第2話「おめでとうございます!」
(1)
被害者支援特例法によって生まれた若年裁判官。
狩葉が現れてからひと月が経った頃には、クラス、いや学校中にその言葉は広まっていた。
高校二年の六月、冷房の利いた教室の中でモニターを差しながら社会学担当の木島教諭は言葉を紡ぐ。
「多様性を認める、という理念の元に生まれたのがこの『被害者支援特例法』だ。性差や宗教観の違いに民族の違い、多数者や少数者のバランス、様々な問題がある中で、この国では『被害者』と認められた者について一定の支援を行ったり、権限を持たせるということになった」
ちら、と良平が廊下側の席を覗くと、狩葉は今日も伏せて眠っていた。
ユマホを持っているだけで体力を使うから眠くなる、不可子がそう言っていたのを良平は思い出した。
「それも噂でしょ?」
と問う良平に不可子は、
「良くんはバッサリだねー」
と手のひらをパタパタさせながら笑っていた。
「本人から聞いてないことであれこれ決めつけるのは、なんか良くないなぁって」
「……うん、確かに。わたしが悪いね。……良くんはちゃんとしてるなぁ」
「いや、鮫島も心配してるんでしょ? 天野さんのこと」
「ううん、別に。良くんが元気ならそれでいいよー」
ひと月前の独裁で連行された二人は姿を見せないままで、二つの空席はそのまま残されている。
本当に一年の懲役が課せられたかどうかは分からないままだ。
ただ、初日の騒動以来天野はすっかり大人しくなって、最初の数日は怯えて静まり返っていた教室も今は活気を取り戻している。
やり過ぎだ、と狩葉が役人に叱られたという噂もあったけれど、真実らしい話を誰も耳にしていない。
被害者支援特例は一先ず法として定められたものの、まだまだ整備され続けている途中だ。
それでも、被害者に対して与えられる支援や権限は年々大きくなってきている。
昨今その中で特に問題とされているのは、どこまでを被害者として認めるべきか、ということだと木島教諭は語る。
「法制上、自然災害は被害に当たらないとされている。人災、つまり他者によって加えられた被害の内容と程度に依って被害者に与えられる支援、権限の大きさも決まるんだが──」
そこまで話した所でチャイムが鳴り、それが今日の最後の授業だった。
授業、とは言っても形ばかりのもので、タブレットさえあれば試験のための要点はたやすく把握できる。
学校に来てから帰るまで、生徒に求められているのは「適切な服装で大人しくしていること」だった。
「ホームルームはダルいよねー」
タブレットを弄りながら話し掛けてきた不可子に、良平は愛想笑いで応じる。
一年に一度のイメージチェンジで、彼女はショートヘアを明るく染めていた。
小学校に入学してから高校二年の今まで、奇跡的に良平と同じ教室に通い続けている不可子は「怠い」とは言いながらもいつも楽しそうだった。
良平を「良くん」と呼ぶ不可子に対して、良平はいつ頃からか「ふかちゃん」と呼ぶのをやめた。
誰に何を言われた訳でもないけれど、照れ臭いという気持ちに負けてしまったんだと良平は自覚していて、それでも「良くん」と呼んでくれる不可子のことを大切に思っていた。
「いつも楽しそうだよね、鮫島は」
「そんなことないよー。泣く子も殺す思春期だからね!」
不穏なことを言う不可子に苦笑を返すと、彼女は一層嬉しそうに、
「それそれ! その慈愛に満ちた笑顔がたまんないね!」
「……そう。それなら良かったよ」
にかっ、と音がするくらいの笑顔を浮かべて不可子は机に向き直る。
癒されてるのは自分の方だ、良平はそう心の中で発した。
ホームルームではタブレットをアップデートしておくようにという連絡と、被害者特例法とは別の若年裁判官を校内から一人選出するという話があった。
多様性社会の実現を目指すと共に生まれた「裁判官の不足」という課題を解決するモデルのひとつとして、本校が選ばれたということらしい。
ホームルームを終えての帰路、良平は通学に使っている十人乗りの乗合自動車のシートに座ってタブレットを取り出した。
国中の至るところを走っている乗合自動車には国民の誰もが好きに乗ることが出来る。
その上に通信環境も良く、良平の『切符』が埋まっている左胸の辺りを服の上からとん、と叩くとタブレットのアップデートはすぐに始まった。
昔の文化にもいいものはある、良平はそう思うけれど、確かに今は便利な時代だ。
(2)
翌朝、曇天を仰いで校舎に入り、着席してタブレットを起動させようとした時、校内放送が告げたのは良平の名だった。
「えっ!?」
がたっ、と机を鳴らした良平をクラスメイトが訝しげに眺めている。
「二年D組の平良良平君、至急指導室へ。繰り返します、二年D組の──」
機械音声が響く中で、良平の頭の中を過ぎるのは悪い想像ばかりだった。
(誰かに迷惑をかけただろうか……。何か叱られるようなことをしただろうか……)
指導室という言葉の響きから良平はそう思い、立ち上がって教室を見渡すと、三つの空席が目に留まった。
ひとつは狩葉の席で、あと二つは刑官に連れて行かれた二人の席だ。
嫌な妄想は膨らむばかりで、心臓の鼓動が聞こえるくらいに速まっていた。
「なんかしたのー? ……良くん?」
心配するような不可子の声に、良平は無理矢理作った笑顔で応えた。
(鮫島を心配させちゃいけない!)
「ちょっと行ってくるよ」
可能な限りの軽い声音でそう言って、良平は指導室へ向かって歩き始めた。
(お天道様が見ているからね……)
いつ、誰が言っていたのか覚えていないその言葉を胸の中心に抱えて、良平は今まで生きてきた。
ゴミを拾うとか、他人の荷物を運ぶとか、そんなことは当たり前で、感謝される謂れなんかない。
大きなお世話だ、と返されることもあって、その時は心底申し訳無い気持ちになった。
けれど、それで自分が損をしたなどと思うこともなかった。
自分にとって得だとか損だとか、そんなことは考えずに生きてきた良平が、今焦っているのは──
(鮫島を不安にさせちゃいけない……!)
それだけだった。
(何かの理由で叱責されたら謝ろう。自分に非のないことだったら、ちゃんと説明しよう。教室に戻ったら「大したことじゃなかったよ」、そう鮫島に話そう……!)
教室から廊下を東側に進んで、生徒指導室は突き当たりにあった。
良平はひとつ深呼吸をして、それからおそるおそるドアをノックする。
タブレットを起動させる時と同じように優しく、こん、こん、と叩くやいなや、
「どうぞ!」
聞いたことがないくらいの明るい声に驚く間もなく、内側からドアが開かれた。
良平はもう一度、深く呼吸をして、忍び足で入室する。
広くはない殺風景な個室の中、暗い表情を浮かべた担任の木島教諭と狩葉が奥に立っていた。
ドアを開けたのは見覚えのある白いスーツ姿の女性だ。
良平は訳が分からず、相手の言葉を待つしかなかった。
「初めまして私超等裁判所独裁官三町ネコと申します単刀直入に申し上げます平良良平さん!」
「は、はいっ!」
早口の大声で名前を呼ばれた上に指まで差されて、良平はぴんっ、と背筋を正してしまう。
(超等裁判所って、天野さんと同じ……)
そこまで良平が思考を巡らせた所で、三町と名乗った女性は捲し立てるようにこう続けた。
「若年裁判官登用制度! 通称ジャッジメイト制の独裁官にあなたは選出されました! おめでとうございます!」