005 『その日、屋上にて』
瞳を通して影が落ちるのが分かって、拓也は眼を覚ました。
眠気眼でぼんやりと見上げると、一人の少女が自分を見下ろしていた。くりくりとした栗色の瞳が、拓也の顔を覗き込んでいる。
見なれた顔だったので拓也は特に驚く事も無く、眠そうな声で言った。
「んだ、旭川か。ふあ~あ」
「おはよ、藤木君。またこんな所でサボってる」
溌剌とした、しかし優しい声が返ってきた。
拓也はあくびを噛み殺しながら体を起こす。
見下ろしていた少女はそんな拓也の顔を見てクスクスと笑った。
「藤木君、すごい寝癖」
「ええ、ああ」
指摘されて、拓也は自身の髪に無造作に手櫛を入れる。
「今何時だ?」
髪を整えた拓也が投げた質問に、旭川と呼ばれた少女は笑顔で答えた。
「昼休みだよ」
「そうか、えらく寝たな、あふ」
拓也は再びあくびを噛み殺す。随分と寝てしまったようだ。硬いコンクリートの地面に寝転がっていたためか、体中が痛い。
首をボキボキと鳴らしている拓也の横で、旭川は構わず小さな弁当箱を広げ始めた。
「お前もモノ好きだね。こんな所で食べて楽しいのか?」
あぐらを組んで頬杖をつきながら、拓也は興味なさげに横目で旭川を見る。
肩で綺麗に切りそろえられた栗色の髪は太陽の光を反射するほど艶やかで、その大きな瞳は慈愛を湛え、柔らかそうな唇は優しく笑みを結んでいる。美しく流れる髪から除く整った顎のラインと白く陶磁器のようにきめ細やかな肌。その肢体は無駄な贅肉は一切なく、それでいて女性らしいふくよかさを思わせる。その仕草の一つ一つがまるで茶道の型の様に洗練され、さながら物静かな和美人を思わせた。
彼女は拓也のクラスメイト、旭川香である。礎馴学園高校二年一組出席番号一番、学年の主席にして学級委員長。頭脳明晰、容姿端麗、品行方正を絵にした様な少女である。
「藤木君を探しに来たついでだよ」
香は屈託なく笑い、「いただきます」と手を合わせてから、その細く綺麗な指で箸をとった。その仕草も一々様になっている。
「ついで、ねぇ」
呆れたように拓也は声を漏らすが、内心ではまんざらでもない様子だった。
歩く品行方正こと旭川香は、家族を覗いては拓也に対して唯一物怖じせずに話しかけてくる人物だ。だから拓也も自然体で話す事が出来ている。
「先生、すごく怒ってたよ」
里芋の煮っ転がしを口に運びながら、香は唐突に言う。これが本題の様だ。
「何の事だ」
「机」
シラを切ってみるが、香には通用しないようだった。
「ああ、アレね。あれじゃあもう使えないから、ついでにスクラップにしてやっただけだ」
正直に白状しながら、ついでにお茶を濁しておく。
「相変わらず手荒だねぇ。確かに、アレはひどかったかも」
その惨状を思い出したのかクスクスと笑ってから、香は続けて言った。
「またやられたの?」
「まあな」
「懲りないね、皆も」
「そうだな」
「いつまで続くんだろうね」
ポツリと、香は一度箸を止めて言う。
「さーな、気がすんだら収まるだろ」
そっけなく答えて、拓也は再び仰向けで横になった。頭の後ろで手を組んで、青い空をぼんやりと見つめる。
「一々相手したらきりないって」
「そうかなぁ」
考えるように呟いて、香は再び箸を動かした。
「お前は、怖がらないな、俺の事」
なんとなく、思った事を口にしてみる。
「どうして? 優しいじゃない、藤木君」
こんな事を素で言っているのだから始末に負えない。
「俺みたいな不良に構ってると、お前まで嫌われるぞ?」
雲の数を数えながら、拓也は言う。
「不良って、良くないって書くんだよ、知ってる?」
「知ってるよそのぐらい。喧嘩売ってんのか」
