末期夕陽病
厚い鉄扉を押し開けると、夕焼け空が広がっていた。正木久信はゆっくりとした足取りで、縁に設けられた金網フェンスに寄り、手を掛けた。
見下ろせば、校門前で手を振りあい、散り散りに帰路につく生徒たちの姿があった。グラウンドの隅には、数人の生徒が足を止めて集っている。冗談でも言い合ってじゃれているのか、時おり、彼らの笑い声が正木の耳にまで届いた。
屋上には正木一人しか居なかった。午後六時を回れば、校舎に残る生徒は殆ど居ない。エレベータ塔と植木鉢が置かれているだけの屋上ならば尚の事。正木はフェンスの網目に指を引っかけたまま、淡い朱に染まった空を眺めていた。七月の初週が過ぎた。夏至はとうに越しているのに、日はいよいよ長く感じられた。
夕焼けを眺めるのは好きだった。涼やかな風に吹かれて、どこかに焦点を定めるでもなく、ひたすら遠くをぼんやりと眺める。夕陽は漂う雲を赤と黒とに染めながら、西の山際に浮かんでいた。
――これで、お終い。
唇より溜息が毀れた。しかし、表情は強張ったままで緩まない。やや垂れ下がった眦に、眉間には皺を寄せ集めている。言葉が過ぎった瞬間に、女の声が耳奥に響いた。顔は思い出せないが、小さな後姿は明々と覚えている。唇がきつく結ばれた。正木の顔つきはむしろ、険しさが増していた。
正木がまだ中学生の時だった。教育実習生として、実際に教壇にも立った大学生が自殺をした。実習が終わって一週間後のことである。その一言を遺言書に記していたと、当時の担任教師から聞かされた。背を丸めて、俯き加減に歩く彼女の様は、未だに思い出せる。
今日で正木の教育実習が終わった。担当教諭の永嶋の修了の認印が実習簿に捺された。残すはこれを大学の事務局に提出するだけである。
「そういえば、今日で終わりだったな」
実習簿を開いた永嶋が、唐突に切り出した。日誌の頁から、黄色い背表紙が透けて見えたための反応であると、正木は察していた。
白髪交じりの角刈り頭に、黒縁の眼鏡で痩けた頬をしたこの担当教諭に対して、正木は常に懐疑を抱いて接していた。春先に挨拶に訪れた際も、色の褪せたネクタイに皺だらけのシャツ姿で現れ、「適当に、よろしく」とだけ言って握手もかわさなかった。首裏を掻くなり、視線を窓の向こうに飛ばすなりと、ぞんざいな態度をしていた。取り扱う教材について確認を取りたかったが、面倒そうな歪んだ顔ばかりを向けるこの教諭を前にして、先に、正木の心が萎えていた。
いざ実習が始まってからも、永嶋教諭の態度は無精であった。正木が授業計画や学習指導案を丁寧に書きあげて提出しても、おざなりに認印を捺すだけで、批評の類の言葉は一切なかった。始めたばかりは不安を覚えていたが、一週間が経った頃には、見切りをつけていた。残りの日々を恙なく消化するだけに徹すると決めて、要らぬ波を立てぬように心を配していた。
「短い間ですが、お世話に成りました」
頭を深々と下げた。感慨はなかった。
「まあ何だ。大変かもしれないけど、取り敢えずこれからも、頑張って」
顔を向けもせずに永嶋はそう言った。そして、日誌を一度の流し読みだけで査閲欄に印を捺した。
「はい、お疲れさん」
無造作に実習簿を正木の胸前に突き出す。永嶋はデスクに広げられている通信簿に視線を戻していた。
「お手数おかけしました」
両手で実習簿を受け取り、明瞭な口調でそれだけ答えた。後は口をむっつりと噤んで踵を返して、職員室から出ていった。
扉を閉めると同時に、肩から息を吐き出す。解放感はなかった。首元に甘く締め付けるネクタイを緩めたかったが、校舎を出るまでは正しておくべきとの配慮が正木の頭の隅にあった。
実習簿を筒状に丸めて持って、実習生の控室として設けられた三階の一室に向かっていく。こんなものかとの他愛なさと、こんな筈ではなかったとの蟠りが、胸中で沸いていた。スラックスの膝周りには皺ができ、白く汚れ始めている。実習が始まる前に、クリーニングに出し、アイロンのノリで真っ直ぐ整えらいた筈なのだが、三週間の研修期間を経て、すっかり草臥れていた。
長い廊下を足取り重く歩いていく。天井には白い蛍光灯が等間隔で並び、その白い光を厚く張られたリノリウムが反射している。眩しさを覚えて正木は眼を細めていた。足音は一つしか聞こえてこない。ただ、幾多もの声が響いていた。外か下階で生徒たちが未だ騒いでいるのだろう。つい数時間前は狭苦しいほどまで込み合っていた廊下が、今は突き当りの壁まで障りなく見渡せられる。
――この光景は、きっとどの学校であっても変わらないのだろう。
そんな感想が胸中に浮かんでいた。正木の出身校は、関東の片田舎にあり、この学校ではなかった。父親の転勤の関係のために、出身校の近くに住まいが無くなっている。そのため大学のある市の教育委員会を頼りにし、この学校が紹介された。出身校の控える町に二度と踏み入れたくなかった心情も、正木には大きくあった。無為に過ごしてきたと、思い出すだけで表情に険しさが宿り、心内には悔いが込み上がる。
窓ガラスには自分の顔が写っていた。微かに夕光に染まっている。細いフレームのメガネを掛けた、面長で頬が僅かに痩かした、締まりのない顔つき。レンズの奥には情けなく垂れ下がった眼が控えている。二十歳を超えても尚、幼さが消えずに残っている。見る度に嫌悪感を覚えていた。全うに歳をとれず、子供のままと言われているような気がするからだ。中学生の時分から、身体を縦と横に伸ばしただけで、碌に成長もせずに、何も変わっていない気がして、堪らない。白い半袖シャツに黒のスラックスの組み合わせも、中学校の夏服と同じ格好であり、ネクタイがなければ見分ける術がないように思た。
眉間に皺を寄せて表情を厳しくさせた。視線は下に向けて、窓を見ないよう心掛けて、脚を進めた。
小川と小山に挟まれた処に設けられた中学校だった。すぐ隣に神社が構えており、大きな赤い鳥居を横目で見ながら、正木は通っていた。鳥居の奥には鬱蒼と繁る森があり、人通りは少なく、閑寂と控えている。正木はこの中学校に厳かさがあるとの印象を抱いていた。担当したクラスの生徒たちは大人しく真面目であり、優良であるとの感想も未だに持っている。永嶋を除いた他の教師も、礼儀正しく、何より勤勉であった。
研修生は正木一人だけだった。実習生の控室には、机と椅子が一組だけ置かれていた。授業がなければ、この部屋で指導案を練りながら待機しているのが常であり、また放課後はこの部屋で黙々と日誌を書き記していた。部活動に励む生徒たちの掛け声を耳にしながら、彼らとは遠く隔離された場に置かれたと実感した。
そして、行先のなかった正木の、受け入れ処として開いてはいたが、決して快く引き受けたのではなかったと、実習の半ばにしてようやく気が付いた。六月下旬より三週間。初週は定期考査で潰れた。二週目から、教室の後ろに立ち、永嶋や他の教諭の授業に参加した。そして三週目にして、ようやく教壇の上に立ち、実際に授業を行った。定期考査が終わり、夏休みまでの小休止となる期間。教材は小説の読解だった。
「あまり根を詰めて考え過ぎないことだな。空回りするだけだぞ」
研修の初日、よろしくお願いしますと、正木が頭を下げた直後に、永嶋が無造作に放った言葉である。
「どうせ聞いていないだろうし。熱を入れても鬱陶しがられるだけだ。それに、お前の言葉なんぞは、誰一人にも届いていないよ」
絶句したまま、何も言い返せなかった。
永嶋の姿勢は、生徒にすらも倦怠感と煩わしさを露骨に出しているように見えた。実際に正木が教壇に立って、授業を進めていても、腕を組んで壁に身体を凭れ掛けさせて、頭を垂らしていた。観ているのか寝ているのか判断のつかない姿勢で過ごしていた。――教師にでもなるか、教師にしかなれないか。そんな言葉を思い出した。教師にでもなろうかと考えた、教師にしかなれない人物とは、まさに永嶋教諭に相応しかった。
チャイムの音が鳴った。反響のためか、歪んで間延びしているように聞こえた。振り返れば、職員室のプレートがまだ見えている。腕時計を確認すると六時を指している。窓の向こうに赤みがかった空と雲が見えていた。
――せっかくだから。
階段の踊り場で足が止まった。自身の黒い影が、下階にまで届いているのが、楽しかった。また、窓枠によって切り取られた景色を見つめるうちに、もう少しだけ空を眺めていたい気持ちが強まっていった。
淡い色をした夕光と黒く伸びる影が美しかった。正木はゆっくりと息を吐き出す。心を凪のように落ち着かせていた。それから、屋上を目指して階段を上っていった。
金網に引っ掛けている指先にじりじりと力を入れていく。視界の端に入り込む自身の手の甲は、逆光となって黒に塗り潰されて、陰の中に溶け消えているようだった。
そして、正木にはそれが良かった。幼少の時分から好きではないからだ。柳枝についた芽のような、小さな自分の拳は、ケンカには無力であり、その上ひどく不器用であった。金釘のような文字を書き、図画工作は不細工なモノばかりを仕上げる様である。担当教師は渋い顔を作る、あるいはもう少しマシにならないのと舌打ち混じりに吐き捨てて、正木を詰った。いくら丁寧を心掛けても、同じ感想が聞こえてきた。その度に不器用な自分が嫌いになった。傷痕も胼胝も――癖も特徴もない、白く小さな自身の掌を見つめては自己嫌悪に陥る。
片手に丸めて握っている実習簿の殆どは自身の手書きであるが、角張った醜い文字の並びには、苛立ちと自身の幼さを痛感させられる。結局、この弱々しい拳を振り回してケンカに負けていた頃から、自分は何も変わっていないとの思いが浮かび、気が鬱した。
「さようなら」
声が聞こえてきた。微かながらも清澄である。正木は左右や背後を確認したが、人の姿は見当たらない。百合らしき白い花が植えられた鉢が、エレベータ塔の小脇に並べられているに過ぎない。風を受けて、二手に伸びた葉が左右に揺れていた。
