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032 背後にご注意

 ゴールデンウィークが、間近に迫っている。こうなると生徒の気分も高揚するようで、この間は休み時間にはカラオケ大会が自然発生していた。


 交通の便は、そこまで悪くない。首都圏の線路に転落した人を助けない本数は真似できないが、雑草が線路に生い茂るほど廃れてもいない。


 決まった活動時間がない帰宅部は、それぞれが重い想いの時間に下校する。連絡を取り合うのチーム戦は、今まで一回も耳にしたことが無い。


 ……運動部は、夜まで平気でやるからな……。


 テスト期間前は部活動が禁止になるのだが、悪しき慣習によって長時間練習が横行している。悠奈も、テスト対策をして深夜まで机に向かい続けなければならない、と不満を口にしていた。


 悠奈に誘われて、練習を一度だけ見学したことがある。グラウンドのトラックを延々と集会させられるだけの単調な光景で、欠伸を連発して咎められた記憶が蘇った。


 長距離担当の彼女は、スタミナも人一倍優れている。エンドレスマラソンでも、女子部員の中では一着を獲得していた。麻里がサッカーの才能を授けられたのなら、悠奈は足の筋肉が特殊構造に改造されているのだ。


 反面、短い距離のダッシュは全員に抜かれていた。エンジンのかかり始めが遅い自動車は、人間に敵わなかった。


 ……俺、悠奈に徒競走負けたんだけど……。


 健介のアイデンティティは、消滅の危機に瀕している。


「……そんなに浮かない顔して、どうしたの? ……素直になっちゃおうよ」

「悠奈の振りして騙そうとしても、俺は全てお見通しだぞ」


 悠奈を被っているのは、クラスの覇王麻里である。


 帰宅部で例外的に、健介と麻里は下校路がほぼ同じ経路をたどる。麻里が積極的に声をかけてくることもあって、今やこの並びは見慣れたものだ。


「……突然だけど、多田ちゃんってゴキブリだと思わない? 汚いわけじゃないよ?」

「……多田ちゃん……?」

「敬語で呼びたくなかったから」


 地位を落として不満なしの麻里だが、彼女は自身を液体コンクリートへ埋めているのに気付いていない。


 麻里は、かしこまってさん付けすることで自らのテリトリーから悠奈を遠ざけてきた。住む世界をジェット噴射で分離し、安全を確保してきたのだ。


 ……むしろ、印象が柔らかくなってる……。


 『ちゃん付け』は親しみを込める呼び方であって、蹴落としたいライバルには不適である。


「ゴキブリって、何処にも出てくるんだよ。……私の家だって、小っちゃい頃にゴキブリが大量発生して大変だったんだから!」

「……お金持ちの家のはずでは……?」


 神出鬼没で有名なのは、全世界を包む情報網で健介を追尾する麻里ではないだろうか。遠回しにゴキブリ宣言になってしまっている。


 ゴキブリの侵入口は、玄関や開け放たれた窓、果てには排水溝まで多岐に渡る。麻里が数の暴力以外で取り得る手段より手数が多そうだ。


 侵入者を取り逃さない強固なセキュリティシステムを配備させているのに、ゴキブリ如きに侵入されるようでは警備替え者を訴えた方が良い。


「と・に・か・く! 生命力の強いゴキブリって、どうやったら退治できるのかな……?」

「悠奈をやっつける……ってことか?」

「鈍いなぁ……。ゴキブリのやっつけかただよ!」


 面から指を差されると、辱めを押しつけられた気持ちになる。小学校で答えが分からない度に、名指しで批判された暗闇は現在まで背後を追いかけてくるようになってしまった。


 麻里の言わんとすることは、悠奈の代名詞としてゴキブリを使えと言うことなのだろう。陸上部に所属する正義人がいつどこで聞き耳を立てているか分からない、安全のためには仕方ない出費か。


 ……あんまり悠奈の悪口を言いすぎると、俺の良心が……。


 十年以上昔から、近場で悠奈と接し続けてきたのは、他でもないこの健介だ。公然と彼女を汚す言動は、部下呼び出しボタンを携帯する独裁者と対峙しても致しかねる。


「あのゴキブリ、殺虫剤を吹きかけてもひっくり返らないんだよ? 新聞紙で叩き潰しても、いつの間にか復活してるし……」

「そのゴキブリに逆襲されて目を回してたのは誰だったかな……」


 殺虫剤は、人間に効かないよう作られている。部屋に散布して、ゴキブリも人も地面に転がっては意味が無い。


 新聞紙は、強度として鋼鉄の刃に劣る。両者が空中でぶつかっても、火花を出さず紙の筒が真っ二つになってしまう。


 麻里は、罠を仕掛けてはすり抜けられ、ゴキブリの大軍にたかられる。既定路線は、分岐器を作動させたくらいでは切り替わらない。


「あれは……、飛行機酔いしただけだよ?」

「ふーん、悠奈に近づかれたくらいで地面に突っ伏せるんだ」

「だから多田ちゃんはゴキブリだって!」


 ……おい、どうなっても知らないぞ……。


 健介の後ろに、人影は見えなかった。空っ風が、木の葉を巻き上げて街道を抜けていく。


 電柱が一本も建っていない一本道だ、跡を付けられているとは考えにくい。スパイに選ばれる卓越した訓練を受けていなければ、尾行は不可能である。


 しかしながら、目を離すと悠奈は忍び寄ってくる。会話に夢中で意識を許すうちに、気配を消して背後に並んでいるのだ。


 ……飛行機酔い、ではないよな……。


 狂乱のまなざしで胸に風穴を開けられ、麻里の心には恐怖が植え付けられた。女子とは言え高校生を頭上で曲芸に強制参加させるのは、鋼メンタルの悠奈だからこそし得る技なのである。