「あはは、違うよ」
コロコロと香は笑う。
「藤木君は確かに、見た目は怖いし口も悪いし金髪だしすぐ物に当たるし喧嘩腰だし授業はいつもサボっているけど……」
香は指折り数えて、拓也の特徴を列挙していく。
「やっぱ、喧嘩売ってんだろ。っていうか、散々な言われようだな。ま、全部事実だから否定はしねーけどさ」
「……悪い事、してないじゃない」
「――」
拓也は香の発言に言葉も無かった。ただ、言える事が一つあった。
「そういう奴の事を、人は『不良』って言うんだよ」
「――それは、藤木君が勝手に思い込んでるだけだよ」
「は?」
小さな声で耳をかすめた香の言葉。拓也はうまく聞き取れず、聞き返した。だが香はすぐに首を振る。
「え? あ、ああ、うん、何でもないよ、何でも。……でも『不良』って、藤木君がされている陰湿な嫌がらせをしてる人達だと思うけどな」
「……そーでもないさ」
それでもやはり『不良』とみなされるのは、自分の様な人間なのだ。
「それに」
「それに?」
「嫌われたらその時に考えるよ」
肝が据わっているのか、何も考えていないのか、ニコニコと変わらず食事を続ける香に、拓也は今日何度目かの溜息をついた。
(……――全く白々しい)
実のところ、藤木拓也は旭川香の所業についてある程度察してはいる。だが、本人が口にしないのだから話したくないことだろう。わざわざ藪をつついてまで聞き出す必要はない。
「……寝る」
「午後の授業はどうするの?」
「……フケる」
「そう。おやすみ。風邪引かない様にね」
「ああ」
拓也は言葉で頷いて、そのまま目を閉じた。
サボる事を公言しても、香は咎めてくる事は今までで一度も無かった。こんな状況は何度もあった。その中で一度も、だ。どのみち咎めてきたところで授業に参加するつもりは毛頭ないが。
(あんなことする連中となんて、考えただけでも虫唾が走る。いちいち相手するのもめんどくせぇ)
普通の学校生活を望む拓也にとっては、ああいった性質の悪い嫌がらせをしてくるクラスのメンツの中で授業を受ける事は不愉快以外の何物でもない。第一、すでに嫌煙されているこの身の上では、それは過ぎた願いだ。
横で食事を終えた香が静かに「ごちそうさま」と合掌する。
「じゃあね」と言いつつ身支度を整えて屋上から出ていこうとする香に、拓也はおもむろに背中越しに呼び止める。
「……おい旭川」
キィ、と屋上の出入り口の戸が空いたところで、香は振り返った。
「なに?」
「…その、なんつーか、……ありがとよ」
一瞬口ごもり、飲み込みかけた言葉を拓也は振り絞った。
「ふふ、どういたしまして、かな」
屈託のない返事が聞こえてきて、戸が閉まる音を聞き届けてから、拓也は寝転がったままおもむろに枕がわりにしていた鞄をまさぐり、中から今日持参した唯一の本である古文の教科書を取り出した。
学生である以上、学力を落とす事は出来ない。
もう何度も目を通した教科書を開き、寝転がったまま読書を始めた。何度も見たその文章の羅列は、すでに暗唱できる程だったが、それでもやる事が無いので、仕方なくだ。読書はそもそも嫌いじゃないので、苦にはならない。
現代文、古文、数学、現社、歴史、英語、物理、化学、保健体育、和英・英和辞書、歴史資料、etc……。もらった教科書は全て読みつくしてしまっている。授業に出ない事もあり、それほど暇を持て余していた。
「――八雲たつ、八雲八重垣、妻ごみに、八重垣作る、その八重垣を……」
気紛れに、その一文を謳っていた。その言葉の意味も、もちろん知っている。どうしてこの歌だったのかは、謳った本人にすら分からなかった。
そんな、穏やかな昼。