「先生、さようなら」
もう一度聞こえてきた。まさかと訝しげに思いながらも、フェンスより視線を下げていく。正木に向けて大きく手を振っている人影があった。学校指定の白いシャツにも濃紺のスカートにも、夕陽の淡い色に染まっていた。顔を上げて、視線は確かに屋上へと向けられている。
正木は顔の近くまで手を挙げて、ゆっくりと振って彼女に答えた。そうしながら眼を凝らした。担当したクラスの女子生徒の誰かであろうと推測したが、具体的な名前は出てこない。そもそも正木にはこんな風に声を掛けられるほど生徒たちと仲良くしていた覚えがなかった。彼女の顔は夕光により陰りとなっていた。輪郭だけがぼんやりと分かるのが精々であって、判然とはしない。
そして顔を歪めたまま、正木は首を傾げた。彼女の声は、張り上げたような強さはなかった。風に乗ればたちまちに流れてしまいそうな、軽やかな調子だった。屋上で佇んでいる正木の耳に届いたのが訝しげに思えた。もう一度、見下ろして確かめようとするも、手を振って声を掛けてきたであろう女子生徒の姿は消えて居た。校門口まで視線を向けていくも、人ひとりとて歩いていない。見間違いでもしていたのか。正木は掌で側頭部を数度叩いてから、フェンスから離れた。軽く眼を瞑れば、手を振っていた女子生徒の姿が未だはっきりと浮かんでくる。
もう一度、正木は深く息を吐き出した。肩に伸し掛かる気怠さに、いよいよ疲れを自覚した。陽はいまだに西の山端にあり、黒い稜線を太く描いている。
フェンスから一歩、二歩と下がっていき、夕焼けに染められた山際をしっかりと見つめてから、正木は屋上を離れようと足を進めた。
間もなく日が落ちて、そして夜になる。これから実習生の控室に戻り、荷物をまとめてから帰路につく。校門にたどり着く頃には、夜の帳は降りきり、空はすっかり黒に染まりきっている。もう暫く夕景を眺めていたかったが、正木は振り返らなかった。
風に揺れている白い花を横目で見やりながら、鉄扉の取手に指先を引っかけた。力を込めていくと、鉄扉は悲鳴のような金切り音を響かせて、ゆっくりと開いていった。
踊り場や天井に設けられている蛍光灯は消されており、足元は仄暗く、窓から差し込んでくる夕陽が辛うじて頼りとなっていた。正木は手摺に空き手を預けながら、丸めた実習簿で肩を叩き、軽い調子で階段を下りて行く。
三階の廊下に出る。突き当りの部屋が教育実習生に充てられた控室である。片側に窓が並べられているためか、光量が増しているようだった。リノリウムがそれを受けて返し、埃や塵が白くちらちらと輝いている。
懐かしい風景だった。正木は中学生の頃から、わざわざ放課後遅くまで残って、誰もいない暮れなずむ廊下をぼんやりと眺めていた。銀の砂子を塗しているようで綺麗だったから。それが動機だった。
そして、その楽しみを教育実習生によって邪魔をされたのを思い出した。その時、彼女もまた黄色の紙表紙の実習簿を持って、肩を落としながら廊下を歩いていた。
響き渡るヒールの音が煩わしく、ささやかな時間を邪魔されたとの苛立ちと、弱まっている相手をからかってやろうとの感情を抱いて声を掛けた。「先生は、やっぱり学校の先生に成りたかったのですか?」と。彼女はゆっくりと振り返ってから、静かに首を横に振って否定した。表情は陰に隠れていて、正木には判らなかった。
「では、先生はどうして、教育実習に?」
「――どうして、でしょうね」
二人の他に誰もいない廊下で、小さな声が空しく響いた。正木の心に冷たい風が吹いていった。そして、意地悪をしてやろうとの意気も表情も、溶けるように消えていく。
物静かな教育実習生だった。必要以上に生徒たちに絡もうとせず、話し掛けられたら、それについて適当に答えるだけである。授業についても、淡々と段取りを踏んでいくを徹している。鬱陶しいほど意気込んでいた前年の教生と比較して、夕景を邪魔するまでは微かながらも好感を抱いていた。
しかしそれ以上に、正木にとっては、どうでもいい存在だった。この場で彼女の顔も俄かに思い出せないほど、興味を持っていなかった。外巻きで様子を眺めながら、進んで関与しようとはしなかった。彼女を中心として教卓に集い、騒ぐほかの生徒たちをぼんやりと眺めるぐらい。彼女も自分なぞ覚えていないだろうと踏んでいた。
佇まいは、日陰に小さく咲く花を思い浮かべさせる。印象に残らない程度には整った顔をしていた筈だった。控えめで大人しい雰囲気は、か弱さというよりも脆さがあった。
「それでも、教育実習に?」
「私にもわからないです」
自嘲気味の言葉が返ってきた。正木は恐怖を覚えた。あと一押しすれば、崩れて行ってしまうとの感触があった。影に溶け入りそうなほど軽く昏い。
「先生は、何に成りたいのですか?」
正木の問いに対して、暫く返答はなかった。身動ぎもせず、表情こそ黒い翳りの中で定かではないが、彼女は確かに視線を向けていた。正木は口を噤んで黙したまま、返ってくるのを待った。唇は強張りを覚えた。
「――楽になりたい」
正木の耳にやっと届くような小さな声だった。そして、彼女はさよならと廊下に溶け消えそうな声で呟いた。ヒールの音が鳴りだして、彼女は実習生の控室へと消えていった。正木は呆然と立ち尽くしたままだった。その影の残り香に緊張を覚えて、我を忘れていた。
教育実習生は、その一週間後に首を吊って死んだ。話はその時の担当教師からあった。鬱蒼と繁る学校最寄りの雑木林の奥地で、一言だけを添えた遺書を置いて死んでいた。一分ほどの黙祷の時間が設けられたのを正木は憶えている。瞼を閉じた際に、両肩を落とし、首を垂らして、ロープに釣り下がっている彼女の姿が、明々と見えたからだ。廊下で見た背中姿から、その絵を想い描くのは、余りにも容易であった。もうまもなく夏休みという時期に、身体の芯が震えるような冷たい汗が背筋を流れていった。
その日から当分の間、正木は自殺の詳細を知ろうと動き回った。新聞などを読み漁るのは勿論、彼女が通っていた大学や、自殺した雑木林や、暮らしていたアパートまで足を延ばした。しかしながら、新聞の記事は三面に数行載るのがやっとであり、大学では彼女の名前や名残はどこにも見当たらなかった。アパートにたどり着いたのは、一、二か月が経ってからだったが、彼女の部屋にはすでに新たな住人が暮らしていた。
――これで、お終い。
やっと知れたのは、遺書として残された文言だった。担任教師から聞いた。そして、心当たりはないかと尋ねられていた。教師も連日のように、彼女の教育実習の期間中に、何かなかったかと、警察官から色々と尋ねられていたそうだ。正木は彼女の昏く小さな背中を思い出しながらも、首を振って否定した。
黒いスーツ姿で教壇に立ち、授業を進める姿は覚えている。他の教師と比べて歳が近いのもあってか、休み時間などには生徒たちが彼女の周りに集い、会話をしている姿をしばし見かけた。また同時に、俄かに見せる深く昏い眼差しが印象的だった。そして、その眼差しの奥に自殺が控えていたとは、判らなかった。
無論、それを確かめるために、正木は教育実習を経験しているのではない。単位と資格が取れるから選んだに過ぎなかった。少なくとも、自身の胸にそう言い聞かせている。
そもそも正木には、学校の先生に成るつもりなどなかった。時間さえあれば採れる資格として、大学一回生の折からカリキュラムに組み込み、続けてきただけである。流されるだけ流された結果、今、夕陽射し込む廊下に佇んでいる。
実習期間を着通したスーツも就職活動のために買いおろした。履いている革靴もそうである。ラフな格好でもいいぞ、とは言われていたが、正木はスーツにネクタイを締めての服装を通していた。実習生と言えども先生と呼ばれる、そのケジメのつもりだった。
荷物をまとめて、暮らしているアパートに帰り、研修のレポートを書き上げる。それが終われば、就職活動を再開させなければならない。ふとその事実を思い出し、気が滅入っていく。
現状、内定は一社も出ていない。エントリーシート、筆記試験までは無難に進むのだが、面接で悉く切られていた。正面を向いて、明瞭な言葉を返しているつもりだが、表情は歪なまま硬直し、喉より出てくる声は上擦っていて、当人がげんなりするほど気色が悪かった。
手に職がある訳でもなく、目から鼻に抜けるような冴えもない正木には、愚かなほどの実直さしか売り物がない。働ける場所が提供されれば、そこで黙々と働くと考えて、その意気で臨んでいた。それが間違っていると気が付くのに時間を要した。
「では、君は大学生活の中で、何をしてきたのかな?」
どこの会社の面接試験だっただろうか。聞かれた途端、正木の視界が白濁とした厚い靄に覆われていった。言葉は一切出てこなかった。耳障りな呻き声だけが喉から毀れていた。
結局、「何もしていません」と絞り出すようにして答えた。嘔吐するより気分が悪かった。その後、正木は何を尋ねられて、何を答えたのか、覚えていない。青ざめたままで硬直した表情を俯いて隠して、拳の中で爪を深く突き刺していた。
面接が終わり、その会社を出る。足取りは覚束なかった。壁や手摺を伝いながら、殆ど這うような心地で歩いていた。涙のモザイクと白い靄とで視界は酷い様であった。
ようやくとの思いで外に出て、空高くで輝いている陽光に顔を向けた途端に、膝の力が抜け落ちていった。咄嗟に壁に身体を預けさせて、深呼吸を繰り返した。吐息は微温く嘔吐感を誘った。立っていることが耐えられなくなった。壁に背中を預けて、膝を抱えて蹲った。頭はぐらぐら揺れており、喉元に饐えた匂いが込み上げてきた。堪えるために、壁に凭れたまま、両目を瞑って、顔を隠したまま身動ぎもしなかった。
