夜、森に入ったら
今日は少し長めです。
私は、朝食に更科さんの好物のお肉を加えるべく、こっそりと森の中に入っていた。
闇夜なので、温度で見て周囲を確認しながら歩いていく。
枝でも踏んでうっかり音を出さないよう、気を付けながら慎重に歩いていく。
まだまだ、私は気配を消すのが下手だ。なので、せめてこういう所で獲物に逃げられないように気を配っているのだ。
周りに動物の気配がしないか探るが、それらしい気配は一向に感じられない。
だが、以前この辺りに来た時は、向こうから襲ってきたとは言え、狼や大牙狼もいた。もし大牙狼を狩ることが出来れば、毛皮もいいお金になるのでありがたい。
私はそんなことを考えながら、特に宛もなく歩いていた。
ふと、気配はないのに移動している影がある事に気が付く。
気配を消すのが上手い動物にしては、まっすぐ立って歩いているように見える。
私は、相手に覚られないよう、そっと影の方に近づいていった。
すると、そこには予想もしていなかった人物が歩いていた。
古川様だ。
私はなおも近づくと、小さな声で、
「こんばんは。
古川様。
こんな夜更けに散歩ですか?」
と声をかけた。すると古川様は、
「来たか。
これから獲物のおる場所まで導いてやるからの。
ちと手強いが、倒せるはずじゃ。」
と言った。
私は、
「また巫女様ですか。
いつも古川様ではありませんが、そんなに頻繁に憑依して、古川様から疎まれたりしないのですか?」
と思っていることをそのまま質問にした。すると古川様は、
「そちは、皆が言いにくいことをサラリと言うの。
と言うか、二人きりだからと云うて、その様に直接『巫女』と語りかけるでないわ。
本来であれば、厳罰物ぞ?」
と呆れたように言うと、
「まぁ、ここだけという事にしておいてやるから、ありがたく思うのじゃぞ。」
と言われた。私は『厳罰』と聞いてしまったと思い、
「すみません。」
と謝った。そして念の為、
「それと、憑依されていても古川様とお呼びしたほうが良いのですね?」
と確認した。すると古川様は、
「それはそうじゃ。
本体に魂がおらぬとわかれば、あらぬことをしでかす者もおるかも知れぬじゃろうが。」
と怒られた。確かに、魂が抜けているのであればバレたら不味いだろう。
私は、
「それであれば、尚の事、憑依しては駄目ではありませんか。」
と指摘した。古川様は、
「ふふ。
小言など、久しく言われなんだわ。
まぁ、良いじゃろう。」
と少し愉快そうに笑った。私は、
「そう言えば、赤竜帝も遠いところに帰った人に、
『久々に普通に接してもらえて新鮮であった。』
という感じの事を話していました。
身分が高くなりすぎると、そう言う事もあるのでしょうか。」
と聞いてみた。
古川様は、
「遠いところか。
それは、残念であったな。
妾もまぁ、その様な時もある。」
と言った。私は、
「ハプスニル。
あまりに遠いので、今もまだ船で帰っている途中でしょうか。
次に会う事があるかは分かりませんが、数ヶ月前の話なのに懐かしささえ感じます。」
と説明を足した。すると古川様から、
「ん?
死んではおらぬのか?
が、国外であれば、確かに『遠く』じゃな。」
と苦笑いしている。
私は、
「それで、どの辺りまで行くのですか?」
と聞くと、古川様は、
「まぁ、黙って付いてくるが良いぞ。」
と言って、私を先導した。
暫く歩くと、私が入るには屈む必要があるくらいの大きさの洞穴が見えてきた。
古川様はそれを差し、
「あれじゃな。」
と言った。私は、
「何がいるのですか?」
と聞くと、古川様は、
「うむ。
この辺りでは珍しいのじゃが、大角うさぎじゃ。
普通の角うさぎと違うて、そちの倒した大牙狼よりも大きくての。
あれに蹴られれば、竜人さえも唯ではすまぬ事もある脚力が特徴じゃな。」
と説明をした。そして少し考える仕草をした後、
「・・・そうであるな。
明日の魔法の練習になるとだけ言っておくかの。
心して掛かるのじゃぞ。」
と言った。が、急に古川様がおどおどしだし、
「・・・あの、こちらはどちらで?」
と聞いてきた。私は、
「先ほど、古川様からそこの洞穴の大角うさぎを狩るように仰せつかりまして。
申し訳ありませんが、何処かで隠れて見ていては貰えませんか?」
と聞いた。すると古川様は、
「その・・・。
・・・巫女様が仰せなら、・・・分かりました。」
と返事をした。
私は、古川様が『巫女様』と言ったことにちょっとした違和感を感じたが、今から追求する事でもないと思い、聞き流すことにした。
私は先ず、洞窟の中に何かいないか、気配を感じてみた。
すると、気配はないが、何かが動いている音がする。
そっと、洞穴に近づいてみる。
穴の高さは、さっきの見立ての通り、私がかがめば入れるほどだ。
中を覗いてみるが、特に何かいる感じはしない。
私は、穴に入るしか無いかと思い、警戒しながら一歩足を踏み入れた。
同時に、若干の殺気を感じる。
私は思わず、斜め後ろに飛び退いた。
同時に、私の真横を何か大きな塊が通り過ぎる。
振り返ると、そこには角うさぎと言うには、かなり大きな個体がいた。
あれが、大角うさぎなのだろう。
その角を見て、ゾクリとする。
大きな角の先端は、かなり鋭く尖っている。あんな物が刺さったら、私なんてひとたまりもないだろう。さっきは、斜め後ろに飛び退いたお陰で助かったが、そうでなければ今頃はお腹に刺さってお陀仏だったに違いない。
あの速さを、これから何度も避けなければならない。
さっき避けられたのは、たまたまにすぎない。なので、狙って避けられる気がしない。
大角うさぎがまた、私に飛びかかってきた。
私は、左横に飛び退いたのだが、それとほぼ同時に、さっきまで私がいたところを大角うさぎが通り過ぎていた。
しめた!
