水の星から来た
女の徴がきた日、ヤクヌディは夢を見た。
それは、水に沈んでゆく夢で、それが水に沈んでゆく夢であることに気づくまでに、ヤクヌディは「陰の家」で夜を二度、過ごさなければならなかった。
雨季を迎えたばかりの村の空気は、湿り気を帯びて重くなっていた。日がな一日太陽の光を避けていると、ほんの少しだけ、肌寒さを感じる。ヤクヌディは寝ころんだまま、股から流れ出てきた赤黒いものに、足で砂をかける。砂もまた、湿り気を帯びていた。踏み慣れた固く乾いた土とは違う感触に、ヤクヌディはため息をつく。
女の血は穢れであり、月のものが来た女は、集落から離れて過ごさなければならなかった。それはユルグが犯した罪の証しだからだ。同時にまた、女の血は、大地に恵みをもたらす予感でもあった。ユルグの罪の償いであり、この大地の始まりとなったからだ。ユルグの血は大地を赤に染め上げ、そして、実りをもたらす。それが、世界の始まりだった。それゆえに、初めてそれが訪れた女は大いに祝福されるのだ。ヤクヌディも、この日が訪れることをずっと心待ちにしていた。そして、ヤクヌディの初潮は、他の女よりもいっそう特別だった。十四年の間、村中のすべての者がそれを心待ちにしていた。ヤクヌディは特別な娘だった。それは、幼い頃から長老や家族から繰り返し聞かされていたことであり、そして、それを聞かされるよりもずっと前から、つまり、ヤクヌディが意識や言葉を得て、理屈というものを知り得るよりもずっと前から、ヤクヌディはそれを自覚し、確信していた。
だのに、この二日というもの、ヤクヌディはずっと陰鬱な気分に支配されていた。それは初めて感じた異様な身体のだるさや、腹の痛みとは無関係だった。薄暗い「陰の家」の中で、過酷な労働を免除される無為な時の流れの中で、ヤクヌディは、初めて女の血を見た日の夢を反芻する。奇妙な夢だった。生ぬるい空間で、全身を柔らかく締め付けられるような、不思議な感覚に包まれていた。夢の中で、ヤクヌディは呼吸ができずにもがいていた。そこに大地はなかった。足をどこにもついていないのに、ヤクヌディは落下することもなく、その奇妙な空間に「漂って」いた。漂う。まるで雨季の終わりに時折見られる、植物の綿毛のように。
陰の家で二夜を過ごした翌朝、ヤクヌディは唐突にひらめいた。水! あれは、水の夢だった。それは、わけもなく生まれた思いつきであり、理屈もなくただただ確信に至り、そして、その確信は、ヤクヌディを大いに困惑させた。
水。全身を浸すほどの水。それは、ヤクヌディにとって未知のものだった。ヤクヌディにとっての水は、雨季に降る雨をため込んだものであり、乾季に村人たちが総出で日の出から日の入りまで、必死に穴を掘って運び出すものだった。
穴を掘るのは主に男たちの仕事だったが、ヤクヌディは時折手伝うことがあった。ヤクヌディは選ばれし娘だ。周りのひ弱な娘たちよりずっと足腰がしっかりしていたし、家周りの「女の仕事」も、幼い頃からずっと十分にこなしていた。仕事がヤクヌディを選ぶことはなかった。ヤクヌディがやりたいことをやりたいときに行うことができた。
村の男たちが掘り下げる水の穴は、大のおとなが腕を伸ばして五人分ほどの幅広さを持ち、おとなの背丈の五倍の深さがあった。それだけ掘っても、ヤクヌディの足首を浸すぐらいの水が湧き出て溜まるのがやっとだ。それが、ヤクヌディの知る最も多量の水だった。
「私が幼いころは」
母はふとした折りに、何度もヤクヌディに語った。