幾分を要したか判らない。落ち着きを取り戻して、顔を上げた。行き交う人々を、三白眼で恨めしそうに眺めていた。声を掛けてくるような人物は一人もいない。奇異なモノを見たかのような一瞥があるだけだった。流れの中で異物として弾き出されてしまった、との不安が明らかになった。
木目調の床が視界に広がっている。足元に伸びている自身の影が、濃く長くなっていた。正木は顔を上げて、眼を尖らして正面を見つめた。廊下に射し込む夕陽の、赤みが強く増しているように感じられた。さして距離があるはずもないのに、突当りが黒い影の中に溶け消えているようだった。
――早く帰ろう。こんな事は、明日、改めて考えればいい。
夕陽はいよいよ山に隠れようとしている。まもなく夜を迎える。
――明日。
脚が動かなくなっていた。視線もゆっくりと下に落ちていく。言葉に違和感を覚えたからだ。そして、身震いするような寒気に変わっていった。
――果たして、明日なんて、来るのだろうか。
夕陽に照らされた木目と、影で塗り潰された黒色とが交互に配された廊下。その果てを確かめるように、視線を遠くに向けていく。突き当りとなる壁は見えなかった。黒い影に覆われている。
――違う。ずっと今日の延長線上を歩いているに過ぎない。明日なんて来ない。
寝て起きた処で、新しい朝を迎えているとは、正木には信じられなかった。同じ日を同じ年を繰り返しているだけではないのか。白色の蛍光灯の下で、リノリウムの張られた床をとぼとぼと歩く。日が昇れば起きて外に出て、日が落ちれば家に帰って眠る。思い返してみれば、中学生――、いや物覚えのついた頃からそんな暮らしを続けている。白い灯の下を過ごしているのは、おそらく生まれて以来となるのだろう。それこそ、病院の保育室から。透明のアクリルケースの中、無色無柄の毛布にくるまれて、蛍光灯の鋭利な光と向き合わされる。瞼を閉じてもその強烈な白色の光に瞳は侵され続けて、次第に麻痺し慣れていった。そして、その光が消されえしまえば、いよいよ眠る時間となるのである。何も変わっていない。
――いったい今まで自分は何をしてきたのだろうか。
ふと唇が緩み歪に曲がった。自嘲のためである。隙間から微温いため息が漏れ出てきた。
面接の場で、何もしてこなかったと吐き出したが、それは紛れもない事実だった。強いてあげるならば、大学で出された課題を一人で黙々と処理していったことぐらい。それは誰もが為している。サークル活動も、ボランティアもしていない。仲良くしている友人も一人もいなかった。話し掛けようとすれども、他者から拒否されていると肌が直感し、怖気づいていた。人脈もコミュニケーションも最小限に抑えて、四回生の夏を迎えていた。
愚痴を言い合うことも相談することもできず、一人で処理しなければならなかった。幸いなことに、難はなかった。大学の構内を歩いている際に、楽しげに談笑している同年代の男女を見てしまう方が辛かった。その度に胸が握り絞られる心地がしていた。
知らぬ間に校舎の日陰を歩くようになっていた。孤高を気取っているつもりはない。慣れと惰性によって耐えているだけである、と正木自身は認識している。口を結んで、俯きがちにそそくさと校内を歩く。講義の際は教室の隅に座り、誰とも話すことなく受けて、終われば直ぐにその教室から出ていった。笑い声が耳に届いてきても、それは自分にはないモノとして判断した。肺腑が擦られるような覚えが起こり、居心地が悪くなり、鬱屈が溜まり出す。テレビやスクリーンの向こう側に広がっているものとして、努めて追いやろうとした。
寂しさは胸の内側で常に抱いていた。向き合えば、忽ちの内に耐えられなくなった。人の顔を見れば緊張を覚え、話し声が聞こえれば胸が擦られて、胃が突かれる心地だった。いくら日が経とうが変化は訪れない。毎日が同じことの連続のように思えた。変化するのは、気候と寮部屋の天井のシミの広がり様だけであった。
一度だけ、その旨を相談しに、大学が設けているカウンセラーを訪ねたことがある。布団の中で身体を丸めて涙を流している自分を発見し、いよいよ耐えられなくなった。案内板を頼りに大学内の奥へと歩を進めていき、プレートに記された文字を確認してからノックをすると、「開いていますよ」と間延びをしたような軽い返事が聞こえてきた。正木の表情に俄かに嫌な色が滲んだ。
扉を開けてみれば、大学卒業したばかりのような、あどけなさの残る若い女が真っ白な白衣を着て構えていた。正木は顔をしかめさせながらも致し方なく、相談の旨を話した。「それならこれから頑張ってみましょうよ」と何の解決にもならない言葉が明るく放たれた。正木の心はその光に当てられて、さらに陰りを濃くさせた。
――気安く言ってくれる。
薄く紅の引かれた唇の歪みが半笑いとして正木の瞳には映っていた。何を話しても、心を爪で引っ掻くような答えしか返ってこなかった。正木は硬い握り拳を作って、早々とこの場を去った。
扉を閉めた直後に、「気持ち悪い」との女の声が耳奥にはっきりと響いてきた。脳裏には嘲笑を浮かべている顔が明々と見えていた。幻聴だとは思えなかった。以後、足を向けていない。
しばらく歩いても、拳は硬いまま、緩まなかった。
――あの顔を殴り飛ばしてやりたい。
拳の中では爪が深く掌に突き刺さっていた。ひりひりと痛む自分の心内で、その意思があるのを正木は発見した。癪に障るあの嗤い顔を殴り飛ばして、上に乗って抑えつければ、赤い血と恐怖の陰りでどのように歪むのだろうか。細い腕とわずか膨らんだ胸元が脳裏をかすめていた。そのまま想像を進めていく内に、口角が鋭利に尖りだした。
しかし、その悦からは直ぐに醒めていった。耳を劈くような悲鳴の後、控えているのは面倒なことばかりであると解ったからだ。警察に突き出されるは勿論、大学除籍は免れない。さらにその後など考えたくもない。その気は萎えていった。結局、激情に任せた処で、自分にできることはくだらない上に、酷く虚しいことだった。
――でも、ここで踏み出せないのが、一番悪いんだろうな。
もはや溜息しか出てこない。硬く作った拳は、自分自身に向けるしかなかった。
自嘲のために唇が歪む。決心のない自身が情けなかった。膨らんだ胸元や、紅の施された唇に、白く肉つき良く伸びた脚。それらが脳裏に浮かんできても、邪な感情であると必死になって旨の内側に抑え込み、徹底的に否定した。
大学構内で響く、高らかな笑い声を恨めしく眺めるしかできなかった。こんな暗い人間に、友人なんていらないと厳しく言い聞かせた。
「先生」
背後より声が聞こえてきた。空気の抜けるような調子外れに間延びした口調だった。驚きを覚えながらも、正木はゆっくりと振り返った。白いシャツに濃紺のスカート。一人の女子生徒が立っていた。強さの増した西日に照らされて、表情は陰りとなって隠されていた。正木は直感的に先に手を振っていた少女であると断じていた。
――下校の時刻はとうに過ぎているのに。どうして、まだ残っている。
言葉が喉元まで込み上げてきたが、唇が動かなかった。
肩口あたりで切り揃えられた髪に華奢な体つき。声調にも少女の輪郭にも、思い当たりはない。驚きと戸惑いとで、正木は自身の口角が引き攣れているのが分かった。
「先生は、何に成りたいのですか?」
緩い声が届いてきた。答えはない。固唾を飲めば、耳障りな音を立てて喉が鳴った。
「さあ、なんだろうな?」
それだけ答えて、後ははぐらかして誤魔化そうとした。表情は硬く強張ったままである。
少女の視線は変わらず、正木の顔に向けられたままだった。満足も納得もいっていないのが判った。彼女の表情を捉えようとするも、影の色は濃く、不明のままである。彼女の視線は胸を刺す鋭さがあった。
――『先生』、といつも答えていた。
立ち去る気配のない少女と相対しながら、正木の脳裏を過ぎっていった。幼少の頃、あるいは小中学校での進路相談の折に、投げやりながらもそう答えていた。正木がそれしか知らなかったからだ。
父親は私立の総合病院で医師として勤めており、母親は大学の事務で働いていた。二人の会話では先生と呼ばれる人物か、それに診られる患者、もしくは生徒しか登場してこなかった。
そして、二人が他の職業を見下していることも言葉の端々から、幼いながらも正木は感じ取っていた。あそこの家は何々だから仕方がない。あの人は所詮云々だからな、難しいだろうな。食卓を囲みながら、二人はしばしばそんな会話をしていた。正木はその会話を否応なく耳に入れながらも、黙って箸を動かして食事を済ませて、育っていった。
父を訪ねてくる客は、先生、先生と彼を呼び、堅苦しい言葉遣いでへこへこと頭を何度も下げていた。阿っているようにしか見えなかった。書斎には医療にまつわる書籍が並び、開いた処で正木には理解ができなかった。だが、これらは大人になれば解ると、中学校時分まで信じて疑わなかった。
母は母で、職場の同僚の学の無さや、学生、院生の常識のなさを嘆く一方で、大学教授を知識のありようを褒め讃えて――、正木もそう育つよう事ある毎に言い放っていた。
二人はレールを描いて、自分を育てている。無意識の中で、いつの間にかそれを感じ取っていた。振り返れば、それに答えようとしている自身の姿が正木には見えた。数学や科学の成績が伸びれば、二人は喜んで褒めた。擽ったさを覚えながらも、眼を細めて噛み締めた。いつしかその甘さを求めるようになっていた。
医者に学校の教諭。もしくは政治家に、弁護士、税理士、研究者――。いずれも職業も『先生』と称されている。これらの内のどれか。漠然としながら、将来の夢の答えとしては十分だった。
しかし、もう通用しない。今の自分は大きく逸脱している。その意識が強くあった。
「何だと思う?」
意地の悪く尋ね返した。細い姿態に不釣り合いに膨らんだ胸元。膝頭が隠れるまで伸ばしたスカートに野暮ったさと親近感があった。茶色の革靴に折り返したレースの靴下。窓ガラスより斜めに差し込む夕陽を半身に浴びている。
