鎖場
ここのところ、ずっと分厚い雲で覆われていた空に、ちらほらと青空が見え始める。
陽の光が尾根を照らし、雪が白く輝き始める。
尾根の高みに登ると、次の高みに、大岩とその隣に小さめの山小屋があるのが判る。
私はその場所を指差すと、
「あれが大岩ですか?」
と質問すると、雫様が、
「そうや。」
と答える。赤光様は、
「日が出てきたからな。
崩れる前に、急ぐぞ。」
と言い出した。私は、
「崩れると言いますと?」
と聞くと、赤光様は、
「足元に決まってるだろうが。」
と答えた。雫様が、
「まだ、雪崩の季節ちゃうやろう。」
と笑ったのだが、赤光様は、
「今朝方の大雪は、尋常ではありませんでした。
この辺りには、これ迄も雪が積もっていたでしょうから、ひょっとしたら崩れるかもしれません。」
と説明した。
雫様が少し考え、
「まぁ、そうかもしれんなぁ。」
と同意したが、あまり深刻な感じはしない。赤光様は、
「兎に角、急ぎましょう。」
と急かすと、雫様は、
「そうやな。」
と言って、尾根を急ぎ始めた。
尾根の鞍の部分に差し掛かる。
私が、
「後は、登るだけですね。」
と言うと、雫様は、
「そやな。」
と肯定した後、
「里までは、まだ半分以上、あるけどな。」
と付け加える。
私が、
「半分以上ですか。」
と苦笑いすると、赤光様から、
「そうだ。
だが、今がここなら、日が沈む前には間違いなく着くだろう。」
と言った。私は、
「今朝、予定通り里に着くのは難しいと言っていませんでしたか?」
と聞くと、赤光様は、
「申の刻前には着く予定だったからな。」
と答えた。今は、申の刻から日が沈むまで、四半刻以上ある。
つまり、朝の想定通り、当初の予定通りには着かないという事のようだ。
ただ、その日程は私は初耳なので、何とも比較のしようがない。
私は、
「何れにせよ、結構遠そうですね。」
と少し眉根を寄せると、赤光様は、
「まぁな。」
と頷いた。
尾根を登りきり、大岩を近くで見上げてみる。
大岩は、その名に恥じない2間《約3.6m》ほどの高さがある。
遠くから見た時、隣にある山小屋は少し小さく感じたのだが、実際は1間半くらいの高さがあり、ちゃんと竜人に合わせた大きさがあった。
雫様が、
「やっと、ここか。」
と言うと、赤光様も、
「飛べばすぐなのですがね。」
と同意した。ならば、私を乗せて飛んでくれればいいのにと思ったが、ここは黙っておく事にする。
小屋の中に入ると、中央の囲炉裏が目に入った。
赤光様が、
「小屋の裏に薪が積んでありましたので、少し、頂いて参りました。」
と言って、囲炉裏に薪を組む。
私は、
「雪で湿っていますが、大丈夫ですか?」
と聞いたのだが、赤光様は、
「大丈夫だろう。」
と言って火を点けた。
案の定、煙がモクモクと出はじめ、頻繁にパチパチと音も鳴る。
私は、
「少し、煙が多いですね。」
と文句を付けると、赤光様は、
「それでも、火が無いよりはましだ。」
と苦笑いした。私は、
「ですが、これは、多いですよ。
上の戸を開けますよ。」
と断って、煙を出すため、突上げの方に近づいた。
雫様が、
「山上が寒ぅないんやったら、開けてええで。」
と心配してくれたのだが、今の私には、耐えられない煙たさだ。
私は、
「多少、寒くなっても今更です。
それよりも、この煙のほうが問題ですから。」
と言って、突上げを開いた。
光と共に、冷たい風も入ってくる。
私は、
「少し、薪を乾かしながら使いませんか?」
と提案したのだが、赤光様は、
「昼食だけだ。
必要ないだろう。」
と言って、そのつもりはない模様。
私は、
「分かりました。」
と引き下がったものの、手に鍋を持った雫様が、
「そないに煙が出とったら、煤が入るやろ。
もうちょっと、煙、出んように出来へんか?」
と文句を言った。赤光様は、
「煤ですか。
確かに、それは駄目ですね。」
と言って、燃えている木に何かする。
すると、しろい煙が一度にモワッと出て、そこから先は、あまり煙が出なくなった。
私は、
「何をしたのですか?」
と聞くと、赤光様は、
「木を熱したのだ。
初めてやったから自信はなかったが、上手く行くものだ。」
と笑った。雫様が、
「それ、薪の水抜きする魔法やろ。
昔、雅弘が田中がめっちゃ上手い言うとったで。」
と話した。私が、
「田中先輩がですか?」
と聞くと、雫様は、鍋を火に掛けながら、
「そうや。」
と頷き、
「その時、抜きすぎても駄目、言うとった気ぃするなぁ。」
と付け加えた。
私は理由を聞こうと、
「そうなのですか?」
と質問したのだが、
「そうや。
どう駄目かは、忘れたけどな。」
と知らないようだった。
私は、
「なら今度、覚えていたら聞こうと思います。」
と言うと、雫様は、
「それ、忘れるやつやな。」
