012 事前交渉はいけませんよ
「中学校まではサッカー部だったよ。……マネージャーと間違われて、結構腹が立ったの覚えてるなぁ……」
中学校の部活に『マネージャー』の役職が用意されていることにも驚くが、希望を聞かずに決めつけるのは多様性を阻害していないのか。時代遅れの知識は、常に最新型へアップデートしておく必要がある一つの事例だ。
現役時代を思い出して、麻里が駆け足になった。それも、サッカーボールを保持している前提での動きだ。猫を彷彿とさせる俊敏な足さばきで、健介は付いていけなった。
「……健介くん、意外と力ないんだ。女の子の私についてこれないのは、怠慢じゃない?」
「それは、他の男子にためしてから言ってくれないかな……」
有名なプロサッカープレイヤーでも、彼女の瞬間移動をマークし切れない自信がある。天から授かった能力は、努力型人間を凌駕するのだ。
ここまでくると、一個の膨らみ続ける疑問が生まれる。
……なんで、帰宅部なんだ?
フットワークの軽さを見た感じでは、足を故障して引退したのではないはずだ。素人の段になって申し訳ないが、ユースの日本代表に選出される力は確実に備えている。
「今からでも遅くないから、サッカー部に入部したらどうなの?」
「……危ない競技はするな、って、親に……」
麻里は、明後日の方向を見つめていた。別の世界でフィールド上を駆け回る自分を想像して、ギャップを胸にしみ込ませているのだろう。
サッカーに限らず、スポーツはケガの危険性が常に付きまとう。過保護な対策をしても、不可抗力で傷つくことは対処のしようがない。
だとしても、その危険を排除しようとして本人の意思を奪うのは親として許される行いなのか。第三者から異常だと思われる行動は、してはいけないのではないか。
……俺が口出しできる事じゃないけど。
麻里も、敷かれたレールの上を思考停止でひた走っているわけでは無いらしい。
「……体育の時間に私の華麗なテクニックをお見舞いするから、腰を抜かしてね!」
「男女で競技が分かれるから、一緒には出来ないんだよ……」
一年生の選択授業で、サッカーの欄は除外されていた。麻里が活躍できる場が、ことごとく消滅していたということだ。
どんな形であれ、友達が天職で天使の舞をする姿は美しい。応援していきたくなる。
小石に思わぬ時間を抜かれてしまったが、麻里の本題は『裏バレンタインデー』についてである。
「……そろそろ、本題に戻らないか? ただ雑談するために来たんじゃないだろ?」
「察しがいいね、健介くんは……。派閥の下の子も、健介くんぐらい要領をわきまえた子だったらなぁ……」
彼女の示す要領とは、お上の意見を汲み取って下っ端に普及させる能力の事。日本人が得意とする、空気読みだ。
クラスの派閥は、下手をするとブラック企業より厳しい労働環境かもしれない。無給で上層部(麻里)のために努力とお世辞を口にしなければらないストレスは、多大なものだろう。
……もしかすると、俺も通り魔に襲われる……?
番長を張っている麻里と健介がよくしゃべるのは、クラス全員に周知の事実なのだ。積もりに積もった不満が爆発して、矛先が健介に向かってくることも十分に起こり得る。
健介とて、派閥が制定した規則から逸脱する権限は持っていない。彼女らの機嫌を損ねれば、たちまち鉄拳制裁と退場処分が科される。表世界からノックアウトだ。
「……食べ比べの判断をするのは、健介くんでしょ? だから、私に良くしてもらおうと思って」
いかにもわざとらしく、手の甲に麻里の体温が乗っかった。ひんやりとした春の気候に、ほのかな温かみが溶けて落ち着く。
「……麻里、ブツは?」
「ここにちゃんとあるよー」
時代劇のフリをして悪事から撤退させたあった健介だが、逆手に取られてしまった。
極悪商人の通学カバンから御形を覗かせたのは、殻つき落花生の袋だった。理系にしては歴史に詳しい。
権力層が腐敗した国家において、賄賂は官位取得に用いられる一般的な手段である。大臣は国民の民意ではなく、金の多さで決まるのだ。海外の救いようのない政府と比べると、日本は恵まれている。
健介は、私欲を入れずに平等を重んじる人間になろうとは思っていない。机上の空論では存在するとされているが、ドアを開けて外に出てみると現実を思い知らされる。
人間である以上、実利をエサにされると弱いのだ。贈賄は、不本意ながら本能を揺さぶる正しい戦術に分類されてしまう。
「……健介、どうかな? これだけあれば、私の勝ちにしてくれるかな?」
「……ちょっと待ってくれ……」
胃袋を掴んで首を縦に振らせたい麻里と、保留したい健介。醜い裏舞台の出来事である。
「……悩んでる時間はないよ。私に協力する? それとも、多田さんを裏切れない?」
「……言いにくいんだけど……」
「時間は有限なんだよ! 唸って苦しむなら、楽な方に流れちゃおうよ」
臆病な心を、禁断の選択へと誘ってくる。麻里に体が支配されていなくとも、根負けして手が汚れてしまいそうだ。
後ろからの足音で、大地が震動する。力強い地を蹴る衝突音は、徐々に大きくなってきた。麻里の手配した部下が、もうすぐそこまでやってきている。
健介は、腕を引き留める無難人間を振り払った。
「俺、ナッツ類全般が嫌いなんだよ……」
「……それは予想できなかった……」
麻里は、己の失策で口が開いていない。顔の筋肉をこわばらせて、目が飛び出す寸前まで押し出されている。呼吸音も、空気を伝って耳に入るようになった。
声の主は、聞きなじみのある幼馴染のものであった。
「……後ろをつけてたんだけど、まさか賄賂に走るなんてね……」
健介の後方から聞こえてきたダッシュ音は、異変を捉えた悠奈が動かぬ証拠を押さえようと動いたものだったようだ。
学校では互角に渡り合っていた麻里は、早くも逃げ腰になって通学用鞄を担いでいた。
派閥の大軍というバフが効かない帰宅路フィールドでは、純粋な戦闘能力で勝負が行われる。そうなると、生身の攻撃力が高い悠奈が優勢になるのも納得だ。
「話せばわかる……!」
「……問答無用だよ、マリちゃん? ……正義執行……」
伝説の起動ボタンがオンになった。もう、刑の執行を中止することは不可能だ。
電光石火の早業で、すばしっこく左右に揺れる麻里の腹に悠奈の肘がクリーンヒットする。サッカーで培った瞬発力を以てしても、正義感に駆られた悠奈の一撃を躱すことは出来なかった。
事後の路上には、下腹部を抱えた一人の悪役系お嬢様がアスファルトの上でうずくまるだけだった。
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