「私たちは川のほとりに住んでいた。家を出ればすぐそこに、豊かな水が流れていたよ。子どもの頃はよく川遊びをしたものさ。……そう、一日中水を汲みに行かなくても畑は恵みにあふれていたからね。子どもも大人も、たくさんの時間を持て余していたのさ」
母が遠い目になってそう語るとき、いつもヤクヌディは気を引き締めて耳を傾ける。
「それがある日、川の向こうから、野蛮な連中がやってきたのさ。妙な武器を振り回してね。ずっと北の方から来た、おかしな連中のおかしな教えに感化されたのさ。それで、この辺りの、ずっとうまくいっていた私たちの生活は何もかも崩れちまったのさ。私たちは、長く住んでいた川のほとりの村を追いやられた。でも、心配することなんて何もなかったさ。私たちが次に行くべき場所は、ノンモが教えてくれる」
ノンモ。その名を、ヤクヌディはふと、舌の上で転がした。それは全知の神であり、導きの神であり、ヤクヌディにとって最も近しい存在であるはずだった。少なくとも、二日前まではそうだった。だのに今、その響きは妙にヤクヌディの胸をざわつかせる。
「ああ、ヤクヌディ、そして、お前!」
川のほとりのかつての村の話を語るとき、母はいつもヤクヌディを強く抱きしめながら話を終える。
「この崖の縁の生活がいくらつらくとも、女になったお前が私たちを、真の故郷へ導いてくれる。私たちの始まりの場所へ。ニャン・トロへ!」
ヤクヌディはその母の言葉を胸の内で反芻する。そう、自分は選ばれし娘。ノンモの予言した娘。大きな使命を担う娘。何を不安に思うことがあろう。この不可思議な心地は、おかしな夢は、初めての身体の変調と、何度も聞かされた母の昔語りの記憶によってもたらされた、一時的なものに違いない。
朝日が、藁でできた扉の隙間から差し込んでしばらくした頃、母の声が優しくヤクヌディを我に返らせた。
「ヤクヌディ、具合はどうだい。朝めしを持ってきたよ」
「母さん」
ヤクヌディはゆっくりと身体を起こす。
「血が止まった」
村は、大きな崖に沿って作られた。石の壁は、赤茶け、入り組み、そして途方もなく高く高くそびえ立っている。ヤクヌディの母たちはその向こうからここへたどり着き、石と煉瓦と藁を重ねて、小さな家を連ねた。険しい崖のふもとは不毛の大地だ。草木すら生えぬ固い砂の地を、古からのノンモの教えに従い、人々は辛抱強く耕した。
限りのある地での恵みを分かち合うために、かつてひとつの村だった人々は五つに別れ、遠く離れ、それぞれの新しい小さな村を作った。
近しい男女が結ばれるのは、五つの村の共通の、最も重い罪だ。それはユルグが犯した最初の罪だからだ。そのために、女は時期が来ると、生まれたのとは別の村へと嫁ぐしきたりになっている。その時期が来ると、五人の村の長老が話し合い、最も適した頃合いの男女を娶せるのだ。
だが、ヤクヌディは特別だった。この世に生を受けたその時に、すでに結ばれる相手が決められていた。この十四年、いつか夫となる、それまでに見える機会もない男のことを、ヤクヌディが夢想したことは一度もなかった。ノンモが決めた相手だ。何をおそれることがあろうか。
ヤクヌディは選ばれた娘だった。
照りつける太陽の下、崖の麓を伝って、固い砂の上を丸一日歩き続け、日が沈みかける頃には、二日間ずっと横になっていたヤクヌディの足は激しく疲弊していた。だがヤクヌディはそれを誰にも悟られはしなかった。ヤクヌディを囲む村の男たちの、誰もヤクヌディをか弱い娘のように気遣ったりなどしなかった。
「お前は選ばれし娘だ、ヤクヌディよ」
嫁ぎ先となる村が見えてきたとき、先頭を歩いていた長老が立ち止まり、神妙に語りかけた。
「このような運命に少しも恐れず、このような過酷な道にも心の折れたりしない、選ばれし娘よ」
