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047 乱世の前兆

 坂から転がり落ちる丸太になり切ろうとした悠奈が、窓際に放られた肩掛けバッグに気付いた。スポットライトに照らされた革は、重力に負けることなく自立している。


 ブランド物のロゴが、前面にプリントされていた。テレビの番組で紹介されていたことはあれ、実物を目にしたことは無い。


 高級品を遊びに携帯してくる世間知らずは、お高くとまったお嬢様で間違いなさそうだ。


「麻里のじゃないか? 俺のバッグと入れ替えてやろうかな……」

「健介がそうするなら、私の右腕が唸るよ?」


 畳に寝そべったまま、準備運動とばかりに肩を回し始めた悠奈。中身をそっくりそのまま入れ替えたが最後、彼女に首を討ち取られる。


 目の前の事象に集中する麻里のことだ、忘れ物をしても不思議ではない。悪女の家でなくて助かった。


 ……悠奈じゃなくて、よく身元の知れない女子だったらどうするんだよ。


 人間の心は、欲望に逆らえない設計になっている。万札がひょいと首を出す財布を目にすると、盗むつもりが無くとも視線が寄ってしまう。


 前兆無く発生する直下型地震は恐ろしいもので、理性が瞬間的に消失する。財布を丸ごと懐に入れはしなくとも、一万円札を抜き取って家計の足しにしてしまうかもしれないのだ。


 幸いにも、悠奈は戒律を破らない。世界の半分を渡すと交渉されようが、正義に反する悪事に手を染めない。


 麻里に意識はないだろうが、つくづく良いライバル兼友人を持ったものである。


「……マリちゃん、ついさっきドタバタ走って行ったばっかりだからなぁ……。もしかしたら、すぐ戻ってくるかも」

「あの両立が苦手な麻里だぞ? 道中で気付くわけないだろ」


 麻里ほど文武両道が成り立って成り立たない女子高生はいない。高水準で個々がまとまっているだけであって、両方のバランスは偏っている。宝の持ち腐れ感は否めない。


 ……ゼロか百かだからな、麻里は……。


 勉強スイッチが入った彼女は、問題文を読み飛ばして解答を作成する。要点は読み取れているのだから非の打ち所がない。アインシュタインと同時代に生きていれば、アインシュタインの舌は今より伸びていた。


