これは流石に
翌朝、いつもの通り、まだ暗いうちから目が覚める。
厠に向かうべく布団から出ると、寒さで少し震えが来る。
しっかりと腕を体に付け、手を擦りながら歩き始める。
暗いので、スキルで温度を見て周囲を確認する。
──道理で寒い。真っ青だ。
佳央様の部屋に移動し、障子を開けて廊下に出る。
畳から木の板に足を乗せた瞬間、まるで氷でも踏んだかのような冷たさを感じ、思わず足を引っ込める。廊下と外とは雨戸だけなので、体の冷えも強く感じる。
それでも、ここを進まねば厠に行くことは出来ない。
少し黄色魔法を使い、つま先立ちで急いでお勝手に向かう。
お勝手の戸口から外に出ると、もう一段、寒くなる。
腕を十字にし、手で上下に擦りながら、小走りで厠に急ぐ。
井戸に差し掛かると、清川様から、
「山上か。」
と呼び止められた。
声のする方を見ると、井戸の周りに4本の棒が立っており、そこに七五三縄が張ってあった。
清川様は、明らかに水垢離の準備をしている模様。
私は足を止め、体を縮こまらせたままで、
「おはようございます。
清川様。」
と挨拶を返し、少し早口で、
「この様子ですと、あれから連絡があったという事ですよね。
お手数をおかけして、申し訳ありません。」
と頭を下げた。
私は、軽く問題ないと言ってくれると思っていたのだが、清川様は、
「全くじゃ。」
と険しい表情になり、
「あれから突然、坂倉様からの念話があってな。
帰ってから更に飲むとは何事じゃと、グチグチと説教されたわ。
判っておったら、飲まなんだと言うに。」
とご立腹の様子。私は、飲んだのは自業自得ではないかと思ったが、
「そうでしたか。
それは、災難でしたね。」
と返すと、清川様は、
「他人事のように言うが、山上がちゃんと聞いておれば避けられた話じゃ。」
とジト目で文句を付けてきた。
私は寒さと、厠に早く行きたいのとで、
「確かに、そうですが、申し訳ありません。
そろそろ行っても良いでしょうか?」
と厠がある方角に目を遣ると、清川様は、
「そういう事は、早う言え。
行ってこい。」
と言ってくれた。私は、
「すみません。
またすぐに戻ってきますので、宜しくお願いします。」
と軽く頭を下げ、私は厠のある方に急いだのだった。
厠に着き、用を足す。
なんとなく格子から外を見上げると、昴が見える。
用を済ませ、また、井戸まで戻る。
清川様は、すっかり準備を整え終えているようで、桶には水も汲んである。
清川様が、
「戻ったか。」
と話し掛けてきたので、私は、
「はい。」
と返事をした。
清川様が、
「今の時期じゃ。
水はかなり冷たいから、心するのじゃぞ。」
と言いながら、私に白装束を渡す。
──外は寒いというのに、ここで脱ぐのか。
私は風の当たらなさそうな大きめの木の側まで移動し、震えながらそれに着替えた。
井戸に戻ると、清川様から、
「うむ。
では、次はこれじゃ。」
と言って、私に冷たい水の入った桶を差し出した。
私は、前に最初に清川様が祝詞を上げてから水を被ったのを思い出し、
「清川様はやらないので?」
と聞くと、清川様は、
「私は、今日は行かぬからの。」
と答えた。どうやら、社には一人で向かう事になりそうだ。
私は桶を受け取りながら、
「そうでしたか。」
と頷いた。
桶の中の冷たい水を、凝視する。
──この水をかぶるのは、気合が必要そうだ。
呼吸を整え、いざ被ろうと思ったが、手が動かない。
私は、
