙。非情なまでに冷静だった失恋の始まりと一言一句違わないものが、麻里のバッグに入っていた。
理性が保持する違和感は、その筆跡。悠奈の自作公式ノートと一致しているのだ。下に綴ってある名前とは明らかに別人である。
曖昧に反応して寛容に対処していた健介でも、運命が定まった日を揶揄する持ち物を看過できない。冗談グッズとして使うつもりだったとしても、だ。
……俺は、麻里にタブレターの返信まで見せてないぞ……。
思考を巻き込む渦が、健介を容赦なく海底に引きずり込む。意識の根底に叩きつけ、全てを無に帰そうとする。
手紙を突きつけられて呆然としているのは、麻里なのだろうか。変装の達人で、麻里に成りすまして信頼関係を崩壊させようとしているのではないか。様々な憶測が、全身を駆け巡る。
遅れて和室に入ってきた悠奈も、南極点より冷え込んだ室内に凍り付いてしまっていた。やたら麻里を気にかけていた彼女が、口を一切挟もうとしない。
時の進む速度が、下落していく。一秒が、無限大にも感じられる。
誰も、言葉を発さない。天才と称される二人が、揃って口をつぐんだ。
「……これ、本当の手紙か……? 嘘だとしても、アレだけど……」
静寂を切り裂く一撃を、健介は放った。空気中に含まれる水蒸気までもが凍り付いたこの世界で、退く者は救われない。
ブランド物のカバンも、麻里のバックにいる部下たちも、この場では無力。金では買えない感情のぶつかり合いだ。
麻里は、まだびくともしない。唾を飲み込む音が、音階まで正確に聞き取れる。健介が示した別れの手紙を、鋭い眼差しで見つめているだけだ。ダイヤモンドをも貫かれそうだ。
……答えてくれないと、何も始まらないんだよ……。
議論の始まりは、まず発言から。意見を提示してくれないのでは、深めようがない。事実と事実を繋ぎ合わせ、憶測の塊で有罪無罪を判断していくしかなくなる。
当時は、まだ麻里と出会って一か月経った頃。悠奈を妨害する理由は、いまいち思い当たらない。教室の掌握も不完全だった一年生一学期の間に、わざわざ敵対してこない彼女を排除しようとしたということだ。
「……俺はよ、麻里がしたとは思いたくないんだよ。思いたくないんだ……」
左拳を太ももに打ち付け、夢の中でないことを確定させた。丸め込まれた指が、手のひらを貫通してしまいそうである。爪は先週切ったばかりなのだが。
クラスの独裁者で、女子からは反感を買っている。男子は口出しを一切せず、教師も実質見過ごしてやりたい放題。歴史上に現れた独裁国と、特に変わった点はない。
それに加えて、中立を保つ一匹狼に戦争を仕掛け、木っ端微塵にしてやられた。一度のみならず何度もリベンジマッチを挑み、その都度敗退している。
一見無能な女帝だと思うかもしれないが、実体は別物だった。今日、この手紙を見つけるまでは。
ライバルに位置づけた悠奈の家に、寝具一式を持参してお泊り会をした。下剋上を起こさない気質だと知っていたとて、たびたび空中放電する相手の敵陣に無防備で潜り込もうとは思わない。
彼女は、孤独におびえていた。権力も金もある独裁者が行きつくのは、いつだって永遠の孤独である。
「今でも、俺は信じてるぞ。麻里が、やってないって」
今すぐにでも、この紙を丸めてゴミ箱に捨ててやりたい。手紙を焼き払って、記憶を消してしまいたい。
……そんなこと、できない……。
ここで手紙を見逃せば、事件は迷宮入りになる。健介が悠奈を拒絶した根拠も、トラウマを植え付けられたのも、全ては返信の素っ気ない返答が元凶だ。
無実無根の申し出を待つ間、肺がはち切れそうになった。深呼吸で、空気の逃げ場所が無くなったのだ。
食い入るように、麻里を見入る。歯を食いしばって現状をかみしめる彼女に、疑問を投げかける。
後ろで控える悠奈は、余計な言葉を話さない。状況は理解しているのだろうが、麻里と健介間での自然解決を待っている。
「……健介くんが傷つくなんて、思ってなかった……。軽い気持ちだった……」
