別れは始まりの序曲
友樹は、相談なんてできるのは有友亜紀しかいないと思い、すぐに彼女に電話を入れた。
『友樹君、久しぶり、捨てた女に何の用があるの?』内容とは裏腹に声はとても明るい。
『えっ、そんな無茶を言わないでください。もう参っているんです』
『どうしたの? 離婚でもするの?』
『そ、そんな…… 結婚もしていないのに』
そんな話をしながら会うことを約束してもらった友樹はホテルを訪ねた。
「今夜は泊まってくの?」亜紀が笑顔で尋ねると
「まっ、待って下さい。電話でお願いしたように、相談にのって欲しいんです」
友樹は困ったように話しながらも、家にいた時のような悲壮感がないことに自分でも驚いた。
「いいわよ、話してごらんよ」
友樹は、亜由美との再会から今日までのことを詳細に説明した。
「ふーん、なんか、物語が書けそうね」彼女が遠くを見つめると
「ちょっと待ってください。本当に悩んでいるんです」彼が眉をひそめる。
「だけどね、私がこの物語を書くとしたら、見えていない部分をもう少し匂わすわね」
「どういうことですか」友樹には全く分からない。
しばらく考えた亜紀が
「まず、彼女はお母さんを東京に呼び寄せる時に、実家は処分したんでしょ」話し始めた。
「うん、そう言ってた。俺も一度だけ見たことがあるけど、丸々市の駅の前で大きな家だったよ」
「駅の近くだったら、普通の広さでも土地と合わせて二~三千万円はするでしょ」
「そ、そうだね」
「そしたらさ、親の蓄えだってあっただろうし、お金は相当に持っていたと思うよ」
「でも、掛け持ちでパートしていたみたいだし…… 」彼はまさかありえないと思っていた。
「そこが不自然なのよ」亜紀が腕を組んで首を傾げる。
「えっ、どうして?」
「だってね、確かに介護は大変よ。施設に入ればお金はかかるし、病院だって二~三ヶ月ぐらいしか置いてくれないのよ。家で診れば仕事ができないし、私も物語のために取材したことがあるけど、一番大変なのは終わりが見えないっていうことなのよ」
「うん、俺もそう思う。だから亜由美さんも掛け持ちで……」
「でもね…… 」
しばらくの沈黙の後
「私は違うと思うよ」彼女が諭すように言葉にした。
「えっ、どう違うの?」
「だってね、蓄えが全くなければ悲壮感が漂うと思うよ。でも、二~三千万円持っている人が、パートの掛け持ちまではしないと思うよ。そりゃ、蓄えだけに頼るのは怖いから、少しは働いておこうかって、思うだろうけど、蓄えがあるっていう安心感がそこまではさせないと思うのよ」説得力のある説明だったが
「でも……」それでも友樹は不可解だった。
「その再会した時、彼女はどんな感じだったの? 悲壮感が漂っていたっていうか、絶望的な感じだった?」ふと彼女が尋ねた。
「えっ、けっこう明るかったから、安心はしていたんだけど……」
「そうでしょ、パートの掛け持ちをして、母親の病院を覗いて…… そんな生活している人には見えなかったでしょ」亜紀が念を押すように話すと
「そう言われれば確かに…… でも、じゃあ、どうして?」友樹の理解できない思いがさらに膨らんでしまった。
「鈍いわねー、あなたと話したくなかったからそう言ったんじゃないの?」
しばらく彼を見つめた亜紀が腕を組んで印籠を渡すと
「ええっ!」彼は思ってもみなかった言葉に愕然として目を伏せてしまった。
「だけど友樹君が待つっていうから仕方なかったんでしょ」彼女はその友樹のその傷口に最後の刃を突き刺した。
「かっー、俺って、そんなにグズいのか……」一瞬間が開いたが、はっとした彼は顔をしかめた。
「まっ、グズいとは思わないけど、女心がわからないことにかけては、天下一品ね」
彼が現状を理解さえできればそれでいいと思っている亜紀は優しく微笑んだのだが
「かっー、だ、だけど、じゃあ、どうしてうちに来たんだろう?」彼には新たな疑問が生まれてしまった。
「ふうっー、それはね、女だからよ」大きなため息をついた彼女が諭すように語った。
「ええっ、全然わかんないですけど……」
「あのね、お金は何とか大丈夫でもね、所詮、女なのよ。恋人と別れて頼れる人もいなくて、『こんなことがいつまで続くんだろうか』とか、『もう結婚はできないかもしれない』とか…… ふっとした時に不安になるのよ。そんな時に人のいい同級生に優しい言葉をかけられて、よろめいたのよ」亜紀は言葉にすることで、自分自身にも一連の流れが見えてきて満足していた。
「そ、そういうことか……」やっと一連の流れが理解できたのか、彼は目を閉じて俯いてしまった。
その様子を心配した彼女が
「でもね、その時にはあなたを騙そうとか、お母さんが亡くなるまでにしようなんて、そんなことは考えていなかったと思うよ。ただ、本当に救われる思いだったとは思うよ。だけどね、母親が亡くなってしまったら、足かせが無くなったんだから、そりゃ考えるでしょ。『私はこのままここで生きていくの?』、 『私は本当に友樹のことを愛しているの?』って……」すかさず補足したが、彼は目を閉じて顔をしかめたまましばらく考えているようだった。
「そうか、それで昔の恋人に電話したのか……?」思いついた結論に声がフェードアウトする。
「まっ、彼女から電話したのであれば、その女はこの上ない馬鹿ね」
亜紀はことごとく的を外す友樹に少し呆れていたが、それでも彼が沈み込んでしまわないように懸命に言葉を選んだ。