その言葉に、ヤクヌディの心は誇らしく躍った。
「長老、私は必ず、皆をニャン・トロへ導いて見せます」
初老の男が感慨深げにうなづいた。
乾いた笛と太鼓の音が、夕暮れの空を裂いた。仮面を被った男たちが列をなし、激しく踊りながら、ヤクヌディを迎え出た。祝い事のあるときにしか振る舞われない儀式は、ヤクヌディの育ってきた村と、概ね似ていて、少し違った。ヤクヌディは大地を踏みしめ、それを俯瞰する。男たちは皆、腰履きと、木彫りの仮面だけを身につけていた。顔面を完全に覆う仮面には、この村の祖先である蛇の模様が描かれている。体格の違いはあれど、素顔を隠した男たちはどれも区別のつけがたい様相をしていた。しかし、それを眺める内に、突然、ヤクヌディの胸が急速に高鳴った。
それは、わけのない確信だった。
鳴り止まぬ笛の音色と足踏みの中を駆け抜け、ヤクヌディは一人の男に駆け寄る。
浅黒い肌に、引き締まった筋肉。背丈は、十四のヤクヌディよりも頭一つほど高く、数歳は年上ではないかと思われた。
「あなたね」
音が止み、踊りが止んだ。しんと静まりかえる中、その男もゆっくりと、投げ出していた左足を下ろした。
ああ、わかる。
あと一歩踏み出せば肌が触れ合うほどの距離で、ヤクヌディは生まれて初めて会う男に接していた。しかし、初めて会う男ではなかった。そう、この瞬間、ヤクヌディは初めてそれを知った。
「あなたよ」
もう一度、ヤクヌディは言った。
男がゆっくりと、仮面を脱いだ。
「ああ、僕だ」
男は、体格から予想していたより、随分と幼い顔立ちだった。村の男の平均よりわずかに薄い印象を受ける肌色。成人男性に比較すると、筋肉質と表現するには線が丸みを帯びている。目は細く、ヤクヌディよりも唇は薄い。見たことのない男の姿だった。だが、屈託なく笑ったとき、ヤクヌディひどく懐かしい心地で満たされた。
この日のためにと十四年前から母が準備していた一張羅を、ヤクヌディはゆっくりと脱いだ。麻布が肌の上を滑り落ちる。村を起つ前に念入りに拭いたはずの皮膚は、一日経って汗と砂埃でざらついていた。
幼い夫婦にあてがわれた小さな部屋には、灯りがなかった。暗がりに慣れてきたヤクヌディの目が、同じく衣服を脱いだ夫の姿を捉える。この日のために聞かされていた作法の通り、ヤクヌディはゆっくりと歩み寄り、それに触れる。分厚い皮膚をした男の指先が、誰にも触れられたことのない肌の上を滑る。
「ヤクヌディ」
大人になりきっていない男の声が、耳元でヤクヌディの名を呼んだ。
「なあに、ハミドゥ」
ため息混じりに、さっき知ったばかりの夫の名を唇に乗せる。
ハミドゥは優しく、合わせていた体を引き離した。
「だめだ、まだ血が出ているよ」
ハミドゥの右手の指先が、ヤクヌディの内股をなぞり、それを二人の目の前に持ってきた。暗がりの中で、色の付いた液体がハミドゥの指先を染めているのがわかった。
「……終わったと思ったのに」
「そういうこともあるんだって、母さんが言っていたよ」
「もう痛くないわ」
「でも、今日はよしておこう。そうでなくても、ここに来るまでに、疲れただろう」
「私たち、夫婦になったのよ。初夜に結ばれないなんて、あるべきじゃないわ」
「それは、大人たちが決めたことだろう。君は、顔も見たことのない男のところに来て、不安はない? ここは僕たちのためにあてがわれた家だよ。この閉ざされた土壁の中でだけは、僕たちは自由にしていい。君の準備ができるまで、僕は十分に待つよ」
「何を言っているの、自由なんかじゃないわ」
ヤクヌディはハミドゥの胸板に手を置く。女になったヤクヌディとは違う、男の身体だった。
