8話
形容しがたい不快感と焦燥感を、額の汗が物語る。
「に…人間ですよ!何言ってるんですか、私はずっと…人間です」
突然声を荒げた私に、一瞬ケイの目が見開いた。ケイは一度目にもわかるように鼻で大きく呼吸を済ますと、次の言葉を用意していたであろう口を閉じた。
前腕部分に生えた白い羽は、未だ腕をざわつかせていた。
千切ろう。
右手で左腕の羽を纏めて握りしめた。あとは指の間から四方にはみ出た羽を引き抜くだけだ。
そのときだった。声が聞こえた気がした。力を込め、羽の根と自分の皮膚が引き千切れる一歩寸前だった。
『やめて』
心臓がどくんと跳ね上がり、その瞬間頭を過ったのは、空中で気絶したときに見た夢だった。
そうだ、あの夢に出てきた私はまるで鳥人間のようだった。そして今、夢の中で顔中を覆っていた白い羽が腕に生えている。そういえば夢の中でも誰かが喋っていた。私以外の誰かが。
頭の中が自分の身体と夢を思い出すことに必死になっていた。だから気付かなかった。その瞬間まで、目の前がまっ暗だったとでも言うように。
「これ、は……」
机の下に隠すようにしまっていた腕が、グンッと右肩から引き上げられた。そして私の腕を握って離さないケイが、そこに立っていた。
見られた。まずい。どうしよう。どうしたらいい!?
パニックになった。言葉が出ない。完全に見られ、今更言い訳も隠すことも叶わない。私は乾いた眼球で、ケイの目を見続けたまま固まるだけだった。
「だいじょうぶーっ?」
シーハの声だ。
私が声を荒げたからだろうか、それとも異変に気付いたのだろうか。シーハの足音が聞こえ、こちらに向かってきているのがわかった。
シーハちゃんに見られる。そう思ったとき既に高まっていた焦燥感が、心臓の鼓動と共に再び湧き上がった。
見られる。せっかく仲良くなったのに。人間じゃないと思われてしまう。知らない土地で身に覚えのない疑惑を持たれ、一人になるのは心が張り裂けるようだった。
けれど、ケイのとった行動は予想のつかないものだった。
「隠しな」
そう小声で呟くと、シーハが客間に顔を出す前にケイが客間から出て行った。
なんでもない。店番を頼むよ。
向こうでそう会話しているのが聞こえたが、ケイが戻ってくるまではもう少し掛かった。
私は少しの間客間に取り残されていた。最悪の事態しか考えられていなかった脳みそは、あっけにとられフリーズしていた。瞼は無意識に閉じられ、乾ききっていた瞳を涙が襲った。
ふと、腕の不快感がないことに気付く。
恐る恐る視線だけを下に向けると、そこには白い羽はなく、肌色の両腕が膝の上に乗っかっていた。そこには何の痕もなく、全てが幻覚かと思わせるようだった。
けれどケイの私の腕を見たときの顔は、幻覚ではなかった。自分の身体の異変に、それを目撃されたこと。どちらも幻覚などではないのに、先程よりも随分と落ち着いている。
隠しなと言ったケイの言葉が頭の中で繰り返される。
思考は何か悪い可能性を無理に見出そうとしていた。けれどその言葉を頭の中で繰り返しているとき、私の心はその言葉に安堵していた。
「あんた何者だい…?」
ケイが戻ってきて、開口一番にそう聞いた。
質問を受けると、まだ自分に弁明の余地があるのだと知って安堵する。
「人間です……人です……。私も、わからなくて」
息が思ったより続かず、もう一度息を大きく吸った。
「おばさんはさっき、人間じゃないかもしれないって言ったけど、ここに来てからなんです、おかしいのは」
ケイは机に肘を着いた手で、右耳の欠けた部分を触った。そして少し考え込むようにしてから口を開いた。
「人間かどうか、テストしてみようか」
「テス、ト…」
嫌な予感が頭の中を駆け巡った。その想像の不快感に背筋がゾッとする。
「母親の名前は?」
「………え?」
「兄弟は?いるなら兄弟の名前も言いな」
質問があまりにも普通過ぎて面食らってしまう。つい痛い想像や、質問にしても怖い内容を想像していたが、その被害妄想がまるで馬鹿馬鹿しく思える。
「えっと、母の名前は里美です。それから結子っていうお姉ちゃん……姉がいます」
「サトミとユウコか……聞かない名だねぇ」
