033 ゴキブリ
二人が連行された先は、裏方で日差しが当たらない路地。裏家業の人間が出没してもおかしくない。邪魔者を処理するのにもうってつけだ。
道中、悠奈の無念を散々浴びせられた。我流でブロックを積み重ねてきた果てがあのような胸糞結末では、同情したくもなる。
……あの罠を仕掛けたのは、俺たちだから、な……。
市販品の発注ミスで廃棄される食品とは違う、世界唯一の背景が手作りには付く。製作者の思いや掛けた時間は、インスタント食品で味わえないものだ。
「……マリちゃんも健介も、どうしてここに連れてこられたか分かるよね? いい加減大人になったんだから、自立してくれないと」
「……言う事なら、何でもするから……」
麻里の獣に震える目は、誘拐された被害者そのもの。交番に駆け込んで、形勢逆転を狙うギャンブル魂は高校のロッカーに忘れたようだ。
罪状は、悠奈をゴキブリ呼ばわりしたこと。事実に反さず彼女の特長が良く出ているのだが、如何せん印象が最悪だ。手錠でてのひらを貫こうとしたのも理解できる。
ゴキブリと言っても、家の中で繁殖する厄介者と自然でのんびり生活する組との二種類に大別される。前者が、トラップや殺虫剤で駆除されるべき害虫だ。
鉄の輪っかに鍵をぶら下げた悠奈が、高々と救いのカギを持ち上げた。鍵先をへし折られてしまうと、社会復帰が不可能な事態にまで追い込まれる。
「……多田ちゃん、やめて……。もう、爪の裏に針を差し込むのはやめて……」
手首に取り付けられた手錠は、鎖で逃げられないようにしてある。脱走する素振りを見せれば、即座に鉄拳制裁が飛んでくるだろう。
麻里が、デコボコのコンクリート道路に額をこすりつけた。うめき声を僅かに喉から出し、プライドもかなぐり捨てて土下座をしていた。
……無条件で、麻里みたいなのが土下座をするのか……?
正面から見下ろしている悠奈には見えない裏の顔が、健介には見える。地面に垂れた頭で隠れている目は、もう臆病な子羊を脱していた。
従順な姿勢を見せつけておいて、無防備な姿を晒す瞬間を待つ。天啓の時が来たれば、悠奈を制圧する魂胆である。
武力さを鑑みると、成功確率は隕石が降ってくるよりも低い。麻里がこの気休めを実現させたのなら、健介は宝くじを破産するまで買うに違いない。
「そんなこと、してないよ? ……もしかして、マリちゃんはドM?」
「……クラスを仕切ってるだけで、イジメないで……」
良識を持った通行人を、麻里は待ち望んでいる。携帯を開いて警察に通報する展開を見据え、ライバルに屈辱を味わさせられている。
「そっか……、マリちゃんはいっつも嘘をつくんだってね……。許せない……」
「……いくら私と健介くんが悪いからって、前途有望な若者の夢を断つのはダメだよ! ……誰か、助けてよ……」
大根役者ナンバーワンに満場一致で選ばれる、麻里の役者っぷり。陳腐な言葉で、観客の涙腺を爆破はさせられない。
麻里が、健介をちゃっかりと処罰の対象に含めている。策が不発に終わった場合に、刑の執行を半分ずつに分散させたい心が見え見えだ。
……会話、噛み合わないな……。
懺悔のアピールは、怒り心頭で過呼吸気味の悠奈に跳ね返された。象の皮に注射器の針を刺そうとしても、ひん曲がって血管に入らない。
「私が、一番許せないのが……」
悠奈の手が震えて、手錠を繋いでいる鎖がぶつかり合う。記憶を振り返るたびに激しい感情が脳を支配するほど、彼女の溝は深い。
……ゴキブリ呼びは、許されないよな……。
長所か短所か問わず、ゴキブリは殺さなければならない対象。人を害虫になぞらえるのは、陰湿なイジメとも捉えらえる。
これを聞くと意外かもしれないが、悠奈は凄惨なイジメに巻き込まれた過去がある。独自路線をいく彼女を良く思わない勢力が、女子総出で会話を断じたのだ。
ただでさえ一人行動をしたがった悠奈は、グループから追い出されたのを機に殻へ閉じこもってしまった。健介が機転を利かしてハンマーを持ってこなければ、心まで氷に閉ざされていただろう。
自身がいじめられた経緯もあり、とりわけ一人を孤立させる流れには逆らう。何重にも張り巡らされたバリアを、竹やり一本で助けに行くヤツなのだ。