担当した生徒から数人を照らし合わせても、彼女と該当する人物は見いだせない。しかしながら、彼女の緩い喋り様に、引っ掛かりを覚えていた。中学校の他クラスの生徒なのか、それとも過去の知り合いか。やはり、陰に隠された彼女の面立ちを確かめたかった。廊下はますます朱の色を濃くさせて、陰影を深くさせている。
「先生ではないのですね」
彼女は首を傾げながら返してきた。
「そうだな」
「では、先生を何と呼べばよろしいのでしょうか?」
返す言葉はなかった。教師にでもなろうとして、教師にすらなれない、無能な自分を知っていたからだ。
先の面接試験で、眼前が白色に侵されてから、正木は自分の愚かさをひたすらに恨んでいた。そして改めて就職活動に顔を向けようにも、遠方で輝く星を目指すような行為に思えて仕方がなかった。今までの自分は、手当たり次第に手の届きそうな処に足を向けていたが、そもそも目測を誤っているので、そこまで届かないのは当たり前であった。
果たしていつレールから外れてしまったのだろうか。省みても痕跡は見つからない。気づくまでは両親が敷いた轍を辿っていけば、それでいいとしていた。反発を抱いて、反抗を表しながらも、深い無意識の中で強く信仰し、結局はその中で納まっていた。
端からレールなど敷かれていなかった。
理系科目に理解ができなくなった高校時代からか、両親はともに、正木に対して何も言わなくなった。その頃は丁度、兄が医大の博士課程に進み、姉は薬学部に籍を入れていていた。二人は父と同じく医療の道を確実に歩んでいる。家としてみれば、これで次男坊の用事はなくなった、との事なのだろう。開業医ではない手前、三人の内、あるいは姉の婿となる人物が医者に成れば良かった。
褒められた際の甘い喜びは、それを悟った瞬間に醒めていった。この親からは何も期待されていない。自身の存在が滑稽に思えた。
また、帰省の際に、父は、大学を四年で卒業して無難に就職さえすればいいとのみ意思を示すだけだった。大学院は許されなかった。モラトリアムはもう十分だろうと、軽く手で払い除けるようにして返された。母は反論も弁解もない。追従したと正木は判断した。
就職先について、一切口出ししなかった。二人の想像では、適当に名の知れた企業に入社するものとなっているのだろう。口振りが余りにも他愛なく無造作であり、正木を苛立たせた。二人はともに縁や医局の斡旋などで、偶々その職務に就いている。就職活動などについてはまるで無知であった。そして、その下で育った正木は、自身の世間知らずを痛感し、苦戦を強いられていると思い込んだ。
就職活動を始めた際の、合同説明会に赴いた際のことは、鮮明に記憶している。大型ホールを貸し切っての催しだった。正木でも聞き覚えのある大手から、その下請け会社などの企業がブースを設けてられていた。
会社の業績の優秀ぶり、福利厚生について、今後の営業計画についてなどを大雑把に説明していたが、正木はその内容についてまるで頭に入らなかった。名も知らぬ企業に、わけのわからぬ業務内容。入場時に渡されたチラシに記載された紹介文や、企業ブースの構えを見ている内に、自分が迷子になっていような気がしていた。知らない世界が次から次へと現れてくる心地がした。頭がくらくらと揺れて、外壁に身体を預けて、立ち尽くしていた間もあった。さらにその上、自身の適合が云々などと、呪いのような言葉が耳を通り抜けていく。
藁をも縋る思いで、金型工場やマンション販売業者、新聞配達の営業所にシステムエンジニア業やら、業務内容を問わずに、取り敢えず引っ掛かった処ならば、どこへでも足を向けていった。そして、その全てから不採用との返答を受けた。
――自分にはなれる職業がないのかもしれない。
何も担えない。無能の烙印が捺されていたと自覚した。取り換え可能な消耗品としてしか認められていない。若い正木には飲み込み辛い評価であった。不採用通知が届く度に、頭を抱えて、肌に爪を刺して掻き毟った。自分の無能さがつくづく嫌になっていた。
自分の成るべきことが悉く否定されていく。一方で内定だの卒業旅行の話などが、大学に行けば自分の頭の上で展開される。猿のように手を叩いて笑い合う姿を見るにつけ、肺腑をヤスリで擦りつけられる心地があった。
面長で、暗い陰りを落とした顔が、窓ガラスには映っている。眼鏡の奥には情けなく垂れた眼に黒い影に沈んだ瞳。これでは端から好感はもたれまいと、自分でも重々わかっていた。正木にはこれしか顔を持ち合わせていなかった。
「先生。もしかして、卑屈なことを考えていませんか?」
緩く抜けた口調が聞こえてきた。少女が小首を傾げさせながら、正木の表情を窺おうとしている。自身の顔はいまだに陰に塗り潰されたままであるにも関わらず。
「そう見えるか?」
「えぇ。卑屈が過ぎて、もはや傲慢とも感じられるほどに」
軽やかに彼女は言い切った。途端、正木の唇は吊り上がり、頬はひくりひくりと引き攣れる。少女の口元は歪んでいるように映った。挑発でもしているのか、嗤っているとしか見えなかった。握り拳が固くなっていくのが分かった。
「自分は無能であると思い込むことで、可愛い可愛い自分を守りに守って――それで一体、何に成るのでしょうか?」
空気の抜けたような間延びした口調で、彼女はさらりと言い放った。気兼ねも躊躇も感じられない。
「何が言いたいんだ?」
苛立ちを抑えながらも尋ねた。それでも攻撃的な尖りが帯びていた。
「これから、どうすればいいのか、わからなくて」
少女は溶けるように笑みを消して、ぼそりと呟いた。か弱く、風が吹けばそれに飛ばされてしまいそうだった。
――どうしてそれを、今、俺に尋ねるんだ。
唇を噛んで、少女を見据える。せめて彼女が何者であるのかを知れば、適当な糸口が見えてくる。そこから答えが導き出せればと逡巡した。
そのような相談を振りそうな生徒に、心当たりがある。授業が終わった後で、正木の近くに寄って来て、自分の事ばかりを一方的に語る生徒が典型的だ。彼らは一様に、幼さのまだ残った顔に影を差して、塞ぎ込んでいるように見えていた。
やりたいことが見いだせないが、親の言いなりになるのは嫌だと愚痴を吐いた坊主頭の男子学生。線は細く背丈も低かった。野球部に所属しているが、常に補欠登録であり、燻っているのが伝わってくる。学業も中の下であり、両親からは部活を諦めて、良い高校には入れるよう勉強に集中しろと小うるさく言われていると漏らしていた。
「煩いんだよね。いつもいつも」
苛立ちを滲ませながら、彼はそう吐き捨てていた。
「野球は才能がなかったんだって、勝手なことばかり言いやがって。勉強だって、テストでバツばっかりの俺に才能なんか絶対にない。きっと俺には何の才能もないんだ」
担任の永嶋に定期考査の採点の手伝いさせられた際、彼の答案用紙に当たった。汚く歪な文字が記されていた。中には何度も消した後、くしゃくしゃになった箇所に書かれているモノもある。文字は完全に潰れていて読み取りできないぐらいだった。回答のその殆どが間違っていた。彼なりに必死なのだろうが、空回っているとの印象しかなかった。そして、そんな彼に対して、高みで憐憫を抱いている自分に気がついた。就職活動では自分は彼と同じことをしている、と思い立ち、恥ずかしさを覚えた。
またバレエを続けたいが、親からは高校受験を機に辞めさせられるかもしれないと、恐れ悲しむ女子学生も居た。長い髪を一つに束ねて、端正な顔つきをしていた。バレエは好きかと尋ねると、彼女は首肯した。自分とは違う人格を持つ役を演じ、その気持ちになって踊るのが特に好きだと答えた。その時だけ、大嫌いな自分が消えていなくなる、と。
「私なんて要らない。こんな何にもない、どうしようもない私じゃない、もっと素敵な誰かに成りたい」
神経質な細長い顔立ちをしているその少女は、正木に向けてそう言い放った。しばしば本を読む彼女の姿を見た。バレエでも読書の折でも、その登場人物に深く感情移入して、自分の存在を消しているのだ、と横目で眺めながら考えた。
「物語の登場人物の方が、私なんかより魅力的だから」
親は情操教育のつもりでバレエを通わせたのだろう。大学の講義の際に、情操教育の一環として犬を飼い始めた家族の話がされたのを、正木は思い出した。その両親は、子供が大学進学で実家を離れた後に、その犬はもう用済みだからと保健所に引き取るよう願い出たというのが話の顛末だった。
両親の心情を知らずに、彼女が一方的に深くのめり込んでいた。
正木は彼らの言葉に、そうかと深く頷いて、聞くに徹していた。安直な助言は余計に相手を混乱と不安に陥れるだけであり、かといって耳を傾けずに彼らを遠ざけるのは、単純に可哀想だと思った。彼らは早口で捲し立てるように喋りながらも、頭の中では吐き出した言葉を整理させている。それで十分に実が成るとしていた。予鈴が鳴り響くと同時に、正木はまたと言って、彼らから離れていった。
二人の話の続きを聞くことはなかった。視界に二人を捉えても、友人と話をしているか、忙しなく外に出ようとしているかのいずれかであった。また、話し掛けてくるような素振りを見せるも、別の教室で授業が控えているなりで、その間が悪かった。
二人を羨ましく思っていた。正木は彼らと同じ年頃の折には、親が敷いたレールの上を歩いていればいいと、無神経に信仰していた。笑い声をあげて同級生と談笑している二人を眺めみて、気が緩んだ隙に、表情に陰りが差す間を、正木は黙したまま傍観した。彼らは真剣に悩み、現状を打破しようと足掻いている。かけてやるべき言葉が、判らなかった。