「私たちは選ばれた男女よ。私たちは結ばれて、「船」を産んで、一族をニャン・トロへ導くの」
「ヤクヌディ、君は」
ハミドゥが目を丸くして、ヤクヌディを見つめた。
「その伝承を、本気で信じているの」
ヤクヌディは息を飲む。
「何を……何を言っているの。ハミドゥ、あなたは、あなたは……自分の使命をわかっていないの?」
「ああ、ヤクヌディ、僕のかわいい妻。そんなに怯えないで。何があっても、僕は君を、君だけを大切にするから」
怯える? この男は何を言っているのだろう。言葉を紡げないでいるヤクヌディの腕を、肩を、軽くハミドゥは手のひらでさすり、そして、掬うように頬を包んだ。掬うように。水を掬うように。吸い寄せられるように、唇と唇が触れ、その向こうから、お互いの体温で温められた水があふれ出し、混じり合う。
その瞬間、ヤクヌディの脳天がしびれるように何かに反応した。
星の寿命が近づいていた。
天に見えている、大きな赤い星は、いつか生き絶える。今の形を失い、小さくなり、凝縮によって生まれるその力は、衛星にあったこれまでの全ての秩序をかき乱す。この星にいる生命は残らず死んでしまう。それがどれぐらい先のことなのかはわからない。「旅の人」は、遠い昔、この星にやってくる前からその終わりを予測していた。彼らは継代のために、新たな旅のために、水の中で一時的に暮らしているだけなのだ。
そして、彼らに生み出された存在は、星の運命に興味を抱かなかった。
「イブ」
ふと、声がして、イブと呼ばれた魂が意識を持った。
「それは、わたしの、名前?」
「そうだね。君か、君の子孫がたどり着く星で、広く知られている雌の個体の名だよ」
「ふぅん」
イブは自分の身体を見まわした。胴体から四肢がまっすぐに延びている。五本の指は細かく動いた。薄ピンクの肌は柔らかい。
「気に入らないかい?」
「イブという名前が? いいえ、不満はないわ」
イブ。もう一度、自分の舌の上でその響きを味わう。聞いたばかりの符号と、自分自身の存在とが、馴染まないような感触が、ほんのすこしだけした。しかし、それに異を唱える気はなかった。
「私はどこへ行くの?」
「銀河系の惑星だ。有機体が自然発生する。種の一つは我々に似た文明体を築く」
「そこに私が交わるの?」
「どうやって行くかはまだ決まっていない。君は今はただ、ここで繁殖のシミュレーションに協力してくれればいい」
イブはシャーレの中で生まれ、ぬるま湯のような培養液で育ち、空気の満たされた水槽で暮らした。自分以外に存在するのは、自分を管理する研究者である「声の主」だけだった。その存在を視認できたことはない。どこに、どのような姿で存在しているのか、イブにはわからないし、気にしたことがなかった。聞こえているのはそもそも声ではないのかもしれないし、同じ次元にはいないのかもしれなかった。
自分以外のホモ・サピエンスの個体に会う日、声の主は唐突にその存在を晦ませた。意識を持って初めて、何の導きもない空間に、イブは最初、ほんの少しだけ、不安を覚えた。それはすぐ、新たな出会いによってかき消された。
夫となる雄は、イブによく似た、四肢を持つ二足歩行の構造をしていて、しかし、違う姿をしていた。イブよりも一回り大きく、表面は柔らかさより堅さや弾力を感じさせる印象を与えた。
「やあ」
雄の声は、空気を振動させ、イブの耳に届いた。目尻が下がり口角が上がった。初めて見る姿なのに、好意を示す表情だと直感がイブに伝えた。胸元がゆるむような、不思議な感触に襲われた。
「僕はアダム。君は?」
「……イブよ」
