揚屋に戻っている束(つか)の間に
行灯の光だけが頼りの揚屋の中、私は不知火様が勘違いしていないことを祈りながら、再びの呼び出しを待っていた。
隣の揚屋からトントンと壁を叩く音がした。
私は壁に寄っていき、
「何でしょうか?」
と不機嫌に答えた。
すると隣の揚屋からは知らない女の声で、
「あんたが、『踊りの』ってのかい?」
と聞いてきた。私はてっきり雫様の妹だろうと思っていたので少し驚き、
「どちら様でしょうか。」
と小声で確認した。隣の揚屋の知らない声の主は、
「名乗るほどの者じゃないよ。」
と返事をした。
私は、名乗れない人ならと思い、黙って壁を離れた。
だが、隣の揚屋からはお構いなしに声がする。
「大した話じゃないんだがね?
あんたが戸赤をやったのかい?」
──戸赤?
私の知り合いに、戸赤という人はいない筈だ。
そもそも私は、誰も殺った事はない。
下手に関わり合いにならないように、黙っていることにした。
隣の揚屋から、
「戸赤だよ。
戸赤。
知らないとは言わせないよ?
私は、さっき、確かに牢役人から聞いたんだからね!」
と少し声が大きい。
さっきという事は、私が拷問部屋で取り調べを受けている間の話だろうか。
周りの人が慌てて、
「静かにおし!」
と注意されているのが聞こえた。雫様の妹だ。
雫様の妹が、
「話してやんないのかい?」
と聞いてきた。私は渋々壁の方に戻り、小声で、
「すみません。
どなたか存じませんが、私は戸赤様という名を聞いた覚えがありません。」
と謝った。すると雫様の妹は、
「そうなのかい?
だが、確かに牢役人が、威嚇でふらつかせて一撃だったらしいと言っていたよ?」
と確認してきた。
・・・身に覚えがある。
私は、
「焔太様のことですか?
それなら、よく覚えています。
確か赤井様を尊敬していて、真似て竜の姿で戦う竜人様ですよね?」
と思い出したことを話した。すると雫様の妹は、
「ん?
あぁ、そうだよ。
しかし、珍しいね。
あんた、名前は知っていても、苗字は知らなかったのかい。」
と明らかに向こうで苦笑いしている様子だ。
私は、
「仕方がないじゃありませんか。
周りの人が話している呼び方でしか覚えられませんよ。」
と言い訳をすると、雫様の妹は、
「それもまぁ、そうだね。
あの場では焔太は下っ端だから、周りも皆、目上だったろうし。」
と納得した後、
「こいつ、紅口 友華って言ってね。
焔太のいい人なんだよ。」
とすこしニヤついた雰囲気で話した。慌てて紅口様が、
「ちょっ!
何て説明してんだい!」
と明らかに怒り半分、照れた声で言ってきた。
私は、
「それで、私にはどのような事を?」
と聞くと、紅口様が何か言うと思ったが、先に雫様の妹が、
「『焔太があんなに簡単にやられるはずがないよ!
何かの間違いじゃないかい?!』
って言ってね。」
とからかうように笑いながら説明した。紅口様が、
「ちょっ!
瞳ちゃん、何言ってんだい!」
と少し怒った素振りで言う。
雫様の妹は、どうも瞳様と言うらしい。
私は、
「あんまり大きな声で話すと、怒られますよ?」
と注意したのだが、紅口様は、
「それはそうなんだけどね?」
と声は小さくなったが、興奮は収まらないようで、やや早口だ。続けて、
「あんなに頑張って稽古してたんだ。
いいとこなしってわけじゃなかったんだろ?
簡略に言っただけで、本当はもっと色々あったんだろ?」
と聞いてきた。
牢役人は、紅口様にどのように説明したのだろうか?