窓の奥に広がっている夕焼け雲の下には、一本の巨木が見えていた。赤光を受けて、燃えているかのようだった。――炎上する立木は、今にも倒れそうであるが、だからこそ美しい。好んで読んでいた書物の一篇を思い出して、口角を歪ませた。思春期の頃より、正木はその文句に感動を強く覚えて、密かに憧れていた。そして、先の二人と重ね合わせた。無力感を覚えながらも、必死に抗おうとしている二人が、やはりとても美しく映っていた。
「先生の助言を参考して、考えを改めたいと思って。私も同じですから」
「赤の他人の言葉なんて、何の役にも立ちやしないよ」
鼻で嗤うようにして答えていた。正木の少なくも確実に踏んできた経験則が、そうさせていた。
「でも、一人で結論を出して進むには、余りにも不安ですから」
――他人の意見に縋りたくなる。その心理は痛いほど正木にも理解できた。
細く幼い顔つきで、垂れた眦に情けない表情が浮かべられているのが、朧の中で見えた気がした。しかしながら、単に少女の声音から、正木が勝手に妄想でコラージュしただけに過ぎなかった。
目を瞑り、解を思案する。適当に流すには、少女の言葉が余りにも辛く正木の胸に刺さり、そして関わり過ぎていた。結論は出てこなかった。考えている内に頭はもたげて下を向いていく。思考が進んでいくと、自身の問題に辺り、空回りを始めてしまっていた。眉根に皺を寄せて、正直に「わからない」と呟いていた。そして、「力になれなくて、申し訳ない」と続けて言った。
顔を上げる。少女の姿はなかった。視界には長い廊下が広がり、その奥には暗い闇が控えていた。言葉は虚しく無人の廊下に響いて、溶けるように消えていく。やがて、夕陽射す廊下は、凪のように静かになっていった。
正木の身体は固まっていた。悪戯でもあったのか。足音が一つも聞こえないのに、ますます疑念を抱いた。動く影もなく、人が居た気配すらも感じられない。
首を左右に動かしてみれば、窓ガラスに映る男が居る。痩けた頬に無精髭を生やしていた。黒いフレームの眼鏡にぼさぼさと無造作に伸ばした髪。背筋を少し丸めただらしない姿勢をしている。
窓ガラスに顔を向けたまま、正木は「嘘だろう」と一つ呟いた。光の反射によって映し出されている自身の姿に唖然とした。まばたきをすれども、その姿が消えることはない。
鏡を見るのは嫌いだった。少なくとも、朝に身支度を整える時の他には、できるだけ見ないように心掛けている。自分の顔の変わりのない醜さに辟易としていたからだ。
しかしながら、正木は両眼を力一杯に擦り上げてから、更に窓ガラスに自身の顔を近づけて、目を凝らした。瞳の下には隈ができており、目尻や眉間、額に小皺ができていた。空き手で頬や顎を撫でさすり、ちりちりと肌を突く無精髭を感じた、後、その掌を見た。
――なにも、変わっていない。
血の気が引いていくのが分かる。身震いするほどの寒さを覚えた。
「忙しいのは判るけど、髭ぐらい剃ってきたらどうなんだ?」
舌打ち混じりの声が聞こえてきた。周囲を見渡せども、人影は見当たらない。今朝ほどそう言われたのだろうか。余りにも明瞭に正木の耳に響いていた。そして、脳裏には白髪交じりの初老の男の厭らしい顔が浮かび上がってくる。国語科の先輩教師だと思い出した。多分に嫌味を含めた小言を呟きながらも、自身は色褪せたネクタイにフケを浮かせた頭を晒している。お前にそんなことを言われる筋合いはないと、頭を下げながら心内に毒づいていた。
――ここは、どこだ?
空き手で肩を掴み、爪を立てて力込めて握り絞めていく。じりじりと痛みが広がり始めてくる。混乱を覚えた思考に、正気を取り戻すための行為であった。痕が鮮明に残るまで力を入れて、痛みに呻き声を漏らす。そうしてからもう一度、顎を撫で上げた。ちりちりと掌を擽る髭の感触を確かめた。
チャイムが鳴り響いた。歪に撓んだような酷い音をしていた。腕時計を確認すれば、十八時を僅かに過ぎたばかりだった。
長い間、足を止めて思慮に耽っていたのに気が付いた。取るに足らない、くだらないことばかりが頭の中を回っている。無為な時間だけが過ぎている気がして堪らない。毎日がその繰り返しである。それも螺旋を描くようにして、窄まり閉じて落ちていくようだ。塞ぎ込まれた中で、いっそこの学校の歯車に成ってやり過ごせればいいのだが、正木の肥大しきった自我がそれを許さなかった。
屋上から降りてきたばかりなのを思い出した。その一角で育てられている百合の花が咲いていた。風に揺れて、可憐に手を振っているようだった。夕焼け空とその景をしばらく眺めていた。
手に握られているのは、黄色い紙表紙のノートである。正木はいつもここに学習指導案を書き記している。気分転換もかねて屋上で案の見直しをしようとしていた。いつの間にかに、夕焼け空に見とれてしまい、赤々と染まった雲と山の稜線とを眺めている内に時間が経っていた。我に返ったのは、さよならと、女子生徒に声を掛けられたためである。校門へと向かう道の最中、彼女は足を止めて屋上で佇んでいる正木の方に向き直り、手を大きく振ってそう告げた。正木は照れながらも、小さく手を振って彼女に応えた。
大きく溜息を吐く。頭が揺れているような感覚があった。どれ程の間、ここで立ち尽くしていたのか、検討もつかない。
夕陽の射した廊下。中学生の頃から、見慣れた光景である。そして、その時と同じように、身体がふわりと浮きあがるような安堵感を抱く。生徒たちの喋り声も、教師の話し声も、足音も聞こえてこない。風の音すらもなかった。何度も歩き通している筈の廊下が、長く寂しいほどに広く感じられる。正木はどこにも焦点を合わさず、遠くへ、でき得る限り遠くへと視線を飛ばした。情報は形を失い、意味もなくなる。ここがどこの中学校で、何階の廊下に当たるのか。朧の中に溶けて消えていき、微かな解放感があった。
しかしながら、眼を凝らして見やれば一角が黄ばんでいるように映った。否応なく、そこに正木の意識は向っていった。廊下の突き当りの教室だけ、蛍光灯の焼けた色をした光が漏れている。正木は踵を返して、そちらに歩き出した。生徒がまだ残っているか、それともただの消し忘れであるか。いずれにしても確認しなければならない。放課後まで残っている教師の役目の一つであると考えていた。
屋上につながっている階段を横目で見ながら通り過ぎ、夕焼けに染まった廊下を歩く。足音は一つだけ。壁に溶け入るように響いている。
教師になって、幾年が過ぎたか。指を折って数えようにもまるで思い出せない。担当しているクラスも、入学して迎え入れた生徒の顔も、卒業して見送った生徒の数もわからない。そういう式典に参加していた記憶だけが、おぼろげな記憶の中であるに過ぎない。
大学四回生の晩夏に就職活動に懲りた。自分自身を否定するのには、辛く苦しく、何より飽きていた。自虐に甘味を見出して、そこにひたすら耽溺するようにはなりたくなかった。
――自分を磨きもしないで、何かに成れるとでも思いますか。
遠い昔に、そんな説教を受けていた。そばかすまみれの汚い顔をした女教師だった。理由は思い出せない。彼女には正木の生活態度が無気力に映ったからだった。弁解する余地はない。クラスの中で常に外野にあり続けようとしていた。自分が居なくても、すべてが決められていく。関われば裏で文句を言われるのがオチだというのも、正木は知っていた。教室隅の日陰で、窓の向こうに広がる空だけ見てればいいのだ、としていた。
しかし、この日は勝手が違っていた。状況を読めなかった自分を呪った。月に一度のクラス会議だったが、一向に纏まる気配がなかった。苛立ち始めた担任の小太りの女教師は、一度も発言をせずに、窓の外、遥か遠くをぼんやり眺めていた正木を名指しで、怒鳴りつけた。
いつものヒステリーだ、との陰口を心に置いて彼女の説教は聞き流していた。彼女は詰りのこもった激しい口調で、さんざんな言葉を放ち続けた。終いには正木の成績まで持ち出して、人格否定にまで広げていった。その頃は丁度、どんなに勉強しても、テストでは点数が上がらない、低迷したまま結果が出ない時期だった。彼女にとって正木のこの下降気味だった成績は格好の道具だった。
正木は抵抗しなかった。時に窓の方に視線を飛ばし、遥か高くに広がる青空に意識を向けていた。もっと早くから彼女の言葉に向かっていればとの悔いが、胃をヤスリのように擦り付けてくる。
就職活動に見切りをつけて、そして、改めて教職を目指した。手元に資格として辛うじてそれだけはあったからだ。惰性であれども、教職員の免許を得ていたのは、首の薄皮一枚残ったような心地であった。
一年がかりで勉強して、果たして教職として採用された。そこまでは覚えている。職員室で紹介を受けてから、精いっぱい勤めますと言って頭を下げて、次には教壇に立って、生徒たちの視線を背中に受けながら国語の授業を行う。その辺りから、もう曖昧になっている。
朝起きて、支度をする。白い蛍光灯の下、白く照り返してくるリノリウムの床を歩きまわる。日が暮れて暗くなったら、教育委員会が用意した寮に帰って、横になって眠る。それの繰り返しである。天井のシミは一面に広がりきって、もはや変わりようがない。日にちが経っているのか疑わしくすら思えていた。
漠然と同じことを繰り返している内に、日が経っているかも判らなくなってくる時が、正木には度々あった。いつの間にかカレンダーを見ることがなくなり、気が付けば曜日の感覚が希薄となり、気候の変化がなければ月日の季節も判らない。黒板の隅に書かれた月日を見て、節季を知るのが当たり前となっていた。
時間だけが単調に過ぎて行っているだけに感じられた。無精に髭が伸びているのは、きっとそれ意味しているのだろう、と正木は考えた。頬を引き攣らせるようにして、自嘲した。敢えて変えようとする気力は、とうの昔に消えている。
