045 朝っぱらから
ウグイスが騒ぐ鳴き声で、意識レベルの底辺層を彷徨っていた健介の脳はたたき起こされた。外壁の材質に梅が埋められているとでもいうのだろうか。ウグイスは、能天気に春の到来を伝えてさえいればいいのだ。
閉まった扉の向こう側から、自然の目覚まし時計が鳴り響いている。握りつぶさない限り、この目障りなベルは安眠を妨げ続ける。
窓の無い独房で、外の様子が確認できない。晴れ渡る大空も肌をくすぐるそよ風も、個室で気絶していた健介には無関係だった。
……全く、寝付けなかった……。
双子台風の暴風圏を脱してなお、後遺症は大きかった。床面とに隙間があるドアは、和室のどんちゃん騒ぎを遮断しなかったのだ。
建築されてから時が経過した一軒家は、隣部屋の振動がそのまま移動してくる。トランポリンで跳ねまわった日には、健介も天井まで打ち上げられていたことだろう。
一時間ほどで二人が寝付いても、健介の覚醒は留まるところを知らなかった。
新種のウイルスに冒されたとしか思えない、麻里の依存性。接してこようとする人がゼロになったその時、彼女は生きて行けるのか。親が統制したくなる心情も、ようやく理解できた気がする。
悠奈も悠奈で、緩んだ心を鋼の剣で切り裂いてくる。甘えからやってくる怠惰も、正義感の鎧を背負う幼馴染の目からは逃れられない。
まだ、頭がぼんやりとしている。視力検査でインクの粒を数えられる健介でも、白色の壁に靄が見えている。
流石に、両人とも添い寝で心を奪う気力は残っていなかったらしい。この個室には、一人だけだ。
もたれかかって休憩する人には無配慮に、扉が開いた。ピンクエプロンを被った料理下手が、お玉とフライを手にしていた。
「健介、おはよう……と言うよりかは、もうこんにちはかな?」
誰よりも率先して健介に纏わりつく女帝の姿が見当たらない。抜け駆けされて黙っているなど、麻里の気質が許さないことは周知の事実だ。
「……俺、そんなに寝てたか? 強制的に起こさなかったのは認めるけど……」
時間間隔も、体内時計の狂った今となっては縮尺が読み取れない。ここからオールナイトで宴会に参加させられるのはごめんである。
目やにで固定されたまぶたをこすり、おぼろげに目視出来ていた悠奈の輪郭が現れた。昨日も今日も変わらない、整った目鼻口だ。通りすがりの男から顰蹙を買い、人通りの少ない路地で襲われなければいいのだが。
彼女は真っ当な仕事に就職しなくとも、美人コンテストで身体を売り出せば遊んで暮らす金は手に入る。資金を糧に世界平和団体を始動させ、地球の軍事力を均衡に保つことも可能だ。
……料理が下手なんて、世の中の男は気にしないだろうな……。
料理スキルなど、学べばいくらでも上達していく。回数をこなして吐き気を催すレベルの献立しか食卓に出せない悠奈だろうが、鉄砲の練習で命中率は挙がっていくのだ。
「もう十時になっちゃった……。仮病で、『私のにおいをずっと嗅いでいたい』みたいな不届き者だったら、このお玉が火を噴いてたよ?」
「悠奈が言うと冗談に聞こえない……」
深夜までわがままに付き合わされて、睡眠時間はしっかりと取れていた。眠気が収まらないのは、夢の中でも彼女たちに振り回されていたのだろう。
鍋越しに調理器具を熱したくらいでは、見た目が進化しない。赤色光を発する煮えたぎった切っ先を持つために、ガスバーナーで直接あぶる必要がある。
……お玉が火を噴くって……。
自炊した味噌汁を学校に持ってきていた。弁当箱一杯に汁物を詰め、ガムテープで穴という穴を塞いでいたはずだ。専用の容器に入れる発想は、成績優秀な悠奈の頭脳を以てしてもひらめかなかったようだ。
熱々のスープを、脳天から根性焼き直しとばかりにぶっかけられる。頭の寂しいお坊さんでも、味噌汁行なる摩訶不思議な行為は控えると言うのに。
いつまで経っても声を聞かせてくれない少女が、健介の意識に引っ掛かった。
「……麻里は……? 悠奈に突っかからないのを見てると、まだ熟睡中……?」
悠奈は、知能指数が猿並みの猿でも理解できる横振りをした。身体活動が活発な女子が、布団でそう何時間もじっとはしていられなかった。
「お泊りの約束時間があったでしょ? 健介が寝坊しちゃうから、慌てて帰っちゃったよ?」
「……明日、公開処刑されそう……。悠奈、助けてくれないか?」
「事件が起き掛けないと、私は仲裁に入れないかな……」
突拍子もない殺人予告の電話で、身柄を拘束する権利を与えられていない。正義執行官という役職は、現実の警察に準じている線が濃厚だ。国家の治安を守ることと本質はそう相違ない正義のヒーローは、似た権限を定められているのだろう。
