002 どの口が言うんだ
「……ええっ……」
安牌の申し出が一刀に斬り捨てられたことを、まだ掴めていない様子だった。腹の足しにならない虚空を吸い込んでは、無い翼を羽ばたかせようとしている。
密閉されたガラス部屋に閉じ込められることを想像したくはない。有限の酸素を使い果たし、生き永らえようと伸ばした手が地に落ちてしまう。すなわち、窒息である。
悠奈は、脱酸素剤と抱き合わせで部屋に詰め込まれていた。残存する空気などありやしないのに、口をパクパクさせている。
言葉を成さない喘ぎ声が、床の上を流れて行った。女友達のいない生徒に有料で販売すれば、ビジネス化も可能な声質であった。
……それでも、俺は何も感じない。
悠奈が『友達』という概念を逸脱してしまったのではない。腐れ縁とは言え、幼馴染の間柄が数分で崩壊するほど薄情だという自覚はないのである。
過去のことを、健介は水に流せなかった。至極当然のことだ、告白を拒絶されたのだから。
彼女が振った事実を覚えているのかどうかは、尋ねるまでも無く明らか。能天気に空教室へと呼び寄せ、あろうことか告白するとは思わなかったが。
「……どこが、悪かったのかな……? それを言ってくれるなら、私努力するから……」
「そんなものも覚えて無いのかよ……。全く、手に負えないおてんば娘だなぁ……」
机に待機させてあった通学カバンのサブポケットから、健介は色あせた白紙を取り出した。燃え滾る想いを捨てられなかったあの頃の遺産である。
丁寧に折りたたまれていた手紙を、傷つけないよう開封していく。
加害者は気に留めていなくとも、被害者の心には返しの付いた矢が突き刺さっているのだ。力づくで引っこ抜こうとすれば、抉り取られた血肉で手が汚れてしまう。
人間の脳は、コンピュータのメモリと同じように作られていない。新規プロジェクトに記憶が上書きされることは無いのだ。
折り目が網目に連なった手紙には、ワープロのそれとは異なる字が並んでいた。インクはとても薄く、軽い感情で書き綴ったものと簡単に想像がつく。
「……これ、何の手紙……?」
「しらばっくれても無駄なんだよ。悠奈のノートと照合したら、だいたい一致したんだから……」
言い訳はさせない。捏造だと信じて疑わないのなら、健介もとことん付き合うだけだ。
古ぼけた紙切れを手から奪い取った悠奈は、充血した目で字体を焼き入れた。ボールペンで書かれていようと、彼女直筆の手紙だということに変わりはないはずだ。
栄養に恵まれてすくすく育った手は、不規則に振動していた。この動きをするグラフは、まだ習ったことがない。
悠奈の目からは、水の大軍が泳ぎ出ていた。涙のモトで偽造した代物か、はたまた本心が訴え出た証なのか。健介の及ぶ範囲で、彼女を断罪する行為はできない。
「……これ、私の字だ……」
「そうだよ、悠奈の字。一年前、俺の下駄箱に入れられてた」
「でも、私は……」
「この手紙が、動かぬ証拠だろ? 他の人の告白を拒否しようとしてた、なんてシラ切りをしても無駄だぞ。ここに、バッチリと俺の名前が書かれてるんだから」
修正液の使われていない、『健介へ』の宛先。悠奈の過去を語っている、揺るぎない物品だ。
この手紙事件から立ち直るのに、長い時間を消費した。償ってほしいとまでは熱望しないが、二度過ちを繰り返そうとするとなれば別の話である。
……悠奈、その気持ちは本心か……?
自分で編んだと自慢していたハンカチで、悠奈は悲観の粒を拭き取り続けていた。演技部にコツを教えてもらっていたのだろうか。
内なる彼女が健介に恋していたとして、健介に受け入れる義務は無い。それが一度興味を失ってしまった『元』想い人なら、当然だ。
「……おかしいよ、こんなこと……」
「おかしくなんかない。不思議なことじゃない。引き金を引いたのは、悠奈だろ?」
時空が歪んだ空間を生み出したのは、昨年の悠奈である。
あさっての方向に撃ったはずの弾丸が、地球を一周して自身のこめかみにクリーンヒットしたのだ。驚くのも無理はない。
それでも、健介が受けた深淵の苦慮と比較すれば十分の一にも満たない。
相思相愛だと考えていた相手に、鉄槌を脳天へ食らわされた。この一文だけで、健介がナイアガラの滝へダイブさせられたことが分かるだろうか。
……恋愛に疎かった自分が悪いのかもしれないけど。
恋愛や結婚をSF映画と釣り合わせていた健介に舞い降りた、突然の機会。同じクラスになったことで交流が生まれ、自然と親密度も上昇していった。
後の展開は予測できないものになったが、確かにあの日々は心地よかった。永遠に続いていくものだと楽観視していた。
「……この手紙、いつ?」
「そんなことも覚えて無いのかよ……。去年の梅雨だよ、悠奈が傘忘れた次の日」
当事者という人は、いともたやすく出来事を忘れてしまうものなのか。薬物乱用で何もかもスッキリしてしまったのなら辻褄が合う。まさかそんなことはしないだろう。
前日に、健介は相合傘をしてやった。いや、悠奈の方が飛び込んできたので、『してやった』には語弊がある。
雑音がシャットアウトされた、傘の下のスキマ時間。着実に友情が育まれている、と世間の現実を知らないボンボンはプラスに捉えていたものだ。
物事がうまい具合に進む感覚が、どうにも懐かしい。夏休みに忘れてきてしまった麦わら帽子のようだ。
悠奈の目は、赤く膨れ上がっていた。ハンカチでこすりすぎて、炎症でも起こしたのだろう。
……悠奈と俺、どこから歯車が狂って行ったんだろうな……。
最初から、恋に発展する間柄ではなかったのかもしれない。幼馴染など、普通は高度に張り巡らされていかないものだ。
余分な欲望をそぎ落とした、頼れる相棒として歩んでいく未来を選択していれば、絶望も訪れはしなかっただろう。
「……今更、何を言っても無駄なんだね……」
「……そういうことになるな……」
いたずらに事態を複雑化させるつもりはない。悠奈の非礼を超えた振る舞いを了承したくない、ただそれだけである。
「……時間をいっぱい使わせちゃって、ごめんね……」
肩を落として、バッグを背負いなおした悠奈。手の甲で無言の挨拶を交わし、不協和音を奏でて教室を後にしていった。
彼女の後ろ姿が干からびて役目を失ったスポンジだったのは、きっと気のせいなのだろう。
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