黄ばんだ明りの洩れる教室にたどり着いた。正木は無造作に扉を開いた。天井の明かりはまだ煌々と着けられていたが、教室の中には誰一人も居なかった。まったくとの溜息を軽く漏らしながら、スイッチを切る。教室は瞬時に暗がりの中に沈んでいった。正木も、その一瞬だけ、自身も消えたような感覚を得た。
浮遊感にも似た、懐かしい感覚であった。それを味わいたいためだけに、毎日のように遅くまで学校に残っていたからだ。
身が軽くなる。消えて居なくなるような感覚。首を捻りながらも、正木はその瞬間に安堵感を得ていた。皆が帰るまで、図書室で自習などをして過ごし、頃合を見計らって教室に潜む。晩秋や冬であれば、外は夜に更けており、教室はいよいよ闇に落ちたように暗くなった。
正木が好んだのは、夏だった。放課後が夕焼け時となるからだ。空が燃えているような赤色をしていれば尚のことである。白色の蛍光灯を消して、夕陽の射しこむ教室に一人で佇む。時間が経つにつれて、光は暗くか細くなっていき、やがて消えていく。溶けて消えてしまいたいと、正木はその景に悦楽を感じていた。
教壇に上がり、教卓の前に立つ。黒板に背を向けて見渡せば、三十の机椅子が整然と並べられている。すべてが同じ型であり、同じ方向に向けられている。
生徒一人一人の顔も、机椅子各々に入った傷と同じく、つぶさに見つめてやれば一つ一つが違うと認識する。概して見れば、口の穴一つに耳目鼻に二つの穴が付いた、同じ型の顔をしている。誰が入学して、誰が授業に出ていて、誰が卒業したか、正木の頭の中では混在している。
「授業内容なんだが、こんなに細かく詰め込もうとしても、無駄だよ」
永嶋の声が甦ってきた。教師の研修会の際にたまたま鉢合わせた。皺とシミとで老いきった顔に、身体が痩せ衰えてしまったためにぶかぶかとなったスーツと、色落ちしたネクタイ。正木は視界に入った瞬間に、彼と気が付いてしまった。二度と会わないだろうと思い込んでいただけに、正木は驚き、背筋を伸ばして、深々と礼をした。世話になった手前、無視をするわけにはいかなかった。
声を掛けるまで、永嶋は正木の存在に気が付かなかった。尤も端から、興味なぞ微塵も持っていなかったのを知っている。一拍ほどの間をおいてから、「なんだ、君か」と溜息のような声が出てきた。
「結局、お前も教師になったのか」
そして簡単な挨拶の後、吐き捨てられたのは、嘆息混じりのこの言葉だった。表情から色が失せて、身体は硬直した。大学時代にさんざん聞いた先生に対する嘲笑を含んだ言葉。自分がその轍に落ちていたことを改めて発見した。
永嶋教諭は今も変わりなく、中学校で国語科を教えるため、教壇に立っていた。
「お元気そうで」
頬が引き攣れていたが、一先ずの言葉が出てきた。永嶋は小さく頷いて、「そうだな」と肯定した。
「何も変わっていないな」
がらんどうな瞳を正木に向けて、そう続けた。これで正木の唇が閉じ、喉は塞がった。
「まあ、せいぜい頑張りなさい」
ほくそ笑むような厭らしい歪みを唇に描いて、永嶋はよたよたと足を動かして正木の視界から消えていった。
教卓に肘を置き、体重を預けながら、黒板へと振り返った。本日したであろう授業を省みる。人差し指ほどの長さのチョークを片手にとって弄びながら、記憶の中の時間を遡っていく。
三十の顔、六十の瞳を向けられながら、淡々と授業を行う。口頭説明にしても、板書にしても、取り立てて問題はない。ただ、目に映る自分の文字が、生徒たちの書くそれよりも歪み潰れているのが気に入らない。いくら練習すれども満足いくようにならなかった。今は諦念を抱いて、投げやりに書いている。それで生徒たちから文句は出てきていない。それならそれで、授業中、生徒たちの焦点はどこに向けられているのか判らなくなり、不安に駆られた。手を抜いて挑んで良いとは考えずに、密に案を丁寧に練ってから臨んでいたが、空を掴むような手応えばかりを感じていた。
チョークを指先で弄びながら、黒板を見つめる。本日、授業で板書した内容を思い出そうとした。しかし、思い当たる内容は、一文字すらも出てこない。この中学校の国語科を任されているが、果たして本日授業を行ったかどうかも思い出せない。扱っている教材は、何であったのか――。
腕を組んでいた。そして、首を捻りだした。思考が空回りしているのに気が付いた。そもそも自分が何年生のクラスを担当しており、――そもそもここはどこなんだ?
改めて教室中を見回す。夕陽のために赤と黒のコントラストに染められた机椅子が並べられている。束ねられたカーテンも、木目調の床や壁面も、濃い陰りを帯びながら配されている。果たして勤めている中学校の教室なのだろうか。正木はいよいよ不安を覚えた。この並びには覚えがある。母校でも、実習先の学校でも当てはまる。
教室の窓際に、白い塊が置かれていた。屋上で育てている花であった。茎を折り取られて、ガラスの花瓶に生けられている。花弁には茶色いシミが広がり始めていた。間もなく枯れる。正木は無意識的に固唾を飲みこんでいた。
病院で力なく横たわる父の姿を思い出していた。シミと皺とで、丸めた藁半紙のような顔を晒していた。母も化粧を施してはいたが、眼元や頬がひどく弛んでおり、くすみ果てて、だらしない面構えとなっている。自分もいずれはそうなる、と不快感を噛み締めた。
父は風邪を抉らせての入院であり、翌週には退院をしていた。しかし、還暦はとうに過ぎている。――いずれ間もなく、と病室を出て廊下を歩きながら、覚悟を固めようと正木は心掛けていた。
白色の蛍光灯が等間隔に並び、リノリウムがその光を反射している。病院の廊下も、正木には見飽きた光景だった。アルコールと石鹸の匂いとが、至る所で漂っているだけが違うに過ぎない。
手の甲には無数の小皺と襞ができており、青い血管が浮き上がり、針金のように痩せ細った指が生えている。いよいよ老いを覚えるようになった。
勤めて二三年が経った頃だった、女性から綺麗な手をしているのですね、と称された。小バカにされていると腹に来た。しかしながら、実際に正木は何もしてきていないのだから、言い返せなかった。このままやせ細り、衰えて死ぬのだろう。これからの自分の姿が簡単に描けた。醜く老い、背を丸めて、陰気に歩く姿は、唾棄したくなるほどみすぼらしい。
「どうした、正木。まだ残っていたのか」
唐突に教室の扉が開かれた。格子に頭を擦りそうな程の、大きな男が立っていた。
「――先生」
驚きとともに、正木の唇から声が漏れて出てきた。興が削がれた心地と共に、楽しみに横槍を入れられた憤りが湧き始めた。
教室は広く、天井は高く。正木は窓際で白い花を見つめながら、赤色を濃く含んだ夕陽を浴びて、佇んでいた。
慌てて黒板上に設けられた時計を確認する。六時を指していた。途端、たわみ歪んだチャイムの音が鳴り響いた。ざらざらとした砂音も混じり、頭が揺さぶられるような気がした。
「ほら、チャイムは鳴ったぞ。早く帰ったらどうなんだ?」
男はそのまま正木に近づいてきた。丸太のような太い腕に、分厚い身体をしている。社会科の教諭として教壇に立っていた。正木は俯きながら、手に持っている黄色い紙表紙の学級日誌を胸で抱き、身体を縮ませた。
苦手な先生だった。力尽くで物事を強引に済ませようとする嫌いがあった。生徒をコマのように使い、自身の理想通りに事を運ばせて、巧くいけば徹底的に喜び褒めて、下手を踏めば徹底的に罵倒した。そのためか、要領のいい生徒からは陰ではチョロいと称されている。
正木は巻き込まれぬよう、遠くに隠れるようにしていた。名前も覚えられたくない。それぐらいの意気だった。
高校の頃からラグビーをしていたとの話は、授業中の事ある毎に聞かされた。大学在学中でも熱中していたと続ける。気合、根性で壁を突破する。それでもダメな時は、頭を絞る。その際に、日ごろの勉強で得た知の奥行に差が出てくる。その比喩として、自身の高校時代の部活の栄光の話を出しているのだろうと、辟易しながらも、表情には出さないように心掛けて、正木は聞いていた。過分に熱がこもっていて鬱陶しいが、悪い話ではないとも思っていた。
学校の先生に成った理由については、彼の口から出てこなかった。社会科の授業も、内容にちなんだ裏話や横路にそらして興味を持続させようとの、彼なりの苦慮も観られたが、往々にして要領を得ず、むしろ退屈さがあった。必死なのはわかるが、彼には向いていない。そう見られていた。必ず裏がある。密かにそんな言葉が広がりだしていた。
それがためか、教師に成るしか道がなかったからだ、との噂話が教室の中では展開された。仕方なく学校の先生に成った、学校の先生にしかなれない人物。クラスの中では夢の破れた人物として、嘲笑の的となっていた。
「お前は賢いかもしれないが、身体つきが貧弱だから、さっさと帰って、いっぱいメシを食って、運動するのがいい。健全な魂は健全な肉体に宿るというしな。どうにも肉体が足りていないぞ」
「そうですか」
身体を引っ込めながら、彼の言葉に逆らわない返事を出した。そして、早く去ってくれないかと心の中で祈った。彼は殊に関わりたくない人物の典型であった。
しかし、彼は椅子にどかりと座り、大きな瞳を正木に向けてきた。
「なあ、お前には俺が怖いのか?」
太く低い声だった。しかしその芯は萎えて撓っていた。正木は問いに対して、口を噤んだままだったが、首を縦に動かして、肯定した。雷鳴のような怒声が耳奥で甦って来る。背筋が途端に真っ直ぐに伸びて、膝が震えてしまうような気がしていた。
「怖くなんかない。俺は馬鹿にされているんだ。それぐらい知っているよ」
瞳の奥が暗くなっていくのが分かった。夕光を受けているため。そればかりではない。徐々に彼の顔が俯いていった。
「でもな、申し訳ないけど、これしかないんだよ。俺には。経験に幅がないから、これしかできないんだよ」