声の主が期待した通り、イブはこの空間に唯一用意されたもう一体のホモ・サピエンスに、自然と惹かれた。強く相手を求める感情であり、内から止めどなくあふれる欲求だった。イブもアダムも、その感情の解消や消化の具体的な手法について、知識を持たなかった。初めのうち、二人はひたすらに言葉を交わしあった。言語中枢は止めどなく刺激され、急速に発達し、あふれた言葉たちが、終わりなどないかのように二人の間を流れ続けた。そうかと思えば、肉体的な接触への欲望が唐突に湧いて出た。まるで初めから決まっていたのかと思うほど自然に、二人は結ばれた。それは彼女の記憶の中で最も幸福なものだった。
「……良かった、うまくいって」
「うまくいくって?」
アダムの厚い胸板の上に頭を乗せながら、イブは聞き返した。
「ゆうべ、おかしな夢を見たんだ。君と僕は結ばれようとするんだけど、君の準備が整っていなかったんだ」
「準備?」
「なんだろう、夢だから……細かいことが思い出せないけれど……僕らは夫婦になったけれど、君が、肉体的にまだ、結ばれる段階じゃなかった、そういう夢だったよ」
首を傾げるイブに、アダムが微笑む。
「ああ、そうだ、ほら」
アダムが急に、イブの、まだ熱の冷め切っていない場所へ指先を伸ばした。恥じらうようにイブが身をよじりながら、しかし決してそれを拒絶はせず、二人は顔を近づけて微笑み合う。
「君のここから、まだ赤い液体が出ていたんだ」
「そんなこと、あり得ないわ。私の身体はしっかり管理されているんだもの。その「段階」に来たから、あの人は私とあなたを娶せたの」
「あの人って?」
「それは、」
イブはふと言葉に詰まった。アダムに出会ってからずっと聞いていない「声」の主。イブの管理者であり、飼育者である存在。「目覚めた」ときから絶えずそばにあり、すべてだったその存在を、第三者に説明するなにかを、持たなかった。
思い巡らせる。自分のすべてを導く者。すべての知識を与える者。常にそばにあるはずでありながら、決してその姿を見せない者。
神。
「ノンモ!」
唐突にその響きが唇に乗り、同時に、ヤクヌディは悲鳴をあげた。
驚いて息を呑むハミドゥの気配がすぐ耳元で感じられた。
暗がりの中にいた。煉瓦と土を固めた乾いた壁に囲まれた小さな家。深夜の、わずかに湿った空気が流れている。ハミドゥが身じろぎして、敷物越しに砂のこすれる音が耳についた。
「どうしたの、ヤクヌディ」
優しく、伸びてきた手のひらがヤクヌディの頬を包む。日に焼けた黒い肌は、日々の畑仕事で酷使され、固くなりひどく荒れて、アダムとは似ても似つかなかった。アダムとも。ゼウスとも。ロキとも。パリアカカとも。イザナギとも。あるいは試験番号A001とも。
まるで洪水のように「記憶」が押し寄せてくる。ノンモは終わりの日に向けて、何度も実験を繰り返した。「彼女」はもはや実数では表せないほどの回数を産まれ、生き、そしていつも、何も生み出せずに果ててしまう。
ノンモ。
崩壊のトリガーは、その響きを思い出す度に引かれる。
「ノンモ」
ダプネーは自分でも訳のわからないまま、その名をつぶやいた。
「ノンモ? それは誰?」
アポロンが不思議そうにそう問いながら、ダプネーを抱き寄せる。ダプネーとアポロンは、知的好奇心はあまり抱かず、肉欲にばかり溺れる個体だった。出会ってまもなくから、行為にばかり耽り、その他のことにはまるで興味がない。だが、その響きだけは何故かダプネーの心にひっかかった。
「ノンモ」
もう一度つぶやくと同時に、脳天がしびれる感覚が、した。思わず目をつむり、頭を振り、瞼を開く。そのとき、初めて、自分のいる世界の、「外」を意識した。