と笑い、私もなるほどと思ったので、
「そうかもしれませんね。」
と同意した。
暫くして、具のない味噌汁に干飯を入れた雑炊が炊きあがる。
雫様が、
「せめて、漬物でもあったらええのになぁ。」
と赤光様を見る。赤光様は、
「ですから、出発まで時間がなかったのです。
それに、この雪です。
狩りも、儘なりませんでしたから。」
と理由を説明したのだが、雫様は、
「そんなんは、分かっとる。
でもな。
漬物買うても、言うほど目立たんやろが。」
と文句を付けた。私が、
「もう、良いではありませんか。
どのみち、今夜は里なのですし。」
と仲介しようとしたのだが、雫様から、
「そやけどな、山上。
ちゃんとした物食べんと、力、出ないやろ?」
と言われては、私としても、
「はい。」
と返事をするしかない。赤光様が、
「次からは、他にも準備致します。」
と折れると、雫様も、
「頼むで。」
と締め括った。
食事と片付けが終わり、いよいよ、鎖場に向かう事になる。
私が、大岩の周りを確認して、
「すみません。
横に登道があるように見えるのですが、鎖場はどちらですか?」
と聞くと、雫様は、
「そっちやないで。
こっちや。」
と言って、逆側の崖の方に私を呼んだ。
行ってみると、雫様は、
「あれ、見てみぃ。」
と言って崖の下を差す。
私はゆっくりと崖を覗くと、雪も積もる事の出来ない急な斜面が見えた。
──高い。
恐怖で、目を瞑りたくなるが、なんとか薄目を開けて確認する。
昨日、焔太様の背に乗って飛んだことを思い出す。
あの時は高い所から振り落とされる恐怖のあまり、目を瞑って大変な思いをしたが、ここも、落ちたら即死に違いない。
そう思いながら私は、
「高いですね。」
と感想を言うと、雫様が、
「ん?
声、震えとんで?」
と指摘した。無意識に、恐怖で声が震えていたらしい。
私は、
「ここから落ちたら、死ぬじゃありませんか。
こんな所、怖いに決まっています。」
と理由を説明すると、雫様は、
「確かに、そやな。
でも、何度か登り降りしたら慣れるで。」
とあっけらかんと返してきた。私は、
「でも、即死ですよ?」
と死を強調すると、雫様は困った顔で、
「落ちんかったら、平気や。」
と言ったのだが、
「それでも怖いんやったら、紐でも結んどくか?」
と提案する。私は有り難いと思い、
「宜しくお願いします。」
と申し出を受けた。後ろから赤光様が、
「人なら、高い所が怖いという事もあるか。」
と苦笑いするのが聞こえた。
私が、
「それで、どの辺りを見ればよいのでしょうか?」
と話を戻すと、雫様は、
「そうやった。
あの大岩の下の方、鎖が垂れとるんやが、見れるか?」
と聞いてきた。
目を瞑らないように確認すると、大岩の下の方から鎖が出てきているのが見えた。
そこから、何箇所か杭が打ち込まれている所を通って、下の方まで垂れ下がっている。
私は、
「はい。」
と返事をすると、雫様は、
「今、雪で見えてへんけど、この大岩に鎖が巻き付けてあるんや。」
と説明してくれた。
私は、
「ひょとして、この斜面を下るのですか?」
と聞くと、雫様は、
「当たり前や。
そのために、呼んだんや。」
と答えた。私は鎖場と聞いて、てっきり登るものと思い込んでいたが、降りる方だったようだ。
雫様が、
「ここから降りて、支尾根を伝っていくんや。
それで、ずっと行った先の、あっちの山の向こうに里があるんや。」
と説明する。
私はその指の差す方を見て、
「まだまだ、時間がかかりそうですね。」
と言うと、赤光様から、
「そうだ。
だから、そろそろ出発するぞ。」
と言って、私の腰に紐を結び始めたのだった。
今日も、小粒なネタです。
作中出てくる、突上げというのは、蝶番で外に開くようにした木板を、つっかえ棒で閉じないようにして使う窓の事です。
今は古い建物でしか見かけませんが、昔はお城から町屋に至るまで、結構使われていたそうです。
もう一つ、これは江戸ネタではありませんが、作中、尾根の鞍の部分という表現があります。
これは、山と山を繋ぐ左右に分かれている所を尾根、そして尾根の一番低くなっている所を鞍部と呼びますが、ここから「尾根の鞍の部分」としています。
・窓
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・彦根城
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※1層目が突上窓になっている
・尾根
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・峠
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