「すみません。
前は祝詞を上げていましたが、今回は不要なのでしょうか?」
と尋ね、時間を稼ぐ事にした。
清川様が、
「山上が聞いているのではないか?」
と困った顔をする。私が、
「いえ。」
と答えると、清川様は
「少し、待っておれ。」
と言って、目を瞑った。引き伸ばし作戦成功。
寒いので、待っている間一旦しゃがみ、桶を持ったまま肘で脇腹を擦る。
寒いには違いないが、何もやらないよりはマシと言ったところか。
暫くして、清川様が目を開ける。
清川様は、
「ひとまず今回に限り、略式で水を被るだけで良いそうじゃ。」
と教えてくれた。私は、
「ありがとうございます。
助かりました。」
と言ったものの、まだ、被る心の準備が出来ていない。私は、
「ところで、清川様が以前唱えていた祝詞では、駄目なのですか?」
と更に時間稼ぎをしようとしたのだが、清川様は、
「祈る先が違うのじゃ。
祝詞も、違うに決まっておるじゃろう。」
とすぐに返してきた。そして、
「良いから、早う被らぬか。」
と催促する。この作戦は失敗。
往生際悪く、私は、
「すみません。
もう一つだけ。」
と、もう一度、引き伸ばし作戦を仕掛けてみた。
すると清川様は、眉間に皺を寄せつつも、
「一つだけじゃぞ?」
と了承してくれた。私は、
「前は禊と言っていましたが、今回は水垢離と言っています。
この2つ、何が違うのでしょうか?」
と確認すると、清川様は、
「どちらも同じじゃ。」
と断定。だが、
「敢えて言うなら、・・・そうじゃの。
修行で水を被る時は水垢離と言うが、禊とは言わぬくらいかの。」
と付け加えた。
私は、
「線引きが曖昧なのですね。」
と感想を言うと、清川様は、
「まぁ、そうじゃの。」
と頷いた。
清川様が、
「もう良いじゃろう。
そろそろ被れ。」
と、再び私に水を被るように促す。
清川様の目が、少し怖くなっている。
私はもう引き伸ばし作戦は無理だろうと思い、
「はい。」
と観念する事にした。
少しでも冷たくないように、しゃがんだまま、桶を持ち上げる。
だが、清川様から、
「待て、待て。
立って被らぬか。」
と止められた。私は、
「しゃがんでいては駄目なのですか?」
と確認すると、清川様から、
「そういう仕来りじゃ。
被った後も、暫くはの。」
と言い、
「出来ておらねば、やり直しじゃからな。」
と付け加える。
やり直すのは、勘弁して欲しい。
仕方がないので、私は、
「分かりました。
厄介な仕来りですが、頑張ります。」
と宣言しつつ立ち上がった。そして、
「では。」
と言って気合を入れ、背筋を伸ばす。
しっかりと目を瞑り、大きく息を吸い込んで息を止め、水を被る。
全身が凍りつくような寒さに、全身が身震いをする。
呼吸を止めたまま、この寒さが和らぐのを待つが、一向にその気配はない。
もう無理だと思い、しゃがみ込もうとした所、清川様は、
「まだじゃぞ、まだじゃぞ、まだじゃぞ・・・、」
と私が姿勢を崩さないように注意をし、私にとって気が遠くなる程の時間を溜めて後、
「よし。」
と声を掛けた。
一気にしゃがみ込み、両膝を交互に上下に揺らしながら、手で両腕を擦る。
私は、
「では、直ぐに中に入りましょう!」
と言ってお勝手に向かおうとしたのだが、清川様から、
「待て、待て。
あと2回残っておるじゃろうが。」
と止められた。思い返せば、前に禊と言って水を被った時も3回だった。
私は、
「無理です!