私は困ってしまい、
「簡略と言われましても・・・。」
と言い淀んでいると、瞳様が、
「どんな感じで戦ったか、教えてやれば良いんだよ。」
と教えてくれた。
あの時一番大変だったのは、焔太様を河原で気絶させた後、町の門まで引きずって運んだ事だ。
だが、それを正直に言うと、流石に焔太様の名誉に関わるだろう。
私はどのように話せば紅口様が残念に思わないか気を使いながら、
「えっと、そうですね。
大変でしたよ。
・・・あの時は、私は不用意に挑発してしまいまして。
命からがら走って逃げたのですが、どんどん焔太様に攻撃を受けまして、川の方に追い詰められました。
後から聞いた話では、あの竜の爪が私の1寸横を抜けていったそうでして。
いや、もういつ攻撃が当たって死ぬかとヒヤヒヤしましたよ。」
と説明した。紅口様は、
「そうかい。
それで?」
と言ってきた。私はここで話を切りたかったので、
「私は焔太様を意識しながら逃げて河原の土手に駆け上っていると、そこで偶然すっ転びまして。
お陰で、かろうじて焔太様の爪を避けきる事が出来たのですよ。」
と説明した。紅口様が、
「へぇ。」
と合いの手を入れる。私は、
「これで、私は土手の上に倒れている状態、焔太様は私から行き過ぎて川の上に飛び出した状態となりました。
それで焔太様は、私と向き合う為に反転して向かってきたのですが、向こうも人間相手で油断していたのだと思います。
私は起き上がりながら全力で威嚇をしまして。」
と説明を続けた。これで、牢役人の話とも辻褄が合う筈だ。
だが紅口様は、
「ん?」
と声を出した。瞳様が、
「それで?」
と続きを催促したので、私は、
「はい。
焔太様にも威嚇が効いたようで、空中で固まってしまって、そのまま土手に激突したのですよ。」
と説明した。紅口様は、
「その程度で、焔太は倒れたりしやしないだろ?」
と言ってきた。私は、
「勿論です。
それで私は駆け寄って、焔太様の頭をバシッとやって気絶させたんですよ。」
と話した。すると紅口様は、
「なるほどね。
そんな状態で剣を頭に叩きつけられたんじゃ、気絶しても仕方ないね。」
と納得したようだった。
だが、それは事実ではない。
私は、
「いえ、剣ではありませんよ。」
と言った。紅口様は、
「ん?
あぁ、槍で叩きつけたのかい。」
とまた納得したようだ。だが、そう言う訳でもない。
私が、
「槍でもありません。
そもそも、私は槍なんて使えません。
持っている物も、鉈だけですし。」
と説明すると、紅口様は、
「あぁ、鉈を使ったのかい。」
と納得した。
だが、それも違う。
私は、
「いえ、拳骨で。」
と否定すると、紅口様が、
「あぁ、あれか。
武闘家ってやつなんだね。
珍しいね。」
と言われた。
だが、私は武闘家なんて荒くれ者ではない。
慌てて、
「そんなまさか。」
と否定した。
紅口様は、
「武闘家じゃないのに拳骨かい?」
と怪訝な声で聞いてきた。
「拳を頭に落として気絶なんてそうそう出来ないだろ。
あぁ、比喩で何処か急所を殴って気絶させたってことだね。」
と納得したようだった。私は急所を殴った覚えはなかったのだが、
「まぁ、似たようなもので。」
と返した。
瞳様が、
「それにしても、なかなかだね。
冒険者でもやってんのかい?」
と聞いてきた。私は、
「はい。
まぁ、副業ですが。」
と正直に答えた。
余計なことを言ったことに気が付き、なんとなく、バツが悪くなる。
紅口様は、
「・・・つまり、副業でやっている片手間で、焔太を素手で倒したって事かい?」
と聞いてきた。何となく声が怖い。
だが改めて考えると、そういう事になるのだろうか。
私は、
「はい。」
と肯定した。ついでに、どうやって手に入れた力か経緯も話そうと思ったが、これを話すのは不味いだろうと思い直し、
「えっと、・・・力については話せない事情がありまして・・・。」
と濁した。すると紅口様は、
「・・・?
あぁ、そういう事かい。
まどろっこしいね。
でも、相伝ってやつじゃ仕方ないね。」
と向こうで勝手に納得したようだった。
恐らく、私が何かの秘奥義でも会得していると勘違いしているようだが、もうだんだんと面倒になって来たので、
「想像にお任せします。」
と曖昧に答えた。これなら、一応、嘘は付いていない。
瞳様が、
「まぁ、踊りのなんて呼ばれてるけど、普通の人間って訳でもないみたいだし、良かったじゃないか。」
と言うと、紅口様が、
「良かないよ。
・・・でも、まぁ・・・。」
と何か言いかけて止めたようだった。
暫くすると、階段から誰かが降りてくるのが分かった。
私は、不知火様が戻ってきたのだろうと思い、金石様が揚屋まで迎えに来るのを待ったのだった。
作中、山上くんは冒険者は副業だと言っていますが、江戸時代にも副業は存在しました。
山上くんの出身の平村でも工芸品を作って収入を得ていましたが、これも副業の一つとなります。
「村から見た日本史」という本によると、新潟の方ですが、天保4年(1833)の「塩沢組五八か村、他邦出入金調書上帳」の引用に基づいて米(出し米)で得た金は612両だった一方、縮(麻織物)で1万1000両、宿料で1300両、絹糸で510両も稼いでいたという事例が紹介されています。
縮や絹糸は一例ですが、全国には他にも名産品と呼ばれるものが多々あります。
江戸時代、副業で豊かな生活を送る人たちは、割といたのかもしれませんね。
・水呑百姓
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・農閑余業という名の新興職業
田中圭一『村から見た日本史』筑摩書房, 2014年, 電子書籍で読んだのでページ数不明