ついには弱々しい声を放って溜息を吐いた。しばらく身動ぎをもせず、正木に話しかけもせず、重苦しさを全身から放ちながら、彼は木目調の床に顔を向けたままだった。正木も黙って、その様子を傍観するしかできなかった。
彼にとって高校時代までは頂点だった。ラグビー部のキャプテンの座に着き、全国大会あと一歩まで引っ張っていった自負があった。しかし、大学に入った途端、その自負は砕かれて、挫折を味わった。自身と同じ程度なら、大学内にざらに居た。彼は特別でも何でもなかった。入学当初こそ、持ち前の根性で必死に食らついていったが、二回生に成る頃に尽き果てていた。実力の無さが恥ずかしくなり、ラグビー部から遠ざかり、失意のまま縁も何もなくなった状態で、その後の大学生活を過ごしていた。
「あの頃に、戻りたかったのかもしれないな」
先生は俯いたまま、そうぽつりと悔恨を漏らした。進むべき先を見ても光が見えず、振り返り輝ける過去に必死と縋ろうとしている。敗者との言葉が正木の脳裏を過ぎっていった。
「どうして、俺はこんな処にいつまでも居るんだろうな」
悔いを噛みしめるようにして、先生は言い放った。そして、酷く乾いた笑い声を小さく漏らしながら、存在を影のような暗くさせていった。巨躯である筈の先生が、砂山のように軽く押しただけで崩れるかに思えた。
その先生は、その年の半ばに、父母会の抗議と、教育委員会からの注意を受けて、さらにその対応に追われている内に心身を崩し、休職となった。
その報を受けたクラスの中で、やったとの歓喜が上がったのを、正木は聞き逃さなかった。続けて、ざまあみろとの声もはっきりと聞こえてきた。恐怖しか覚えなかった。このクラスから自分が消えた時、果たしてどのような言葉が飛び交うだろうか。その疑問が過ぎった。誰を指したかわからぬ陰口が、耳に甦ってくる。それらすべてが自分を差しているように思えて、胃が締め付けられるようだった。自意識が過ぎていると軽々と払い除けたかったが、一度でもその兆しが現れれば、真水に墨滴を垂らしたように、元の透明な状態にはならず、黒い靄のようなものが、正木の胸の底に残り続けた。
客観的に自分を見る。立ち位置は常に確認する。そして、距離をとって、積極的に関わらない。結果的に陰りの濃い方を選ぶようになっていた。
以後の音沙汰については、正木は寡聞にして知らない。耐えきれなくなり退職したとも、数年後に復職したとも、自殺したとも噂は流れたが、そのどれもが伝聞であり、事実ではなさそうだった。
あの時の先生が放っていた暗い雰囲気には、覚えがあった。つい先日、町の大通りを歩いている際、雑居ビルの壁で膝の間に頭を埋めるようにして蹲る男の姿がった。若そうな見た目ながらも白っぽく褪色するほど草臥れたスーツを着ていた。面接にでも失敗したのか、醸し出す暗い陰りが人を遠ざけさせる。行き交う人は多いのに、ちらちらと視線だけを彼に投げて、話し掛ける素振りすらない。
――ああはなりたくないモノだ。
横目で見やりながら鼻で嗤って、通り過ぎた。正面に向き直って、自分はまだ大丈夫であると、何度も胸の内に言い聞かせた。
「正木先生。こんな処に居たのですか?」
気が付けば、教壇に女が立っていた。濃紺のスーツに、白いシャツの折り目正しく返された襟が際立っている。肩口で切り揃えられた髪に、色は夕陽を受けて染めているかのように見えた。
「どうでしたか、今日の授業は?」
彼女の明瞭で朗らかな口調が、教室に響いた。正木はすぐに、手に持っていた実習簿を開いて、内容を確認する。
「そうだな。無難にまとまっていて、悪くない」
豆粒のように細かく書かれた指導案を目で遣りながら、取り敢えずとお座なりな言葉を返す。
「そんな。もっと、具体的な評をお願いします」
前向きであり、実習に意欲的だった。それこそ、担当となった正木がうんざりするほどに。挨拶の時に手を差し出すと、力強く握り返してきた。柔らかな肌とともに、適当に流していれば終わるだろうと踏んでいた正木の意識を緊張させた。
「よろしくお願いいたします」
「まあ、頑張って」
そう答えを返すのが精々だった。
学校の先生に成りたかったと彼女は恥も照れもなく言い切った。ますます正木は眉をひそめて彼女を見るようになった。
生徒たちからの受けもよかった。端正な顔立ちに明るい振る舞いであり、話し掛ければ丁寧に返す。冗談にも律儀に付き合う。教卓の周りで生徒たちと集い、お喋りをしている姿を、正木は黙したまま傍目で眺めていた。
そして、ふと視線を小脇に逸らしてみると、恨めしそうにその集いに視線を送っている生徒たちが居た。鬱陶しく感じられるのだろう。しかしながら畢竟、それはただの僻みであり、嫉みの類から漏れない。自分自身もそうやって、遠巻きで眺めていたのを思い出した。傍から見れば、極めて愚かなことをしていると痛いほどよくわかる。彼女に対する羨望を捻り、鬱屈を溜めて、どうなるモノでもないのにとは、歳を十分に経てようやく出てくる心情だった。
余程でない限りは、何も言わないことに決めていた。それは彼女でなくても、そうするつもりだった。定期考査が終わってから夏休みまでの小休止。その間に実習生に任せる授業は僅か一クラス五コマ程度である。フォローしようと思えば、実習が終わった後でも容易にできると、経験則から判っていた。実際に実習生が教壇に立ち、授業を行っている際に、正木は壁際に背中を預けて腕を組んで、見るだけだった。
特に彼女は、意欲的に取り組んでおり、真面目に案を組み上げ、配分を計算しながら実行していく。正木が言うことはない。その上、担当クラスの生徒たちの名前も初週にして覚えるほどであった。
「どうして先生に成りたいんだ?」
「それしか、知らないから、ですかね」
はにかみながら彼女はそう答えた。大学入学までは強く意識を持っていなかったと続けた。入学時に、教職の資格が取れると知って、舵を切った。学生時代を順風に進められてきたためか、教師に対しては、むしろ好感を抱いていたのも後に判った。
しかし、教職員採用試験について尋ねると、途端に表情が曇りだした。
「結婚して、――家に居て欲しいと言われまして」
「別に今のご時世、夫婦共働きなんて珍しくもないだろう」
正木がそう言い返すと、彼女は俯きながら、片手で自身の腹を優しく撫でた。それで理由を十分に察した。心が冷めていくのが判った。教壇には立たない。彼女に何を教えても、意味がないと悟ったからだ。
照れているのか、それとも困っているのか。曖昧な表情を浮かべて、何度も彼女は自身の腹を撫でさすった。
「学校の先生に成りたいのは嘘ではないんですけれど。こればかりは……、一体全体、困ったモノです」
「そうだな。困ったもんだな」
溜息交じりの返事を吐き捨てた。
相手は大手銀行の内定をすでに得ていた。後はともに、卒業論文を書き上げるだけである。入籍や式云々の話まで聞かされたが、正木は聞き流して、適当に相槌を打って、彼女の気が済むまで話をさせた。
もはや彼女に向けて、正木が掛けてやるべき言葉は無くなっていた。
「――授業内容に、こんなに細かく詰め込もうとしても、無駄だよ。どうせ生徒たちは聞いていないだろうし。熱を入れても鬱陶しがられるだけだ」
薄くなった髪を掻き毟りながら、適当に思い付いた言葉を放っていく。
「そうですか」
教壇に立つ彼女は、唇を噛み締めるような返事をした。尚も正木の言葉を真摯に受け止めているのかもしれない。それが小生意気に映った。だからもう一言を言わずにはいられなかった。
「人生と同じように、計画通りに、事が進むとは限らないのは、教師になりたかった君なら、もうそれで十分に判って居る筈だろう」
口に出した瞬間に、血の気が引いていくのが分かった。視線は無意識的に彼女の腹に向けられていた。彼女は目を丸くして、口をだらしなく開けて呆然としている。
誤魔化すための言葉を必死となって、探し出した。
「まぁ、その何だ。あんまり根を詰めて考え過ぎないことだな」
真っ先に思い付いた言葉を口に出した。教壇からは「はあ」との間抜けな生返事が一つ帰ってくるだけだった。彼女は首を傾げながらも、実習簿に視線を直して、自身の反省を続けた。これで、無神経な言葉を誤魔化せたと思った。同時にこれも正木の心を冷やす言葉であった。永嶋の声が耳を舐めるように甦ってきていた。
小脇に咲いていた白い花は、いよいよ朽ちた茶色に侵されていた。
夕焼けの色はますます濃くなっている。影の色は闇よりも深く、赤光は鮮血を想起させた。
窓の外に黒々とした一本の巨木があった。燃え尽きて、もはや炭のようであった。まもなく崩れ倒れるのだろう。昔関わった生徒のように。
男子生徒の一人は、両親の小言にいよいよ耐え切れなくなり、二人の頭を金属バットで殴り飛ばしから、自転車で逃走した。その後、両輪共にパンクを起こし、国道沿いの自販機の側で蹲っているところを通行人に発見され、補導された。
小さなライトで、闇の中を必死と自転車を漕ぎまわし、先へ先へと向かっていた。しかし、いくら漕げども、頼りないライトは闇の奥に消えていくばかりで、何も照らさなかった。少年はいよいよ疲れ果てて、気が付けば、無機質な白い光を放つ自販機の側で蹲っていたそうだ。
――もういいよ。もう疲れた。
取り調べでは、概ねそのような言葉ばかりを返してきた。謁見した弁護士や、補導員が真相を知ろうと根気よく粘り、それでようやく全うに喋りだした。
自転車に乗って全力でペダルを漕いでいる内に、汗とともに鬱憤も晴れると思っていた。どこに行くわけでもなく、大嫌いな家から限りなく遠くを目指していた。ただその日に限って、玄関先で金属バットが傘立てに無造作に放り込まれているのが視野に入ってしまった。次の瞬間には、バットを握り絞めて、居間に向けて踵を返していた。
――魔が差したから。それじゃ、ダメですか。
