5話
一度泣き声に聞こえてしまうと、もう泣き声にしか聞こえなかった。断片的な泣き声で、左の横道から聞こえてくる。
「ちょっと先行っててー!」
「え!姉さん!?僕ら後ろ振り向けないですけど何かあったんですかー!」
まだ杖をついている方が楽で、杖をつきながら裏道に入っていった。完全に人気が無く静かな場所で、ただ泣き声だけが聞こえてくる。
一直線には辿り着けず、何度か角を曲がっていった。次第に鈍い音も聞こえてきた。
ここだ。この角を曲がればわかる。
「……ッ!」
それを見た瞬間私の中で熱い何かが込み上げた。
そこで見たものは、所謂イジメだった。数こそ一対一だったが、それは一方的な暴力のイジメだった。丁度シーハくらいの黒いローブを着た少年が、同じくらいの男の子を馬乗りになって殴っている。
「何やってるの!!」
私は出せる目いっぱいの速度で駆け付け、夢中になって殴り続ける少年の腕を掴んだ。少年は驚いて腕を止めたが、逃げようとはしなかった。
殴られていた方の男の子は少年が離れたとわかった途端、ふらついた足で泣きながら逃げていった。
そこには私と黒いローブの少年だけが残った。少年は少し俯き、虚空を見つめていた。その顔には確かに殴られたような痕があり、殴り合いから始まっていたことが窺える。
「何があったの?」
「……………」
少年は何も答えない。いつまで待てばいいのかわからない沈黙だった。
「あなた逃げなかったってことは、何か理由があったんじゃないの?」
少年は鼻をスンスンと動かした。目を閉じ、まるで脳みそで匂いを検索にかけているようだった。
私も目を閉じて匂いを探ってみたけど、わかったことと言えば、少年が少し臭うことぐらいだった。
「お前、おかしいな」
ようやく喋り始めたと思えば、その声は子どもとは思えない声だった。シーハとはまた違い、子どもの声なのに妙に喋り慣れたような、淡々とした声だった。
「え?何がおかしい……」
言い終える直前、腹部をズンッという衝撃が襲った。バランスを崩し、数歩後退したところで、松葉杖を手放してしまった体は簡単に倒れた。少年に、蹴飛ばされたのだ。
幸い腹部の感度が低いからいいものの、背中は容赦なく痛かった。
真っ青に明るい空が見える。何故。
「ちょっと何すん…」
ぐりっ!と変な感触がしたと思うと、少年が私の足を踏みつけていた。
「ここと、ここ。ねぇ、痛くないの?」
「あんたねぇ、話聞かない男子はモテないよ?」
少年の足から抜け出して松葉杖を手に取り、壁を使ってゆっくりと立ち上がった。
少年は私の目をじっと見つめている。
「ねえ、人のこと蹴っ飛ばしたり踏みつけたり、大体人の話を聞きなさ」
「なに言ってんだ、お前人じゃないだろ」
「…………え?何?」
「人の匂いが薄い。どうやって人の匂いを纏えたのか気になるな。教えろ。さもなくば殺す」
ダメだ。わからない。
理解するのに精一杯で、一度少年の目に標準を合わせた自分の目玉が、ずっと少年の目を捉えている。
まず一つわかるのは、こんな幼気な少年の口から出た「殺す」というワードが、あまりにも可愛いということくらいだ。私はもっと怖い目に遭ってる。遭っていなくとも、これは子どもらしくて可愛い。
「そんなこと言われてもお姉ちゃん、産まれたときから人だし分かんな」
「惚けるようなら、無理にでも引き摺り出してやる」
そう言った瞬間少年の体はみるみるうちに変容し始めた。
黒く毛むくじゃらの、私の背丈を超える巨体に、真っ黒い手脚がメキメキと生え、それが大地を掴んだ。
牙が綺麗に並んだ大きな口が、巨大な毛むくじゃらの奥から覗いている。
『この姿を見ても人間だと言い張るなら………………………いない』
右足首を庇いながら、全力で固い地面を蹴る。
「走れる、走れてるよ」
松葉杖もあの場に置いてきた。角を何度も曲がって隠れるように移動した。
もう一度左足を挫いて転ぶというデジャブが、これまた容易に想像できる。
あの巨体が建物に衝突する音が聞こえ後ろを振り返ると、大きな口がこちらを見てニヤリと笑った。
『見つけた』
いくら緩やかと言えど、坂を登れるほど健脚じゃない。しかし下りの方向には、化け物が大口開けて待っている。
「くそっ………!」
なるべく横移動で化け物の死角に入る。でも登らない限りには逃げられない。
死んだ気がする。
段々逃げる気が失せ、足が遅くなった。感覚を取り戻すと同時に脇腹が痛み出した。何も考えられない。頭が痛い。次の瞬間に殺されるとしても、走馬灯の一つも出てこない。
角を曲がり、死角に入る。次の角は曲がるべきか、真っ直ぐ進むべきか。どうしたら……。
「お姉ちゃーーーん!!」
そのとき全身を奮い立たせるように、全身に鳥肌が立った。住宅街に反響してどこから聞こえたのかわからない。
登ろう。
私は登ることを決意した。信じちゃいない。神様がいたとしても、助けてくれるとは微塵も思っちゃいない。でも上へ上へ登ろうとすることに、意味があるように感じた。
ズンズンと大きな音が近づいている。
走れ、走れ、走れ、走れ、走れ走れ走れ走れ!
『逃げても無駄だ!』
私の歩幅よりも大きく、四足歩行の足音も私より速い。
もう少し、もう少しでたどり着く。
そのときだった。
右足首を庇っていた左の足首が、グキッと音を立てた。
デジャブだった。目指していた先の景色が、上へ登っていく。目の前に地面が迫った。
ああ、もう少しだったのに。あの時のように、もう一踏ん張りする余力がもう無かった。このまま地面に頭を打ち付けた衝撃で、死んでしまえばいいのに。
私ってずっとポジティブだと思ってたけど、結構ネガティブなんだなと、要らない思考が残った。
地面が迫る。打ち付ける頭が近い。倒れるまでがもの凄くゆっくりに感じる。
まだつかない。
まだつかない。
まだ……。
「ん?」
変だ。ゆっくりに感じるのはそのはずだが、余るほどに思考が追い付く。
そのとき、自分の頭が倒れるよりも高く、後ろに蹴り出した右脚が浮いていることに気づいた。
気づいた次の瞬間、全身にグンッと強い重力を受けたかのような感覚に陥る。強く風を浴び、まるで浮いた右脚に強く引っ張られたような、そんな感覚だった。
もうどちらの足からも地面を感じない。
びっくりして閉じた瞼を、ゆっくり開ける。
その目に映った景色は、逆さまになった空だった。
頭上には街と、シーハたちと一緒に登った一本坂が見える。
高く、高く空の上に、私は飛んでいた。
私を空へと連れていった右足首は、無数の小さな羽で覆われていた。その小さな羽が纏まる姿は、一枚の大きな翼だった。
見たこともないような綺麗な白色の翼。
見たこともないような空から見える街の風景。
まるで太陽が、私と同じ目線にある。
空の上から見えた景色は、坂を登るときに想像していたものとは比較にならないほど、美しく、煌びやかで、唖然とした。