しばらくの間そんな変わり映えのしない質問が続いた。友達の人数や、人間関係のトラブルの有無、趣味など、全く人間らしい。
「…クク、なるほど。ククク、クククク」
一通り質問をし終えたと思うと、ケイは下を向いて肩を揺らしていた。
「今の質問で何が分かるんでしょうか…」
笑ってばかりで進まなくなってしまった会話を再開させると、白髪のお婆さんには似つかわしくない楽しそうな顔を上げた。
「二つの意味でね、可笑しくて可笑しくて」
ケイは呼吸を整えると私の質問に答えた。
「始めに言ったとおりさ、今のは人間であることを証明するテストだ。あんたは人間だ。もっともあんた自身は疑ってもいなかったんだろうが」
それは違う。疑いが晴れたとわかるや、さっきとは別の意味で心臓が脈を打っている。自分だけ信じてさえいればなんて綺麗事は、土壇場では一切通用しないのだと知った。
「研究すべきことが増えたな。…一方はわたしの管轄かも怪しい」
ブツブツと、一人の世界に入っては呟いている。
「ふっ」
そう思うと再び若々しい声で笑い出した。
「それにしても、男とケンカして気絶させちまうのは…クク、傑作だねぇ」
人間関係のトラブルを聞かれたときに話したことだ。あのときは大変だった。親同伴で謝りに行ったときも喧嘩になりかけた。
「全く、疑ったことが馬鹿馬鹿しいほど人間じゃないか」
思い返すと過去になっていた。自分の身に起きた異変も、怪物でも見たかようなケイの眼も。
「別次元から呼ばれた生物は、必ず人の姿をしているが元の次元では人であったわけじゃない。しかしあたかも、元から人間であったかのような振る舞いをする。食事の仕方、歩き方、言語。ただ人としての思い出や、その人物の歴史までは作り込まれていない。両親は居るはずだが名前はわからなかったり、人間には誰にでもあるはずの経験則による性格の差異なども確認されない。まるで記憶喪失でもしたかのようにね」
「記憶があることが、人間だったことの証明になるってことですか?」
「概ねはね。だがいちいち人間であることの証明なんかしないよ。あんたのような前例は見たことがないし、そもそも別次元に人間に限りなく同じ生物が存在する可能性と、際限ない数多の生物から内一体が選ばれる可能性を鑑みるに、まずあり得ないことだからね」
「……なるほど」
「つまりあんたはわたしの知らない方法で呼ばれた可能性が高い。そこには何か意味があるのか、ただ誰かの実験によって呼び出されただけなのかは不明だがね。そうでなけりゃ奇跡中の奇跡だ」
「奇跡?」
「奇跡だろう。とんでもないことだ。現に感動してるよ、私らと同じ人間がいたことに」
「……魔女は、皆こんなことをしてるんですか?」
「皆じゃないよ。それなり頭が良くないといけないからねぇ」
ケイは斜めを向いて座りながら、長く尖った爪でコツコツと机を鳴らしている。得意げに語る様子が、私の神経を逆撫でしているように思えた。
「もうやめませんか。そうやって、呼び出したりするの…」
奇跡という言葉が、良い事に使われている気がしたからだ。
どうしてと聞き返したケイの両目には、驚きも憤り感じさせない冷静な眼差しだった。その目を見るなり、既に返す言葉を用意しているのがわかった。
「人間じゃなかったとしても、その人には、家族がいたかもしれません」
「人間のような絆も思いやりも無いのにかい?」
「それでもこっちの都合で生き方を強制するのは、違う気がして」
「人間に生まれ変わることに何の問題がある?どこの誰かもわからない、ましてや本能のみが行動原理の生き物に感情移入するのはお門違いだ。現に誰も悲しまなかった。彼らはもう人間だ。わたしは彼らを人間と同様に扱っている」
彼らとは魔法によって呼び出されてきた人達のことだろう。
「あんたの事情には同情するけどさ、それでも可哀想なのはあんただけだ。居もしない被害者を、無理に捏造することはない」
喉の奥から、涙が溢れそうだった。
安堵した心の隙間から悔しさが入り混じり、複雑な心中を唇を噛みしめて殺した。
身体に痛みを伴う度に、いつもこれが夢ではないことを暗示する。そしてそれは、苦悩となって心に還る。