「水槽」の中は空気で満たされている。ホモ・サピエンスは空気を吸わないと生きていけないからだ。ガラスに隔たれた外の世界は、一面の水だった。ここは、水の星なのだ。
屈折率の違う大量の流体で満たされている。あの空間に出たら死ぬのだと、わけもなくダプネーは直感した。その隣で、アポロンがため息を漏らした。
「あれが、ノンモ?」
ダプネーはアポロンの視線を追う。水の中を、何かうっすらと、影が横切ったような気がした。はっきりとその姿を視認することはできなかった。人のような気がした。男のようにも女のようにも見えた。それとも、人以外の何かでもあったような気がした。魚。海の生物。半透明の鰭、光を集めてきらめく鱗。
「きれいだ」
アポロンの漏らした言葉に。その息づかいに、ダプネーは戦慄した。今までにダプネーの上で漏らしたどんな呼吸よりも、深く、熱く、重いため息だった。
その日から、アポロンはダプネーを抱くことは一度もなくなった。
あるいは伏羲は、夢想家だった。初めのうち、女カに飽きるほど聞かせていた甘い言葉は、やがてノンモにばかり向けられた。
「ああ、こんな風にあのひとと隔たっているなんて、これ以上耐えられない。僕は、水になりたい」
彼はある日ガラスでできた水槽の壁を叩き割り、流れ込んだ水に溺れて二人は死んだ。
あるいはオシリスは、生真面目で神経質な男だった。ノンモに心奪われ、妻であるはずのイシスだけを思えない自分を責め続け、気が狂って死んでしまった。
何度生まれても、彼女は与えられた夫だけを思い、彼はノンモに恋をした。繰り返し破滅した彼女の魂の傷はひどくひどく深くなる。彼女だけが覚えていた。夫への絶えることのない思慕の念を。報われることのない結末を。次こそは、次こそはと願いながら、もはや数えることもできない生を生きた。
そして。
――ああ、ここは、「水の星」ではない!
ヤクヌディはそっと、眠りについたハミドゥの腕から抜け出し、暗がりの中に出た。乾季の始まりの、肌寒い夜だった。風の音も、夜の鳥の声もしない、凍り付きそうな寒い夜だった。
ヤクヌディは星空の中で一等輝く青い星を見つめる。
シギ・トロ。恵みの星。この地球から一番近くて輝かしい恒星。そのそばで死んでしまった赤い星。ポ・トロ。そして、誰にも見えない三番目の星。ニャン・トロ。水の星。誰が言い出したのだろう。不毛の地での生活にくたびれた一族の人々は、水に満たされたまだ見ぬ星へ、導きの者が還してくれると、信じている。
ヤクヌディは下腹部をさすった。ハミドゥと結ばれて三年が経った。まだ身ごもる気配はない。そうだ、それで良い。船など産むものか。私はどこへも行きはしない。永遠に続くかと思われた不毛なサイクルからはみ出してしまうほどのエネルギーを、魂に刻み込まれた深い傷は生み出したのだ。
――ああ、ノンモ、それとも、それすらあなたの思惑だったのか。
笑い出したい気分になりながら、ヤクヌディは再び家に戻り、ハミドゥの上にまたがった。
たとえそうだとしても、かまわない。水さえ目にしなければ、ノンモの姿は視認できず、ハミドゥの心を奪われることは、きっと、ない。
「どうしたんだい、ヤクヌディ」
「ハミドゥ、あなたが好きよ」
欲望のままにハミドゥの唇をむさぼる。満たされたため息が切れ切れにお互いから漏れる。
「僕もだよ」
もうすっかりと変声期を終えた男の声が、ヤクヌディの耳をくすぐった。
「君だけだ、君だけを思っている」
――ああ、だめだ。
幾多もの夜に飽きるほど聞いたその言葉が、ヤクヌディにまたこの上ない幸福と、同時に、底のない絶望の予感を呼び覚ます。
(了)