9話
ケイと私の間に長い沈黙が続き、シーハが客間に顔を出した。私がケイと話している間にフィンは一度訪れたらしく、急務によりこの町を後にしたそうだった。それから一緒に店番を任されていたはずのヘレンは、先ほど突然慌てたようにして出て行ってしまったらしい。
「あの子の生態は私にもわからん」
そう言って興味もなさそうにケイが首を振る。片や私は、窓の外を眺めながら、無機質な返事だったと思う。
「もう遅いから二人とも泊まっていきな。もう、馬車を捕まえたところでそのまま誘拐されちまう時間だからね」
物騒なことを言って私とシーハを二階へと押しやった。
二階の様子は雑貨店と客間がある一階と比べ、かなりの生活感を感じる場所だった。食卓と思しきテーブルと椅子があり、無造作に散らばった衣服と枯れかけの観葉植物のようなもの、それから何も言わずにテキパキと片付けを始めるシーハの姿が、その生活感を醸し出している。
「いい子だねぇ」
遅れて二階に上がってきたケイがそう言ってシーハの頭を撫でる。シーハは褒められたことに照れて喜ぶ様子は見せず、「私がいないとダメねっ」と頬を膨ませた。けれど頭の上に乗っけられた手を退かそうとはしないところに、ふっと笑いがこみ上がる。
部屋は足りたと言うには些か不都合だった。
窓から見上げた夜空にあのときと同じ星々を見る頃、ごゆっくりと言われた客人用の寝室に向かった。シーハはケイの寝室を使い、当のケイは用事があると言って階段を降りた。
ベッドの上に座って星を見る。あのときはゆっくり眺めてる余裕なんて無かったが、今見るとそれはそれは綺麗な星空だった。
あの中に私の住んでた地球はあるのかなと、同じ時間が流れてるのかなと思うと、距離が離れただけで見えるところにいる気がした。
「そういえば…」
星を見て思い出す。あのとき、意識が消える寸前に見たあのふわふわとした何か。ケサランパサランというものだろうか。しかしあれは毛の塊ではなく、白玉の亡霊と言った方が非常にしっくりといくものだった。
しかしこの模糊とした記憶と、また曖昧な認識であるケサランパサランなど、秤に掛けたところで比べられる筈がない。
コンコン
扉を叩く音が聞こえ返事をする。扉は少しだけ開き、そこからシーハの顔が覗いた。
「怖いから、一緒に寝ていい?」
枕をお腹に抱えこちらを見つめる姿に、大人っぽさは微塵も感じない。
二人が入った布団の中はすぐに暖かくなった。シーハの頭が自分の肩に触れそうなほどの距離だった。
「ケイおばさんは、お姉ちゃんの力になってくれそう?」
「……うん。どうなるかはわかんないけど、興味は持ってくれたみたい」
「ふふ、よかったねっ」
こちらを見上げるようにしてそう微笑む愛らしさに、一瞬ドキリとする。天使は下界には存在しないと思っていた。
「ケイおばさんならお姉ちゃんのことぜったいわかってくれると思ったんだ」
「うーん、そうかなー」
大丈夫、大丈夫と言うシーハの手が、私の頭を優しく叩いていた。
小声で会話をしながら眠気を誘う。
身体の不自由も消え、比較的落ち着いた心中でつく寝床は違和感に溢れている。寝るということは明日を迎えるということに他ならず、時間が過ぎゆくことを実感せざるを得なかった。
ただそれが心地よかった。
私も怖かったんだ。悪い夢を見る気がして。
夜は少しだけ長い瞬きの間に過ぎていった。
「じゃあねシーハ、この姉ちゃんはうちでしばらく預かるから、たまには遊びに来たらいい。ただセンリのばばぁには来るなと伝えておくれ」
やっぱりこうなるのねと少々不安に駆られるが、我が儘は言ってられない。むしろありがたいことの筈だ。
「またねお姉ちゃんっ!手紙書くねっ!」
「うん!私も書くから!」
大きく手を振った後、坂を下るシーハの姿は次第に見えなくなった。
それと同時に先ほどの不安感が増す。何故か母の元を離れ、初めて幼稚園に通う子どもと心がリンクする。
自分が読み書きができないことに気付くのは、もう少し先のことだった。
◆ ◆ ◆
何も聞かされず連れてこられたのは銭湯だった。私が知ってる銭湯となんら変わりのない、日本の何処かにはありそうな銭湯だ。
「なんか、シーハちゃんに申し訳ない…」
「あんたが汚いんだろ」
空間すら白く濁らせるほど、湯気が広い一室を満たしている。まるで頭の先まで浸かっているような気分だ。
心地よすぎてお湯に流れてしまいそうな全身を、引き留めようとして立つ鳥肌が気持ちいい。
「…………」
ケイに昨日の客間で起きたことについて聞いてくる様子はない。
昨日の間で二回だ。どちらも自分の意図しないタイミングで起きている。抑えようとしたって利かないし、そもそも意図してあの羽根を生やすこともできない。
今日は何事もないように願うしかできない自分が、無責任で仕方がない。
「昨日は眠れたかい?」
「お、おかげさまで」
「あの寝室あんたにあげるから、好きに使いな」
「……どうも」
やっぱり貰ってしまう程長期滞在をするのか。
「それにしたってシーハ、あんたによく懐いてたねぇ」
「私が眠ってる間も、看ててくれてたみたいです」
「ふーん。お母さんになったつもりなのかね」
