金欠と空腹
持ち金はスタートに戻っただけだが、僕たちは丸1日という時間と、1升瓶の醤油8本を失った。得たものは何か。とりあえず手元に残っているのは新宿二丁目のKというお店の名刺と負け馬券。そして新宿南口のレゲエ風兄ちゃんと顔見知りになったこと、くらいだろうか。
「かっちゃん、こんなことなら日払いのバイトに行った方が良くなかったかな?新宿なら色んな仕事があるだろうしさ」
「そういうね、卑屈な労働者根性が、低賃金労働をありがたがる温床を作り出し、結果として経営者の搾取をのさばらせることになるんだよ。安易にバイトに逃げるのはやめようぜ。今日の勝負は、決して無意味なものじゃなっかったと、俺は思う」
「わかった。わかった。まあ、今日はもう無理だし、それはいいけどさ。まずは今晩の飯はどうしよう?とりあえずスペシャルサンド買ってきてもいい?」
「まあ、待って。ちょっと俺、隣のおばちゃんとこ行ってくる」
佐原は隣のおばちゃんから今朝の広告をもらってきた。
「やみくもに買い物に出掛けて行き当たりばったりで買うのは、愚の骨頂だ。買い物っていうのは言ってみりゃ情報戦だ。とにかく1円でも安い店から買う。これが本当に金持ちになるやつがやっている極意なんだ」
「確かにそうだな。で、かっちゃん、スペシャルサンドはどの店が安いかな?」
「ジュン、お前は食い物まで趣味嗜好で考える。だからヤマザキブランドを闇雲に崇拝するようなことになるんだ」
「いや、かっちゃん別にヤマザキはブランドじゃないと思うけど」
「何を言ってるんですか、ハナサキ君。ヤマザキは大企業ですよ。大企業には大企業であるがゆえのコストが掛かるんだよ。例えば広告費。君はテレビCMに掛かる費用がどれだけ高額が知らないだろう。億ですよ、億。スペシャルサンドが一体何個買えますか?計算できないだろうから教えてあげよう。能天気の君がいかに長生きしようと、一生スペシャルサンドを食って暮らせるくらいだよ、分かるりますか?
そしてだ、例えば本社の建築費。大企業がボロビルに入っているのを見たことありますか?伊達にリクルート活動してたわけじゃないだろう。みんな立派な自社ビルってやつを建てるんだ。これはもうテレビのCMどころじゃないぞ。その10倍も20倍も掛かるんだ。即ち、スペシャルサンドで言えば…」
「いや、もうスペシャルサンドのたとえは要らないから。分かった、分かったよ、スペシャルサンドじゃなくてもいいからさ、早く買うもの決めて買いにいこうよ。腹減っちゃってるんだからさ」
かっちゃんと僕は、近所の3店のスーパーのチラシを見ながら、ああでもない、こうでもないと、比較をして、そうして旨そうな食材の数々の写真を見ながら比較をしているうちに、とってもお腹がすいてしまったのだった。
「よし、今日はすき焼きにしよう!」
ついさっきまでの話からは、あり得ない結論が、二人の間で確固たる自信に満ちて導き出された。
金欠は空腹には勝てない。これは金欠では死なないが、空腹で人は死ぬことからも明確な、自然の真理である。
かっちゃんは隣のおばちゃんにチラシを返しに行き、同時におすそ分けをもらって来た。ネギに白菜、そしてコメを2合。ゴミ捨てや、箪笥の移動のお手伝い、子供の遊び相手など、かっちゃんが、日頃甲斐甲斐しく母子家庭のおばちゃんのお手伝いをしてきた成果である。
おばちゃん、と言っても、小学生の子供の年齢から考えると、当時30代半ばくらいだったのではないか?疑ったことはなかったが、かっちゃんと何かがあっても決しておかしくはなかったんだなと、今となってはそう思う。
いずれにしても僕たちは、意気揚揚と買い物に出かけ、持ち金の半分以上を投じて食材を購入し、時に鼻歌さえ歌いながらすき焼きの準備をした。
「今日は景気がいいわね」
僕たちの鼻歌を聞いた隣のおばちゃんが、窓越しに肉じゃがを差し入れてくれた。
「おおおっ、ありがとう!おばちゃん。かっちゃん、今日はめちゃ豪勢になったね!」
「ちょっと、おばちゃんはやめてよ!」
「あっ、ごめんなさーい」
滅茶苦茶にテンションの高い晩飯を、ホワイトのソーダ割りで乾杯して食べた僕たちは、とっても幸せな気分で眠りについた。人は満腹になると幸せになる生き物だということを実感する。今日悩んでいた問題は何ら解決していないし、むしろこじらせている気がするが、まあ、いいさ。明日は明日の風が吹くだろう。
(続く)