007 『朝礼にて』
旭川香は、礎馴高等学校普通科に通う二年生である。
中肉中背。垂れ気味の大きな栗色の瞳に、淡い茶色のボブ。薄い唇はいつも微笑を湛えている。
しかし肌の色だけは病的に白い。彼女がまだ幼い頃に負った、不治にして必死の病は『彼の人』との出会いで奇跡的に峠を越えたが、それでもその頃の後遺症からか肌にあまり血の気が宿らない。
だがそれは見た目だけ。彼の人との約束を守り、意思を強く持って生活をしている。その甲斐があってか至って健康体である。
彼女は今日、とある目的のために誰も登校していない早朝に、学校の教室に来ていた。
日が出たばかりであたりはまだ薄暗く、日頃とは打って変わってシンと静まり返っている。
香は迷いなく目的の席へ向かう。自分の席ではなく、藤木拓也の席だ。
「……これはまた」
その惨状を見るなり、香は言葉を失ってしまう。
机、椅子、だったものがそこにはあった。そう判断したのは、辛うじてその原型を留めているからだ。どうやら凝りてはいないらしい。
「いえ、これは違う…?」
じっとそれらを観察し、手口が違うことに気付く。
「昨日あれだけ釘をさしたんだし、そりゃ、あの人たちじゃないよね」
言いながら、香はその机と椅子を運び出す。空き教室から使われていない机を運んできた。
あの証拠材料はしっかりと教育委員会、校長を含む全教職員と、犯人の家族宛で個別にコピーを自宅へ送りつけている。
「さて、こんなもんかな」
藤木拓哉はその性格上、教科書やノートを学校の机の中に残す――要は『置き勉』をしない。机の中身はいつも空だ。よって、机だけを変えれば済む話であるのだが…。
「……」
香は口元に手を当てて少し黙考する。無論このまま終わらせるつもりは毛頭ない。
廊下に出した机をわざわざ出入り口の前に寄せ、ルーズリーフに一筆したためてそれを貼り付けた。
――これをした犯人は特定しています。今日の放課後までに名乗り出ない場合、停学処分とし、次の考査試験については全科目点数剥奪とします。
「――さて、これでいいかな」
徹底抗戦の構えである。この一文はすなわち事実上の退学にするという脅しである。立派な証拠があるわけではない。その権限が香にある訳でもない。しかしながら「そういったこと」に日頃から注意を傾けている香は、犯人に大体の心当たりがある。要するに放っておくつもりはないと暗に言っているのだ。
根本的な解決にはならないということは理解はしているし、こんなやり方では誰も報われないこと理解している。だが、野放しにはできない。それで不幸になった人を知っている。それで自分も不幸だったことがある。
手をこまねいているわけにはいかない。結果的に誰もいなくなったとしても、香はそれでもいいと思っていた。
「はぁ、嫌われるって、大変だよね」
誰に向かって吐いた呟きだったのか、自虐気味にくすりと笑った。
香はあくびを一度噛み殺して、自分の席に着いた。皆が投稿するまでにはまだ時間もある。香は鞄から文庫本を取り出してただ静かに読み始めた。
しばらく経ってから、教室の入口の戸が開く。
香りは一度読んでいた本から目を離し、侵入者に目線を送った。
ヌッっと巨体をくぐらせて入ってくるのは、ざんばらの金髪頭。藤木拓也だ。
「……よう」
「おはよう、藤木君」
香りの視線に気づくと、拓也はぶっきらぼうに片手を上げて挨拶をするが、香はそれに微笑をたたえて返した。
拓也は香以外まだ誰もいない教室に視線を這わせ、事情を飲み込んだのか、小さなため息をついた。
「…別に放っときゃいいのによ」
「藤木君、机とかグチャグチャにされてたら授業でないでしょ。そろそろ、出席日数危ないんじゃない?」
「お前さんが気にすることじゃねーよ。そのへんはちゃんと計算してる」
「そう? でも藤木君、いつも授業いないから私は寂しいかな」
香はニコニコとおくびにも出さず答えた。
「ったく、白々しい」
拓也は自分の机に座ると、机に足を投げ出した。