実際、傍から見てる限りでは誰よりもお母さんらしく見えるし、何より私はお母さんだと思いたいすらある。
「でもねぇ。あまりにもじゃないかい?」
その一言に少し困惑する。ケイの顔を見れば、それは至って真剣な顔つきである。
ただの世間話をしていたと思っていた私からすれば、そもそも何をそんな真剣になっているのかがわからない。
「確かに気は利くが、シーハはまだ子どもだ。利他的な嘘をつけるようなお歳じゃないんだよ」
「…」
いつシーハが嘘を吐いたのかまるでわからないが、話の流れからして利他的の他とは、私のことなのだろうか。
「まともに嘘もついたことない子どもがあんな優しい嘘をつくとしたら、それは一体どんな状況なのだろうと、つい考えてしまってねぇ…」
「いつ嘘を言ったのか、私には、全然」
「シーハはね、一人や夜を怖がる子じゃないんだよ」
「え?」
シーハが夜を怖いと思う子だと思い込んでいたのは何故だろう。一瞬戸惑い、すぐに思い出す。昨日の夜一緒に寝たのは、シーハが私のいる客室を訪ねたからだった。そのとき確かに、怖いからと言っていた。
「え、聞こえてたんですか?」
「壁と床が薄いからね、聞こえてたよ。あんたが私に対して不安を抱いてるのも全部」
「あれはっ!だって、ピリピリしてたじゃないですか~はは」
自分の意見の正当性を主張するにはあまりにも場所が悪すぎるため、半ば苦笑いで誤魔化す。
「まぁもっとも、そういうぴりぴりした空気も全部察した上での嘘だったようにも思えるけど」
「つまり、あれですよね、あの、私のことを心配して、一緒に寝てくれたってことですよね?」
言いながら、喉が熱くなる。
「合ってたかい?」
「はい……合ってます。当たりすぎて……ちょっと」
まさかそこまで気遣ってくれてたなんて思わず、静かに泣けてきた。ありがとう、ありがとうと、心の中で言う声が止まない。
涙が滲み、流れそうになる度に濡れた手で拭う。けれどその手もなかなか止まらない。
「おがあざああああああああああん」
「うるさいよ!!」
ケイは私の頭を掴まむと、勢いよく私を湯船に沈めた。
ポタンの町は中央の大通り以外目に付くものは少ない。住宅街と、それらを隔てる小道が殆どだ。
だからケイの家、及び雑貨店から銭湯の間を行って帰ってきただけなのに、道を全く覚えられていない。
「ここら辺の道覚えるの大変そうですね」
「感覚だね。行くとこは大体決まってるから」
ケイは鍵を開け中に入るとそのまま二階へ向かい、私もその後を付いていった。
タンスを漁り、巨大な毛布を取り出すとそれをこちらに投げつけた。
それに包まっておけと言って、タンスを漁り続ける。
渡された毛布はかなり巨大で、広げると大人二人までなら全身を余す所なく包み込めそうなほどだ。けれど大きさには不相応な軽さと、重量にもまた不相応な保温性がある。
「これすごいあったかいです!」
「それ貰い物の毛皮なんだけどねぇ、まあデカいのよ」
「毛皮ですか!?一体なんていう動物の毛皮なんですか」
「さぁね」
「え、怖っ」
シーハが片付けた部屋は再び服が散乱しすっかり汚くなってしまっていた。
「見つけた。これが似合いそうだ」
そう言って広げたのはチェック模様の衣服。小麦色のような明るい生地で、よく見ると赤や黄色など複数の色が細部に渡って編み込まれている。
触ると少し硬く、糸ではない。
形も衣服には変わりないが、着る、履くではなく、巻いて身に付けるもののように思える。腰に巻いてスカートにしそうである。
他にも衣服と思しきものを何着か取り出すケイ。
「下がこれなら上はこっちの方がいいな」
何やら真剣だ。
「もしかして、私の服ですか?」
言ってしまった。最悪だ。言う前に気付けよバカ。違ったら恥ずかし過ぎるのに、私は期待していたのだ。薄々今の服から着替えたいと、センちゃんに失礼をしていたのだ。
「あんたのいた世界には、身だしなみという概念はあるのかい?」
「はい、お洒落とか、します」
「じゃあわかるだろう、あんたが着てる服は、ダサい!」
センちゃんを上手に庇えず、ただ口から「あ~」と言う声だけが漏れた。
「私はあのクソババァよりよっぽどお洒落さんだったからねぇ」
広げられた衣服はとてもお洒落で可愛いと思った。しかしその衣服は、ケイの『だった』を裏付けてもいた。
「しかしまぁ、しわっしわだね」
「すごい、しわっしわです」
「センリの顔くらいしわしわじゃないか」
「んッ…!」
危なく噴き出すところだった。笑っちゃ駄目だ。センちゃんは命の恩人。優しいおばあちゃんだ。
「こんなの着せたらあいつと見分けつかなくなっちまうよ」
「フッ…ふふっ…ふふふっ、ふっふっふっふっふっふっ」
「なんだい、そんな笑って」
「ごめんなさい、ふふっ、面白くて、ふっふっふっふっ」
私は情緒が不安定だ。止めたくても、笑いが止まらない。それどころかどんどん笑えてきてしまう。笑うことがこんなに楽しいなんて知らなくて、たっぷり一分ほど、一人で笑っていたかもしれない。
ケイが喋るその時まで。
「そうだ」
パンッと手を鳴らす。
「洗って干すには時間が掛かる。ここは一つ、エルフィアの魔女の力、見せてやろうかね」