そこも略式になりませんか?」
と懇願したのだが、清川様は、
「仕来りじゃ。」
と、無情の言葉。
私は、寒さに大きな声で、
「ですがっ!」
と主張したのだが、清川様は、
「そうは言うても、こればかりはの。」
と困り顔。清川様は次の水を井戸から汲み上げ始め、
「なるべく早う済ませて、お勝手まで戻った方が良いとは思わぬか?」
とまるで他人事。なんとなく、イラッとくる。
私は、寒さに震え小さくなりながら、清川様を恨めしく見上げた。
清川様は、汲み上げた水を釣瓶から桶に注ぎ、
「次じゃ。
早う被れば、早う終わる。
自ら長引かせる事もあるまい?」
と私に道理を説く。
間違いなく、その通りと頭では理解できるが、体は早く温まりたい。
私はしゃがんだまま桶を受け取ったものの、その桶の水を見つめながら、
「御尤もですが、これをまた、被ると思いますと、ゾッとしましてですね・・・。」
と言い訳をした。清川様は、
「早う立たぬか。
寒いのであろう?」
とすぐに始めるように促してくる。
私はやらねば終わらない事くらいは理解してるので、
「分かりました。」
と言って震えながら立ち上がったものの、被ったふりをして、水を後ろに捨ててしまう事を思いついた。
清川様から、
「顔が笑っておるが、良からぬ事を考えてはおるまいな。」
と釘を刺される。
私は、お見通しかと苦笑いしながら、
「そこは、信用して下さい。」
と言って観念し、背筋を伸ばして水を被った。
今にもしゃがみたくなる衝動を抑え、じっと寒さを堪える。
清川様がまたしても、
「まだじゃぞ、まだじゃぞ、まだじゃぞ・・・、」
と何度も注意し、私も『もう無理』と何度も思いながらもじっと耐える。
私は、清川様が、
「よし。」
と口を開いた瞬間に、さっとしゃがんで先程よりも激しく体を動かした。
清川様が桶に水を入れ、
「これで最後じゃ。
途中でしゃがんだら、また3回じゃからな。」
と鬼のような一言。私は、
「分かりました。」
と返事をした。
──これ以上、我慢できない。
そう思った私は、桶を受け取るやすぐに、大きく息を吸い込んで止めると、今度はすぐに水を被った。
これを見た清川様が、
「よし。
では、もう暫く。」
と声を掛けたのだが、私はその『よし』という言葉に反応し、思わずしゃがみ始める。
しゃがんでいる最中に聞こえてきた『もう暫く』の言葉に、これが終わりの合図ではないことを知り、私は猛烈な後悔とともに、寒さもあってしゃがみ込んだ後、盛大に体を振るわせたり擦ったりした。
清川様は、
「・・・山上よ。
もう一回の。」
と気まずそうに伝えてきた。
私はなかった事にはならないかと思いながら、
「『よし』と言ったではありませんか!」
と文句を付けてたのだが、清川様は、
「それは済まなんだが、私も『もう暫く』と言うた。
それにも拘らずしゃがんだは、山上ではないか。」
と尤もらしく反論してきた。そして、誤魔化すように、
「もう、空も白み始めてきた。
少々、急ぐぞ。」
と言って、また、井戸から水を汲み上げ始めた。
私は清川様を恨みながら、もう3回、頭から水を被ったのだった。
作中の昴は、プレアデス星団の和名です。
今でも和名が普通に使われる、数少ない天体の一つとなります。
平安時代にはすばると呼ばれていたそうで、『和名類聚抄』という本に「須波流」と記載されているのだそうです。この「須」「波」「流」は、それぞれ変体仮名の「す」、平仮名の「は」、変体仮名の「る」となります。濁点はよく省略されて書かれるそうなので、これで「すばる」と読むのだとか。
なお、昔、平仮名は一つの音に複数の「仮名」(というか漢字)が割り当てられていたそうですが、現在使われている平仮名から外れた仮名が変体仮名と呼ばれているものとなります。
例えば、ここに出てきた「す」は、元は「寸」のくずし字から出来ていますが、この他に変体仮名として「須」や「受」などがあります。
・プレアデス星団
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・和名類聚抄
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・平仮名
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・草書体
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・くずし字とは?
http://codh.rois.ac.jp/knowledge/#character
・Unicode変体仮名一覧
http://codh.rois.ac.jp/char-shape/hentaigana/