「……健介くんも、一個くらいは解決策、出してほしいな……」

「俺が出すのかよ……。……ゴキブリが集まってくるのは、においによってくるからだろ? つまり、俺から離れればいい」


 食べ残しのエサに、ハエは群をなして襲来する。得た栄養分で卵を大量に産み付け、次世代の災害へと繋げていくのだ。


 ゴキブリが増殖するのも、発生源を断てていないから。個体の住処となる巣が、形成されるからだ。


 ……それは、俺のことなんだけど……。


 ゴキブリ養殖機こと健介は、あらゆる害虫を呼び寄せる生ごみ入りのゴミ箱らしい。その証拠に、一匹狼や孤独な独裁者が寄ってくる。


 麻里から悠奈を切り離そうとすれば、即ち健介が乗った宇宙船本体を分離することになる。エンジン非搭載の居住空間に取り残された健介と付いてきた悠奈は、数日もしない間に酸素が尽きてロウソクの火が消えてしまう。


 宇宙船内部で火事が発生し、別室に二人の乗組員が孤立している状況で、緊急脱出のボタンを押すことが出来るか。無謀な消火活動を切り捨て、仲間を永遠の藻屑としてパージさせられるか。


 麻里は、悠奈を消す機会を幾度となく得てきた。ひっそりとした階段の上で、背中を押せた。裏バレンタインデーで、地面に落下した悠奈の手作りチョコを踏みにじれた。


 彼女は、その可能性を自ら消したのだ。感情を月へ置いてきた機械には徹し切れなかったということだ。


「……健介くんと繋がってる、赤い糸を切る? チェーンソーで、むちゃくちゃに……?」

「赤く染まってるの、血の色じゃないだろうな……」

「いつどこで、私が手を汚した……って言うの? 愛情で燃える赤色だよ?」

「途中で詰まらなかったら信じた」


 肝心なツメが甘いのは、お嬢様のゆとり気質から来るものか。悠奈の名前を口に出すとわめきだす短気な麻里も、心の器は大きいのだろうか。


 赤い糸は、手芸屋に足を運ぶと陳列されている。争いで流された血でも、愛情の昂りで赤く染まったのでもなく、最初から赤に着色された糸なのだ。


 ……もしかして、家庭科の時間にチェーンソーを?


 糸切りバサミを失くした代用品が回る鉄の歯とは、相当過激なお方のようだ。チェーンソーを持ち歩きたいのなら、都会とサヨナラして、森林に住居を移すべきである。


「……もっと、多田ちゃんを……ゴキブリ退治の方法はあるはずなんだけど……」

「……そうだね、マリちゃん。やっと、打ち解けてくれて嬉しい……」


 想定される最悪のパターンで、悠奈が麻里に張り付いていた。悠奈をゴキブリと言いなおした以上、言い訳にも逃げられない。


 正義執行官は、逮捕状無しに独裁者の手首へ手錠をかけた。警察官ではないので、職権乱用には当たらない。


「……さ、マリちゃん。一緒に来てもらおうねー。良心が、痛まないのかな……?」

「け、健介くんも共同犯だよ!? 健介くんがお咎めなしなら、私も同じにしないと……」

「そうなんだね、密告ありがとう。……健介も、一緒だね!」


 麻里にさらさら加担する気がなかった健介までも、司法取引のとばっちりで身柄を確保されてしまった。虚言癖の仲間に信用を置けないのは、いとも簡単に供述を翻す麻里のような人がいるからなのだ。


 二人の侮辱犯を捕獲した悠奈は、至って冷静だった。はらわたは正義への侵犯で煮えくり返っているだろうが、表情の上では平静を保っている。


「……裏バレンタインデーの清算が、まだだったね……。……私が、一晩悪戦苦闘して作ったチョコレート……」

「レシピを読み返しても成功しなかったから、夜明けまでかかったんじゃないのか、それは……。それは俺たちの責任じゃないだろ」

「……でも、台無しにしたのはマリちゃんと健介だったよね……」


 悠奈から、一切の色彩が消失した。子供向けの塗り絵に載っていそうな、輪郭で描かれた白黒女子が、何もない地を見つめている。


「……あれ、司法取引は……?」

「私、一言も解放するなんて言ってないよ……」


 弁明の時間が与えられることなく、健介と麻里は治安維持隊の隊長にひっぱたかれて行ったのであった。

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