そうこうしないうちに、廊下が騒がしくなってくる。拓也のあの山上の机を廊下に出していては、このクラスにはこういったイジメがありますよ、と宣伝しているようなものだ。道徳的にも体面的にも宜しくはない。
何人かが教室に入ってくるが、拓也の姿を見るなり目を合わせないように顔を背け、そそくさと自分の席へ向かう。それは朝礼が始まるまで続き、普段は朝の喧騒で騒がしいはずの教室はまるで通夜のようにしんと静まり返っていた。
教室に入ってきた担任の男教師は明らかに機嫌の悪そうな顔をしていた。
「――揃っているな、朝礼の前に大事な連絡がある。気づいている者もいるようだが――と――と――は、特定の生徒への継続的な器物破損、精神的負荷を与えた名誉毀損、その他諸々の事情があり、警察と裁判所が動くこととなった。よってこの事態を深刻と受け止めた学校側は彼らを即時退学処分とする事になった」
教室内が静かにざわめき立つ。後ろめたさと恐怖から、各々の顔が青ざめる。香と拓也は別にしてだ。
「お前ら静かにしろ。連絡事項はこれだけではない。お前たちも見ただろう、廊下に出されてあった机を。私もこの件については見逃してきた積もある。が、このクラスは、『まだ終わっていない』。事態は深刻だ。私は・・・・・・いや、何でもない。君たちは、今日から一週間、自宅謹慎処分とする。前代未聞だ、クラス単位で停学など……」
男教師は嘆くように眉間を抑える。見れば目の下にはクマが有り、普段は整えているはずの髪は乱れたままだ。彼にも余裕はないのであろう。
「お、横暴だ!」
一人の生徒が立ち上がり、講義を申し出る。それに便乗するようにほかの生徒も声を上げた。
「そうだそうだ、俺たちは何もしていないじゃないか!」
「さっきも言ったが――」
教師はなんとか落ち着かせようと口を開こうとするが――。
――ガンッ!
ざわつき始めた教室内がその大きな音で静まり返った。
机に足を投げ出していた拓也が、足を振り下ろして机を叩いたのだ。
「おいおい、虫のいい話じゃねぇか。心当たりがある奴はよく吠えるよな」
ノソリと、拓也は体を起こして立ち上がる。皆がそれに身構えるが、拓哉はそれを気にもとめず、肩にペチャンコのカバンをかけて、一言吐き捨てた。
「けっ、付き合うのもバカバカしい」
教室から出ていこうとして、彼はふと足を止めて振り替える。
「なあ、先生よ」
「何だね」
「今日が木曜ってことは、来週の木曜でいいんだよな」
「ああ、そうだ」
「・・・・・・帰ります」
「まっすぐ帰れよ」
「へいへい、わーってますよ」
確認すると拓也は片手をヒラヒラとふって教室を去った。
「ほらほら、お前たちもさっさと帰れ。文句は受け付けん。くれぐれも、このまま学校に残ろうとするな。見つけ次第退学だぞ」
教師はそう言い残すと疲れた足取りで出ていった。
香は静まり返った教室の中手早く帰宅準備をして、拓也の後を追いかけた。
香の思いとしては、少々行き過ぎな学校側の対応も気にかかったが、結果は上々であると感じていた。しかし、彼女はまだやることが残っている。
彼ら、彼女らが藤木拓也個人に対して行ってきた全て、ここでまとめて清算する。
ーー彼女はやり方を変えた。イジメは被害者だけを庇っていても何も解決しない。幼き日の香はそうすることで救おうとした。だが何も解決しなかった。エスカレートする一方なのだ。やるならば双方向。被害者だけではなく、加害者に対しても対処する。そのかわり、自分が解決できないことに関しては何も手出しはしない。それは救おうとした相手に対して失礼になるから。自分にもまた、救えない人がいたから。
だからこそ、一度首を突っ込んだからには徹底的に行動する。
彼らが自らがしてきた事を悔い悩み、一生後悔と猜疑心に苛まれて生きていかざるを得ないような、爪痕を残すために。だから今は動かなければならない。
だがその前に、拓也の真意も知らなければいけない。
「ふふっ、私、ヤな奴だな」
下駄箱で上履きと外履きを交換しながら、香は一人ごつる。しかし口で言うほど後悔はないようで、その口許には相変わらずのいつもの微笑を称えていた。