4. 朝の一品、炒り卵
今日はいつもより早く学校に行くことになるために靴下を早めに履いていた。
それが悲劇を生むことになる。
何かを踏みつけた感覚がして、廊下を見ると、ミル姉が吐いた後が残っていた。
掃除は美成姉の役目だったためにサボっていたことが一目瞭然だ。
少しイライラしながら、美成姉の到着を待つ。
「おはよう」
いつもの朝であるはずが僕のイライラ具合を見て、察したらしい。
「ごめん。今片付ける」
「何で昨日の夜に片付けて置かないんだよ?」
「お風呂に入った後って嫌じゃない?」
「朝はもっと嫌だよ。さっさと片付けて置かないから、こんなことになったんだよ。美成姉はもっと物事をちゃんと考えるべきだよ!」
「ごめんって言ってるよね?」
その低い声に黙り込む。これ以上せめていいことはない。
「ケンカは止めてちょうだい」
母に聞こえてしまったらしく、後悔という言葉がテロップのように脳内で流れる。
「ケンカばかりしているから、家を出たくなるのよ。お願い。ケンカしないでちょうだい」
母が誰かが争う声は聞きたくないと耳を塞いでしまったのは、春の訪れを告げる桜が咲いた週だった。ずっと我慢していたのかもしれないが、母の心は限界に達していたようだった。
父の転勤と自分の更年期障害が重なったのも引き金になっている。
「ごめん。ケンカは止めるよ」
それだけを言うと、もう僕たちは愛してもらえないのだろうかと不安になる。
「私もごめんなさい。薬を飲んでくるから待っていて」
弱弱しい母は見たくなかった。
いつも豪胆に笑った姿しか見たことがなかったから、余計に不安になる。
「もう新学期なのね。お母さん、長い夏休みをあなたたちからもらったから、今日からまたご飯作り頑張るね」
その母の声にほっと胸をなでおろす。
「お母さん、ありがとう。たまには僕も手伝うから」
これで美成姉が余計に朝暴れないで済む。
彼女は僕が余計なことを考えないで済むようにひとりで賑やかに騒いでいたのだ。
その気遣いがあるなら、掃除もサボらないで欲しかったが、それは良しとしよう。
母の長い夏休みの間は、僕の担当だったご飯作り。
でも、今日は調子良くても明日はまた悪くなるかもしれない。
様子を見ながら、進めていくのがよさそうだ。
リハビリ期間は長めにとった方がいい。
「炒り卵を作るよ」
今日の一品はいり卵にした。毎回魚は出すことができない。
手慣れない僕の包丁の音よりも早いリズムの音が台所に響き渡る。
そうだ。このリズムになるのにはどのくらい修行期間が必要になるのだろう。
そんなことを思いながら、ミル姉のことを考えていた。
「ミル姉、お見送りいつもありがとう。でも、ここから一歩も出ちゃダメだよ」
三年間一歩も外に出ていない彼女に向って笑う。