悠奈が、利き足を地面に打ち付けた。余りの轟音に、呑気に木の枝でさえずっていた小鳥が翼を広げて飛び去った。
「……ゴキブリを悪いイメージで使うなんて、許せない!」
「……はい?」
「ゴキブリなんて言ってごめん……え?」
頭の記憶が、白ペンキに染まった。とどめておいた謝罪ワードもすべて吹き飛び、すっからかんになってしまった。だからUSBは抜く前に確認するよう張り紙をしておいたのだ。
キャベツとレタスを間違えるのは、商品ラベルを確認しない阿呆だけ。そのように想っていた自分が、恥ずかしくなってくる。事実、悠奈の怒りを取り違えているのだから。
「……ゴキブリは、生命力が強くて、食べ物とか水分を取らなくても生きていけるんだよ? 私が生き物の能力を貰えるなら、ゴキブリ一択になるかな」
「頭から触覚も生えてくるけど?」
「……触覚が生えちゃ、ダメかな?」
悠奈は、流れてきた桃を洗わずに食べる考え無しではない。インターネットで種類を調べ、最適な食べ方を知識に詰め込んでから食卓に並べる。桃太郎も、彼女が拾っていれば安全に取り出されただろう。
根拠のある情報を基にして判断するスタイルは、ゴキブリが対象であっても変わっていない。特徴を淡々とメモに取り、総合的な良し悪しで分類するのだ。
悠奈がゴキブリの能力を手に入れたとすると、世界は破滅する。ホワイトハウスに単身で乗り込み、対空砲などものともせず大統領の首を掻っ切ってしまう。機関紙の号外で討ち取った首が晒され、世界の秩序は混沌と化す。
……それだけは、避けなきゃいけないな……。
秘められた力を行使させないために、健介は彼女の触覚を握らなくてはいけない。右に倒せば、悠奈は右に曲がってくれる。
「……今年のヘアスタイル、ゴキブリの触覚が流行らないかな……」
「流行るとしても、ゴキブリは無い」
「どうして!? 合体したら最強になれるのに?」
ムカデやクモを捕まえて、観察のためにポケットに入れる逸材だ。冷蔵庫の下からゴキブリが出てきたとしても、躊躇いなく正義執行で茶色のギトギトした背中を真っ二つにする。
ゴキブリ撲滅業者の代わりに、悠奈が仕事を受け持つのはどうだろう。本人を被害宅に派遣し、ゴキブリを皆まで叩きのめせば依頼終了。本部に、お金がたんまり舞い込んでくる。
ただし、彼女の安全意識が稼業の成功を邪魔するかもしれない。
不衛生な場所を住処とするゴキブリは、重病を引き起こす病原体がくっついている可能性がある。身をわざわざ危険にさらす行為を受け持ってくれるとは思えないのだ。
健介にとってメリットしかない提案は、してみるに限る。
「……悠奈、ゴキブリ退治の会社を立ててみないか? 虫に動じない悠奈にピッタリだと思うんだけど」
「……きゅうじゅう!」
謎の数字を提示して、悠奈は手を伸ばした。敷金として、最低限の給料を払えと言う事か。残念ながら手錠で塞がっていて、財布を持ってこれない。
『きゅうじゅう』を解読しようとすると、単位を付ける必要がある。
九十円で働いてくれるとは、願ったりかなったり。今月発売の漫画があと九十円で買えるのだろうが、目先のエサに釣られると損をするいい例だ。
「財布、手錠で取り出せないんだよ……」
正義執行を待つばかりの容疑者に、偶然のチャンスがやってきた。手錠を外してもらい、金を押し付けておさらばするのだ。取引で健介を身代わりに差し出した麻里は、地獄で血の池にでも沈んでいればよい。
悠奈は日本語が日本語に翻訳できなかったようで、頭上にはてなマークを輝かせて首を傾げた。正答率が百にならないのは、彼女のような日本語を読めない受験者がいるからである。
「……私の取り分が、きゅうじゅう。残りは、資本金として会社に入れるんだよ?」
「……俺の取り分は?」
「なーし! 働かざる者、生きるべからずー!」
悠奈を言いくるめるには、あと五十年修行が必要なようである。
ゴキブリ編終了です。
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