ただし、書類提出や逮捕状の請求は無し。自らの気分と法の解釈で、理論上は生まれたばかりの新生児まで仲良くブタ箱にすし詰めできる。自分にも厳しく戒律を適用する意志が無くては、平等を維持不可能なのだ。
……麻里、土下座したら免じてくれないかな……。
独裁国のルールは、トップに君臨する皇帝が創造する。工場で働けと命令すれば、国民全員が趣味を捨てて工場勤務になるのだ。
絶対的な権力が集中している故、行使を誤れば即ち死。貴族からは見向きもされず、平民からは妬まれるピラミッドの地盤にまで転落してしまう。
「……エプロン姿だけど、もしかして……?」
普段着で、関節に制限を課す衣服を愛用するとは考えにくい。昼食を作り置きするにしては、まだ時間も余っている。
悠奈の下唇が、大きく下に湾曲した。口から漏れた吐息が、かすれた照れ声となってオーラを和ませる。
「……健介、もしよかったらなんだけど……。朝ごはん、食べて行かない?」
「……考慮時間をくださいな。即答したら、後々後悔しそうだから」
「私の手料理、信用ないなぁ……」
崩れてしまった信用を取り戻す手段は、そう多くない。レンガのタワーに使われていた部品は、気が付かない内に膨れ上がっているのだ。
砂糖と塩があべこべな味噌汁が出てくるのなら、あずきや餅を追加投入して味噌付きお汁粉にしてしまえばいい。砂糖の塊が表面に漂うのが想像できるが、まだ序の口である。
具にされているゴボウや人参も、水洗いしただけの皮付き。切るのが面倒くさくなって、丸ごとお椀からはみ出していてもおかしくない。これが、悠奈クオリティだ。
……レシピ通りには作ってくれてるんだけど……。
概ね指示を理解して製作された料理であるが故に、犠牲者も劇的に増加する。まさか、茄子の漬物で皮がそのまま混入しているとは思いもよらない。
料理教室に通えと毒見役にも忠告されたらしいが、彼女の計画表に文字が埋められてねじ込めないのだとか。家庭的なお勉強が、悠奈の眼中に無い。
しかし、折角健介の分までこしらえてくれたのだ。ゲテモノ選手権への出場を志しているのでは無いだろうから、気持ちを無下にするのも考え物である。
異性が腕を捲し上げて油を奮おうが、一般的な男子高校生がぎこちなく包丁で切ろうが、皿に乗ると違いは分からなくなる。思い出補正のフィルターは、昨年の黒歴史と共に不運された。
「……どうしてもお腹に合わないなら、冷蔵庫に入れちゃうけど……。食べていって、ほしいな……」
自身を強引に押し付けてこない悠奈が、強く請願してきた。焦点のブレる目に、幅の細い平均台を渡るふらつきが見られる。
恋愛失敗の教訓も、料理の不味さも関係ない。体調の許す限り、他人からの思いやりは教授すべきなのだ。
それが例え、友人宅のトイレを一時間占領してしまうとしても。
「……こんな時間にエプロンってことは、起きるのを見計らって台所にいてくれてたんだろ? そこまでされちゃ、断れない」
「……そっか。それじゃあ、今から準備してくるね、健介」
不動の地盤を手に入れた悠奈は、筋繊維を伸びあがらせた。いつになく、立ち上がるのがスムーズだったのではないだろうか。
鼻歌混じりにスキップする度、建物が共鳴する。次に大地震が来た時、彼女が家に居ないことを祈るばかりだ。
……お嫁さんみたいだな……。
戸籍上の関係まで行きつかないのは、最初から判明していること。徐々に輝きを増していた恋人への希望は、無残にも彼女にへし折られた。順風満帆に進んでいたいかだの帆は、大海原に沈んだのである。
諦めが悪いのは、長所ではなく短所。終わった過去にいつまでもしがみつき、元の状態にも戻らない。執念が、構築してきた人脈の壁を砲弾で壊すのだ。
悠奈の告白も、そうだったのだろうか。未練たらしく自ら振った相手と復縁を迫ったのは、何故か。
……一年越しに『良さに気付いた』って、言われてもな……。
僅か二文で構成されていた、申し訳なさの欠片も散りばめられていない返事。健介のすれ違いはあったにせよ、ラブストーリーの種は終焉した。
今更何をほざかれても、心に響くのは虚しさだけなのである。
「……今から着替えるから、しばらく入ってくるなよー」
悠奈が茶碗やコップを食器棚からとりだしているだろうキッチンに叫ぶ声は、冷たく乾燥した気流を生み出していた。
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