044 無防備
「防護壁じゃないんだから、声が漏れるぞ……。悠奈が、毎日叩いてふかふかにしてくれてるんだろ?」
警戒網を薄め、健介は敷布団のカバーに手を伸ばした。鷲掴みにすると、指の隙間から空気をてんこもりに含んだ布団がにじみ出てくる。
見栄を張って嘘を付いているのなら、触り心地はどうしても固くなる。ソフトクリームの舌ざわりにするには、それなりの労力を払わなくてはならない。
悠奈は全身を脱力させ、自然体で敷布団へと飛び込んだ。
「ばっしゃーん……。これも柔らかいね……」
「添い寝はお断りだからな。寝相で、首の関節固められたら敵わない」
飛び込んだ姿勢のまま、同級生の幼馴染は足をばたつかせる。クロールと名付けるには、余りにも汚い泳法だ。人ごみの上を突破するには最適解なのかもしれない。
身体を反対側に避難させた健介など眼中に無く、悠奈は自らの家にある敷布団に顔を埋もれさせていた。
「そういえば、ほんのりと甘い柔軟剤はがするんだよな……。もしかして、高級なやつだったり……」
「柔軟剤……? そんな本格的に洗濯するの、滅多にないけどなぁ……」
クエスチョンマークを頭上に浮かべた悠奈が、空気の泡で肌触りの良い布団に浸る。意識を心地よさに吸い取られたのか、ろれつがあまり回っていなかった。
……そりゃ、敷布団を毎日洗ってたら時間が足りないんだけどさ……。
健介の胸中に、糸が絡まり合った毛玉が生み出された。
改めて、枕から頭を外し直接寝転んでみる。
敷布団からは、僅かに例えようのない甘さを嗅ぎ取った。柔軟剤の芳香でないとすれば、このにおいの正体とは。
押し入れの最下段に沈んでいた布団だ、日常的に使ってはいないだろう。擬似的に甘い死臭を漂わせる、新種のダニでも発生したのだろうか。
「……これ、押し入れの下にあったやつなんだけどな……」
「私はあんまり感じないけど……。何かここに……」
溶けて布団と同化しそうだった悠奈が、上体を跳ね上げた。言葉が途切れて、日本語でない言語を操っている。
健介がじっと観察しようとすると、悠奈が顔をそむける。扇風機で冷却されたはずの頬も、また熟れて暖色が灯っていた。
……羞恥心なんて子供時代に置いてきた悠奈が、なぁ……。
運動後に全身が温まっている姿は見たことがあっても、恥ずかしさで赤く染まった彼女は記憶にない。強いて挙げるのなら、偽かどうかも分からない春の告白だろうか。
砂糖水を零したのであれば、アリが群がる。お香を部屋で焚いたとも考えられなくはないが、それでばにおいが薄すぎる。
「悠奈でも分からないのか……。これ、誰かが匂い付けしたんじゃないのか……?」
「……皆まで言わさないで!」
ご乱心か、脳が酸素不足で異常をきたしているのか。悠奈は、健介の顔に覆いかぶさってきた。
彼女の重みから脱出しようと体を回転させようとした健介。だが、
……この部屋、狭い……。
所々に粗が目立つ白壁が、天井までそびえ立っていた。体当たりしても、破れそうにない。
たるんだ悠奈のパジャマが、呼吸器官に肉薄する。二つの彼女が為す山は頭頂部のもう少し先にあるようだ。
「……ほら、これで何かわかったでしょ……」
「何が……? 精神科の先生、救急外来してなさそうだけどな……」
「……ふとんのにおい!」
風呂上りでまもない蒸気とは別の、何か甘いもの。胸を膨らませる毎に、脳をドーパミンに浸らせるものが健介の鼻腔をくすぐった。
女子の体臭など、人の面前では嗅がない。においフェチでもなければ特殊性癖も生まれつき備えていない健介には、それをする動機がそもそも生まれてこなかった。
身近で飛んで跳ねる女子は、二人だけ。錯乱して自らのにおいを押し付ける暴挙に出た悠奈と、今頃和室でライバルの帰りを心待ちにする麻里だ。
一定距離を置いて彼女らと接してきた健介は、体から発せられるにおいを感じなかった。汗でびしょ濡れになった後の生乾き臭は漂ってきたが、ナチュラルなものはこの方知覚したことが無い。
……悠奈のにおい……、布団に残ってたにおい……。
新たなピースが与えられ、ジグソーパズルの絵が完成した。
「……まだ言ってなかったけど、敷布団を毎日ローテーションしてる……。健介がさっきから『あまい』っていうのは……、その……」
「言いたくないことは言わなくていい」
態度で表すのは積極的でも、いざ言葉にするとなると奥手である。声に出して物事を確定させるのは、年頃の女の子にとって酷なことなのだろうか。
ハニートラップで健介を乗り気にさせようとしても、こちらは警戒網を一年前から緩めていない。多少のお誘いには付き合うが、裏世界に引き込まれそうになれば即座に警察を呼ぶ。
……悠奈も、必死だな……。
ノルマを達成しないと上の立場から怒鳴られてクビになる、と懇願されても道場出来ない。
過去の事と言えど、一度恋愛で振られた身。幼い夢見る期待は、どぶ川に放り投げてきた。
「……ちょっと、長居しちゃったね。……ああ、何やってるんだろ、私……」
ようやく我を取り戻した悠奈は、頬っぺたに根性を入れなおした。暴走で同級生の男子を轢きそうになった戒めである。
溶けあおうと迫ってきた時は追い返すが、いざ離れられると引き留めたくなる。人間が持つ孤独で暮らしたくない習性は、健介にも働いていたのだ。
夜を共にする意欲は、重過失の事態収拾に使われてしまったらしい。
悠奈は後ろを振り返ることなく、扉の前に戻った。
手を掛けていないのに、ドアノブが勝手に回り出した。無音で忍び寄る謎の人物に、仁王立ちで瞑想する悠奈は気付いていないようだ。
部屋のロックが外れる音がして、廊下へと繋がる扉が開け放たれる。
「……健介くん、お忍びでー……。……多田ちゃん、帰ってくるの遅いと思ったら……」
「マリちゃんも、これで同罪だね。でも残念! もう健介はおねむみたいだよー?」
ちゃっかり犯罪の衣服を着させ、自らの安全を確保した悠奈。心臓が飛び出る緊張が神経に伝わって
いるはずだが、一匹狼を貫く幼馴染は強かった。
……ここは、大人しく従うか……。
欠伸のひとつもかいていない健介ではあるが、不意に悠奈の足を掬うと麻里が侵入してくる。そうなればもう睡眠どころでなくなり、翌朝目の下にクマができるだろう。
掛け布団を引っ張り、全身を覆い隠した。
「……お騒がせして、ごめんねー……」
騒がしい二人組は、もんどりうって和室へと引き返していった。
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