「ええっ、ど、どういうこと?」友樹が驚くと
「その松谷っていう男もふざけた野郎よ」亜紀はほんの少し語気が強くなった。
「ど、どうして?」
「だってね、『彼女から電話してきた』っていうのは、友樹君にとっては最も辛い言葉でしょ。その言葉は意図的に相手を傷つけたい時にしか使わない。だから、逆を言えば、電話を入れたのはその男の可能性が高い…… 」亜紀が友樹を見つめると
「……」彼の表情がやや緩んだ。
「なんか、うれしそうね」
「いや、そんなことは……」
「だけど、そいつは絶対に自分のところに帰ってくるっていう自信があるね…… まっ、それは腹立たしいけど、現実には二人で会って話したことは事実なんだろうし、こんなところに住みたくないっていう彼女の思いもあることだし、そこをどう考えるかだね」
友樹の様子を見てみたいと思った彼女は、一度ここで話を切ってはみたが
「はー、全くわかんないです。どうしたらいいのか、わかんないです」友樹はため息をつくと天井を見上げた。
「でもね、一つ気になるんだけど、友樹君自信は、彼女のことをどう思っているの?」
亜紀は結論が出せない友樹に第二の矢を放つしかなかった。
「そ、そりゃ好きです」
「そうやって即答するけど、それも疑わしいのよね」彼女が首を傾げると
「ど、どうしてですか」彼が語気を強めた。
「うーん…… 高校の時にあこがれていて、今はその女性と暮らしているけど、彼女って、あなたが思っていたっていうか、あこがれていた時の思いを満たしてくれる女性なの?」
「えっ」思いもよらない言葉に彼は驚いた。
「高校の時だってあなたが想像していたような女性だったかどうかはわからないし、仮にそうだったとしても、東京の大学で四年間も過ごすと、普通は変わっていくよ。変わらないはずがない。まして、田舎では住みたくないって言うような人なんでしょ」彼女が眉をひそめると
「そ、それは……」彼は返事に窮してしまった。
「あなた自身も、かつてあこがれていた女性を目の前にして、勢いだけで走り出したんじゃないの? 今でも愛していると思うの? 」
できればこの言葉は口にしたくないと思っていたが、亜紀は困惑してしまった彼を見て、今の自分を理解させなければ、彼はいつまでも結論が出せないでさまよい続けるのだろうと思った。
「……む」
「毎日毎日、気を使って話してんじゃないの? 彼女がそばにいるだけで幸せなの? 毎日どんな思いで生活してんのよ…… なんどか見かけた君は、幸せっていうよりはなんか苦しそうに見えたよ」とてもやさしい言い方であった。
「……」友樹に言葉はなかった。
確かにその通りかもしれない。いつも腫れ物に触るように懸命に尽くしたが、何をしても反応は薄かった。
義母が生きている間は何の不安もなかったが、義母が亡くなってからは、毎日、帰宅して家の前に立ち、灯りがついていると安心した。
いつかいなくなるかもしれないという不安がいつも付きまとっていた。
亜紀の言葉に、自分の苦悩を明確に思い知った彼は愕然とした。
「彼女を愛しているから失いたくないっていうのならわかるけど、そうじゃなくてそばにいる女性を失いたくない…… それだけなんじゃないの……?」
彼女が締めの言葉を放つと
「もうなんか、訳が分かんなくなってきました……」友樹は両手で狂ったように頭をかいて髪をかき乱したが、言葉とは裏腹に、亜紀の言うとおりだと確信していた。
「ふふふっふふ……」
「な、何がおかしいんですか……?」友樹が機嫌を損ねたように言葉にすると
「だって、頭がかゆくなったんでしょ」
「えっ……」
「久しぶりに脳が活性化したのよ」亜紀は少し呆れたようだった。
「かっー、もうなんか、どうでもよくなりましたよ」
「まっ、今言ったことを参考にしてよく考えてみなさいよ」
「ええっー、もう本当にわかんなくなってしまいました。もし、亜紀さんの物語だったら、この先はどうなるんですか?」
「そうね…… 主人公の友樹はね、本当は亜紀さんを愛しているのにそのことには気が付かない」
「えっ」
「まっ、聞きなさいよ! 気が付かないまま、まだ亜由美を愛しているのかもしれないという錯覚から抜け出すことができないで、ついに決意する」彼女が一瞥して笑みを投げかけると
「な、何を決意するんですか?」彼は目を見開いて彼女に見入った。
しばらく沈黙があった。
「私の物語だったらね、『彼女に今週中に結論を出して欲しい。もし出ていくのなら、昼間、自分がいないときに出ていって欲しい。でも、自分に対する恩義みたいなものがあるのなら、それは気にしないで答えを出して欲しい』って、しっかりと見つめて話すことにするわね」
亜紀の答えははっきりとしていた。
「そ、その結果、どうなるんですか、物語はどんな結末を迎えるんですか!」
友樹の語気が強くなったが
「まっ、それはその時の気分次第ね」彼女は軽く微笑んだだけだった。
しかし
「そ、そんな無責任な……」思わず出てしまった彼の言葉に
「あんたねー、どっちが無責任なのよっ! 自分のやるべきことを私の物語に求めているあんたの方がよっぽど無責任でしょっ」珍しく亜紀が声を荒げた。
「す、すいません……」
「それから言っておきますけどね、彼女と別れて寂しくなっても私のところへは来ないでよ」
「そ、そんなことは…… 」初めての拒絶に彼は俯いてしまった。