両親はともに一命を取り留めたそうだが、その息子共々、元の生活には戻れなくなった。二人は息子に顔を合わせられないと言い、息子は二人の顔も見たくないと言い切ったまで、正木は耳にしている。
一方、バレエを続けたいと漏らしていた少女は、親の決定についにか逆らえず、辞める運びとなった。そして、中学校を卒業式の前日に、トゥシューズを履いたまま、自宅最寄りの空き地で、ガソリンを被って焼身自殺を遂げた。
――続けられないのなら、私も辞める。
遺書にはそう記されていたとの噂である。母親は気が動転し、後を追おうとすらしたが、家族が力尽くで止めたらしい。その際に、父親はまたあの娘を一から育てようとか、葬式の場で叫んでいたとの話も耳に入ってきた。また初めからからやり直せばいいと、自らに向けて言い聞かせていたのだろう。そんな言葉が出てきたことに正木は感心を覚えた。
レールを敷こうが、敷きまいが、得てして失敗する時は、失敗する。正木は自分の兄姉の暮らしぶりを思い出した。父の葬儀の際、数年ぶりに顔を合わせた。白髪交じりの兄に、いよいよ化粧で皺や肌のたるみを誤魔化しきれなくなった姉であった。だが、結婚を済ませ、子供を設けて、適当な住宅街に一軒家を構えて、健康に――幸せそうに暮らしている。彼らが幸福であるほど、自身はその影となった。
隅の席に座り、話もしないように心掛けた。しかし、甥の一人が目敏く正木を見つけて、煩わしく袖を引っ張った。
「おじちゃんは何をしているの?」
正木はすぐにその手を払った。そして、親の処に戻るよう、掌を振った。
「さて、何でしょうね」
卑屈な笑みを浮かべて、それだけ答えた。甥は首を傾げながら、去っていった。これでいいと、笑みをさらに強くさせた。学校の教師として糊口をしのぎながらも、結局自分はここまで長く生きて、果たして何を成しているのか、まるで判らなかった。
考え事をしている内に、いつの間にか教壇には誰も居なくなった。つい先ほどまで、誰かが立っていたような気がしていたが、もう正木の知ることではなかった。鉛のように重たい身体を持ち上げて、空き手で机に手をやり身体を預けながら扉へと向かっていく。腰は曲り、歩幅が狭まっている気がした。しかし、身体が重たいので仕方がないと、考えるのを辞めた。
鐘の音が微かに聞こえてきた。撓み、歪み、さらに砂音が混じっていた。耳を澄ませていてようやくその中に潜む金属音を発見したぐらいだ。
窓より、西日が差し込み、教室は赤と黒とのコントラストによって彩られる。いよいよ蛍光灯は消されて、凪のように静まり返っていた。そして、その中でふらふらと浮かぶ、綿埃や塵芥、微細な菌に、人肌よりはがれた角質、化粧の粉末、ダニや微生物やらの死骸やらが、夕陽を白くちらちらと反射させて、正木の老いて弱まった眼を突くように輝いていた。その中でだらしなく口を開けて、呼吸を繰り返している。吐き出している吐息は湿気を含み、饐えた臭がした。
片手には黄色い紙表紙の日記帳を握りしめたまま、教室から出ることを目指した。
身体を動かすだけで息苦しく、肩に鉛でもへばり付いたかのように重たくなっていく。机椅子を支えにしながら、一歩一歩をゆっくりながらも確実に進ませていった。ようやくとの思いで、扉にたどり着き、廊下に出た。
やはり、廊下が広がっていた。夕焼けが射し込み、赤と黒との並びが美しかった。すっかり弱まった正木の視力では遠くまで見通せず、すべてが滲みぼやけて見えていた。足元近くに、膿のような黄色光を放つ光源があった。非常灯であるのは暫く睨むようにして見詰めてわかった。経年劣化で、黄ばんで汚い光を放ていたのだ。
大きく息を吐き出してから、今度は壁に手をやって歩いた。
毎日が同じことの繰り返しだった。白い部屋で朝日が昇れば起きあがり、用意された朝食をとった後、眼を劈くような白い蛍光灯の下、リノリウムの熱く張られた廊下を歩き回って、日が落ち暗くなったら、元の部屋に戻って眠る。果たして何回繰り返したのだろうか。数える気力も起らない。
「正木さん。どうなされましたか?」
若い女の甲高い声がした。ぼやけた視界に、白い人型が写り込み、大きくなってきた。
「もうそろそろ食事の時間ですよ。ですから、部屋で待っていてくださいね」
看護師だった。正木の手を取り、動きを止めた。柔らかな看護師の肌が小さな正木の手を包み込んだ。冷たく吸い付くような感触が余りにも心地良い。
「さあ、帰りましょうね」
包み込まれた手が揺すられる。しかし、正木は動かなかった。代わりに、最寄りの窓ガラスの方に顔を向けて、眼を懸命に凝らした。
窓ガラスには、黒一色の景であった。山の稜線に辛うじて夕陽が残っているぐらい。木々の揺らめきから、夜空だけが広がっているのではないと知らしめる。そして、極めて薄くも自身の顔が写っていた。皺とシミで汚れた顔に短く縮れた髪が僅かばかりに生えていた。頬も額も眼元も弛み落ち、だらしなく開けられた口からは、絶え絶えに息を吐き出し続けていた。
――ここはどこだ?
廊下の突き当りを見ようとした。しかし、看護師の奥からすでに、視界は滲み潰れて、何も映そうとはしなかった。
「さあ、帰りますよ。正木さん」
看護師が再び声を掛けてきた。今度は手を引いて、催促している。
正木はその手を振りほどいた。そして、掌を見た。
――何も変わっていない。
老いて肉付きが落ち、黒いシミとたるみで出来た皺だらけではあるが、正木は瞬時にそう察した。
――結局、何も変わっていない。
今度は指を折り曲げて、握り拳を作って見せる。細い腕と小さな拳に見覚えがある。柳枝についた芽のように、ケンカには向かず、かといって、何も器用に熟せない、役立たずの拳であった。
正木は両眼を瞑り、唇を噛んだ。拳にはいたくなるまで力を込めていく。呻き声が漏れ出た。涙はでなかった。瞳は震える拳を捉えていた。夕光に染まり、少し赤らんでいるかのように映っていた。
これよりまもなく夜がくる。視界一面が黒に落ちていった。
――これで、お終い。
正木は、自分がこのまま死ぬことをやっと理解した。
そしておもむろに振り返った。リノリウムに張られた廊下が続いている筈が、すでに暗闇の中にひっそりと溶け沈んでいた。
握り締めていた黄色い紙表紙の日記を開いた。金釘のような自分の汚い文字が書き綴られている。しかし、内容はどれも同じだった。朝起きて、顔を洗って、職場に向かい――暗くなったら家に帰り、横になって眠る。そればかりを繰り返し、繰り返し記述されていた。書き出したのがいつからかは判らない。変わらない日々に恐れを成して、記し始めたのかもしれない。単に記したところで、現状が変わるはずもなく、同じ文言が、同じ筆跡で、頁を捲れど捲れども繰り返されている。
金属バットで両親の頭を殴り飛ばした生徒を思い出した。また、ガソリンを被って焼死した女子生徒も思い出した。
やはり正木は二人が美しく、羨ましく思えた。
改めて、窓ガラスの奥の景色を確認する。つい先ほどまで夕陽を受けて燃えているかのように立つ巨木があった。空は群青色に染まりだし、立ち並ぶ木々は陰の色に交じり、静まり返っていた。
「先生」
声が響いてきた。先の看護師と似たような声質だった。空気の抜けたような緩い清澄である。
「先生は何に成りたかったのですか」
振り返り、その姿を捉えようとした。白いシャツに黒いスラックス。眦の垂れ下がった、情けない顔つきをした少年が立っていた。
「――」
木目調の廊下に、窓ガラスから夕陽が射し込まれる。自分がこれから進む道が正木には明々と見えていた。このままおめおめとだらしなく、何もない極めて無為な人生をだらだらと歩き続けて、そのまま朽ちて死に行く自身の姿だった。
「――楽になりたい」
唇から勝手に言葉が漏れていた。その言葉しか出てこなかった。
「これならいっその事、早く楽になりたい」
呟きながら、脳裏には樹に吊り下がる自身の姿しかなかった。葉擦れの音が聞こえてきた。窓の外には夜闇に溶けて黒々と控える森がある。息苦しさを覚えた。畏怖を抱いていた赤い鳥居を潜り、森の奥へと向かう自分の姿ばかりが脳裏に描き出されていた。
廊下には誰も居ない。虚しく正木の言葉が響くだけだった。端から誰も居なかったのを、暫く立ち尽くしてから、思い出した。肩で息をしていた。身体に疲れが圧し掛かってくる。壁に手をやり、身体を少し預けた。
窓の外は既に暗かった。凪のように暗色に落ち着いている。明かりを消し忘れていた教室まで脚を延ばしている内に、夕陽はすっかり落ちていた。
黄色い紙表紙の教育実習簿をさらに強く握り絞めてから、ゆっくりとした足取りで、廊下の突き当りに設けられた実習生の控室を目指した。
薄暗い部屋の中、明かりもつけずに中に入り、机上に散らかしたままだった筆記用具と実習簿を鞄に押し込み、三週間使い続けた机椅子は隅に片付けた。軽く掃き掃除を済ませてから、正木はこの空き教室から出ていった。静まり返った狭い部屋。自身の吐息と掃き音が耳に届く。無心になろうとしていた。ここはもう十分に見た。――十分に。吐き出される息が深くなるにつれて、暗く霞んでいた視界に清澄さが戻ってきた。影と暗がりの裂け目を捉え、夜空と稜線の隔たりも判る。
早足に成っていた。鞄を片手に持ったまま、廊下を渡り、階段を下りていく。
扉を押し開けて、外に出る。冷たい風が正木に吹き付けていた。身体を窄めながら、すっかり暗くなった空を見上げた。
東の空で月が白い光を放ちながら漂っていた。正木は暫く眼を細めて見詰めていた。
徐に表情が強張っていく。情けなく垂れ下がった眦に尖りが帯び始めた。正木は改めてネクタイを絞り、首元をきつく締め上げる。唇から微温い息が漏れ出てきた。
――これから、夜がくる。
唇を噛み締めながら、正木は正面に向き直り、歩き始めた。
――生きなければならない。
校門を早足で通り抜けて、正木は険しい面持ちで、夜を臨んだ。