 反面、情熱の供給が停止された麻里は軟弱な豆腐だ。基礎問題の緩い攻撃でも、ノックアウトできてしまう。


「……両立が苦手って言うことは、気付いたら全力疾走で戻ってくると思うよ? 健介が張り合うなら、ここで賭けよう?」

「……賭け事はもうトランプでこりごり」


 イカサマが横行した昨日の賭場。悠奈が毅然と応対して初めて、麻里は引き下がった。


 終わった事にたらればをねじ込むのはルール違反であるが、最悪を想定する健介には見える。持ち前の強権で場を制圧し、悠奈を和室から追い出す麻里の姿が。


 何にせよ、腕を失いたくない。血清の備蓄無しの毒蛇が生息していると聞いて、危険地帯へ足を踏み込める健介ではなかった。


「……とりあえず、帰ってこなかったら健介に頼んでいい?」

「その時は、俺が渡しとく」


 悠奈に返却役を背負わせたくはない。逆上して頭から血を噴き出した麻里が、連休明けn学校か自宅に乗り込んでくるからだ。


 ガスが漏れた地域で、ライターを着火させては大惨事になる。自然発火するのは止めようがないとしても、わざわざ熱源を爆発物に近づける行為は阻止したい。


 ……しっかし、丈夫そうだな……。


 遠心力で五十メートル吹き飛ばされたくらいでは、変形しそうにない。持ち主の癇癪でサンドバッグにされても、簡単に凹まない強度が求められている。


 健介は、机の上に目をやった。ビニール袋に入った、自らの寝巻が乱暴に詰め込まれている。パジャマの重量ごときも耐えられないのは情けない。


『ぴんぽーん!』


 この家に住む一人娘のプライベートを再現したチャイムが鳴った。恋愛映画の視聴中に来客が来ようものなら、雰囲気や世界観は台無しだ。


 悠奈が、モニターで来客を確認した。口元のチャックが開いたのを見るに、お目当ての人物だったに違いない。


 インターホンの向こう側から、活き活きと水槽を泳ぎ回る声が届く。


『私のカバン、忘れちゃったみたい。上がらせて?』

「あるよー。玄関前で、ちょっと待っててねー」

『あ、健介くんと怪しいうご……』


 いつでもどこでも健介と悠奈のコンビを糾弾する麻里のセリフは、通信の断絶に遮られた。通話終了を押した本人も、至極当然のように深く頷いている。


 門を突破されまいと玄関へ直行する悠奈を追いかけようとして、健介は高級品の革バッグを手に掴んだ。握力に屈せず、バッグは形を保ったままだった。


 幼馴染の背中に付いていく一点に集中したせいか、バッグをよく把握していなかった。手の感触に、ひんやりとした金属製のチャックが無い。


 健介の背後で、内容物が無残に吐き出される落下音がした。


 ……やっちゃったよ……。


 女子のバッグは、魔法のバッグ。許可を得ないのぞき見は、不可抗力でも罪を被されそうだ。


 悠奈が世界クラスの武術を備えていて感覚が鈍るのだが、麻里もケンカはめっぽう強い。思わぬ伏兵に襲われなければ、高校の女番長として全学年を統治していたことだろう。監視の重要性がよく分かる。


 土下座の正しい作法を頭でリピートし、バッグの中身を原状復帰させようとした。


 健介は、触り心地が何かに似た紙に目が行った。何気なく手に取り、お使いのメモかと裏返す。


 そして、世界がひっくり返った。


 悠奈への告白が実らなかった後、どう過ごしたかの記憶がない。事ある授業で悠奈を避け続け、フォローを入れてくれた姿勢が前向きな麻里とばかり話していた。


 目線で合図を送ると、受け取ったが早いか机に寄ってきていた悠奈。バカらしい雑談も、勉強のアドバイスも、全て彼女と一緒だった。淡い四月の物語である。


 高校受験と、教師と生徒の立場がそっくりそのまま入れ替わった。真水を吸って泥を放出する腐れ縁の幼馴染は、瞬く間に学力上位へ躍り出たのだ。


 それを微笑ましい目で健介が見守っていたのは、僅か一か月余り。


 心臓が破裂しそうな想いを大雨の側溝に捨てられて、世界からあらゆる色彩が消え失せた。悠奈はモザイクがかかって目視出来なくなり、傍で励ましてくれていた麻里でさえも強弱のついたモノクロだった。


 ……麻里のバッグだよな、これ……。


 悠奈がバッグを偽って、健介を脅かそうとした可能性は、恐ろしく低い。全世界でジャンケンをして、生き残れる気がしない。


 玄関の鍵が外れる音がして、わんぱく少女が上がり込んできた。和室に突撃するや否や、色素が抜け落ちて石灰岩に変化した健介を目撃したようだ。


「健介くん、バッグ、どこかな……?」


 大きな健介の体格で、窓際に落としたバッグにはまだ気づいていない。


 健介は、そっと彼女に目をやった。


 麻里に、緊張の線が見えた。心肺を限界付近まで酷使したと言えど、声まではこわばらない。脇を締め、鼻呼吸が浅くなっている。


 ……迷わず和室に来たってことは、ここに忘れたんだよな……。


 数少ない思い違いのルートも遮断され、残った道は一つだけ。


「……麻里、ちょっと待ってな……。何だよ、これ……」


 ひったくられないよう、固く握りしめて麻里に手紙を突きつけた。


『ごめん、受け入れられない。このことは、もう話しかけてこないで 悠奈』

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