手紙を破らん勢いだった麻里は、目を充血させていた。胸が大きく上下し、深い呼吸音が痛いほどに伝わってくる。
形はともかくとして、彼女は容疑を認めた。それ以上でも、それ以下でもない。
あの日健介が受けたダメージは、全て裏で操られたものだったのだ。
裏切りを経験するのは、一度きりにしたかった。もうわさびを一気飲みはしまいと、警戒心を最大にして行動してきたのだ。
……敵は身内にあり、か……。
運命を狂わせた元凶は、親友だった独裁系お嬢様だった。彼女の手のひらで、健介は遊ばれていただけということになる。
「……どうして、俺が傷つかないと思ったんだよ……」
中学三年生から親交を育んで、成就しかけた高校生活。苗木に水やりをし、一年してようやく若木にまで成長したのだ。成長速度は違えど、育成に携わった者の思い入れは同じである。
ついに実を付けるとなった時、木はチェーンソーで無様に切り倒された。木材に使われるのでも用地確保で切断されたのでもなく、無為に消されたのだ。
……俺は、鋼メンタルじゃないんだよ……。
告白を真正面から斬られて、ノコノコと再チャレンジできると思ったのか。麻里がそう考えたのなら、不凍液を舐めるくらい甘い。
愛の宣言を断って尚付きまとうのは、ストーカーもいいところだ。警察に相談されて、接近禁止処分を下されるのがオチだ。
麻里は視線を落とすことなく、健介を見つめていた。肝心な局面で顔を逃げない心意気は、好意に捉えられる。全体の心証に影響は与えない。
「……多田ちゃんと、健介くん。親しそうだったのは、分かってたよ……。幼馴染だし、よく机を挟んで喋ってたのも見てたし……」
唾を気管に拗らせて、麻里がせき込む。お人よしとよく噂される健介でも、心配する気持ちが起きなかった。親友の体調など、手紙の一件と比較すれば些細な問題だ。
「……だから、ちょっと崩してもいいかな、って……」
「何が、『崩してもいいかな』だよ! 本気のラブレターを無下にされて、親しく出来なかったんだよ!」
つい、声を荒げてしまった。ありのままの真実を静かに聞いているだけのつもりだったのだが、麻里の大緩手は許せなかった。
恋した幼馴染だろうと、『もう話しかけてこないで』と書かれて平静ではいられない。絶交を宣言してしまうのは、健介に限った話では無いだろう。
真偽の審判が為される場で、当事者が感情的になるべきではない。その鉄則を頭に入れておきながら、恫喝に口が走った。沸騰寸前の心が、自我を持って喉をせり上がったのだ。
「……どう転んでも、私は健介くんと一緒にはならない。……だから、延命のつもりだった」
「……それで、今日まで一年間延命できたと」
「……そういうことになる、のかな……。私の本望じゃ、無かったんだ……」
発言を重ねるごとに、麻里の語尾が失墜する。健介に届く前に、地面に消えて音波が消滅してしまいそうだ。
悶々とした疑念は、留まるところを知らない。投げつけたくなる鉄球が、次から次へと送られてくる。
麻里には、自らのしでかした罪を詳細に答弁する義務がある。黙秘権は、健介が認めない。家主の家族であり正義執行官の悠奈が止めに入らない時点で、黙認されたのだ。
……本望だろうが、ラブレターを改変していいわけないだろ。
特権階級でも、健介のような一般庶民にも、人権は保障されている。如何なる者も、信書を無断で開封してはいけない。
無理強いで頼み事をしてきた麻里から、自信の塊が抜けていく。彼女を支えていた気力が、ミキサーで粉々に砕かれていく。
「……これがバレたら、きっと健介くんは何処か遠くへ消えちゃう。だから、無理やりにでも奪い取ろうとしたんだよ……」
プライドも元気の源も吸い取られた哀れな少女は、畳の上にへたりこんでいた。
次話で最終話となります。
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