あのうさぎ、飛ぶ前に腰が低くなる!
私はこれに気が付き、大角うさぎがどれだけ早く飛ぼとも、どうせ正面にしか飛べないのであればいくらでも避けられると思った。避けられるとわかれば、次はどう攻めるかだ。
が、向こうも野生動物だ。生き残るすべを知っている。
三度腰を沈めてきたので、私は正面から外れるように避けようとした。が、やつが飛ぶ寸前に頭の向きを変えてきたのだ。
勿論、私がこれから逃げようとしている方向にだ。
私は、踏切の足の力を、わざと地面を滑らせて前に倒れ込んだ。今度は、私の頭の上を大角うさぎが飛んでいく。
背中に、じんわりと冷や汗が出てくる。
さっき、しめたと思ったのは私の勘違いだと思い直し、大角うさぎを注意深く観察しながら立ち上がった。
大角うさぎは振り返ると、また徐々に腰が下がってくる。
向こうも私の様子を見ながら、いつでも飛べるように構えているようだ。
お互い、睨み合った状態だ。
私は、今のうちに逃げ出す方法を考えようかと思ったのだが、偶然、視界に古川様の姿が目に入った。
古川様がおどおどしている。
今、私が逃げ出してしまうと、次に狙われるのは古川様だ。
古川様に怪我をさせるわけにも行かないので、何か手立てはないかと考えた。
そう言えば、さっき古川様は、明日の魔法の練習になると言っていた。
明日、魔法を使う予定と言えば、巫女様が乗った輿を通すため、草原の草を刈り取った後の地面を平らに均す事だろう。
私は早速、重さ魔法を集めようとしたが、先に大角うさぎが飛び込んできそうになったので、慌てて右斜め前に飛んだ。
私のすぐ左を大角うさぎが通り過ぎ、今までにない風圧も感じた。別のことを考えていた分、大角うさぎとの間隔が狭かったのだろう。
避けられた幸運に感謝だ。
地面は拳骨で殴って固めるのだろうか。私はそう思い、次に大角うさぎが飛んできたら拳骨を叩き込むことにした。
前の大角うさぎに集中しながら、右手に重さ魔法を集めていく。
が、急に殺気がした気がして、思わず後ろに飛び退いてしまった。
右から左に、大角うさぎの巨体が通り過ぎていく。
あの巣穴、二羽目がいたのかと思い、他にもいるのではないかと周囲を警戒した。
だが、今、気配を感じられるのはこの二羽だけだ。
しかし、油断は出来ない。世の中、ムーちゃんではないが、気配を完全に消せる動物なんていくらでもいる。どこかの物陰から、私を仕留める機会を狙っている奴がいるかもしれない。
私は、全方位警戒しているつもりだったが、二羽目の事もあり、ちゃんと警戒が出来ているのか心配になってきた。
だからといって、古川様を置いて逃げるわけにも行かない。
私は、角さえ当たらなければ、狂熊のように気絶させられるのではないかと思い、今度こそ、重さ魔法で右腕から背中、両足にかけて黄色魔法を集めようとした。
だが、集まりが悪い。
そういえば、狂熊の時は狂熊自体が黄色魔法を使っていた。お陰で、狂熊の時は黄色魔法を簡単に集めることが出来た。
私は大角うさぎがどんな魔法を使っているか確認するため、魔力色鑑定で確認してみた。
狂熊と違って、黄色魔法は使っていないようだ。道理で、魔法の集まりが悪い筈だ。代りに、緑魔法を使っているようだった。これが、速さの秘訣なのだろう。
二羽の大角うさぎの動きが止まった。
お互い、次にどう動くか決めかねているのだろう。睨み合いが続く。
私は現状を打破するため、私の使える魔法で、他に役立ちそうな物がないか考えた。
ふと、私が使う着火の魔法は、重さ魔法に由来する珍しい魔法だというのを思い出す。
あれは、重さ魔法を使って周りの空気を圧縮し、温度を上げて燃えやすいものに火を点ける。
あれを空気ではなく、地面に使うとどうなるだろうか。私の予想では、地面に落とし穴が出来るのではないだろうか。
私はそう思い、早速地面に試してみた。
すると、ちゃんと発動させることは出来たものの、落とし穴と呼ぶには穴は浅く、なぜか凹んだ穴の中央がポコリと膨らんでいる。
それでも、竜の巫女様が言っていたのだ。予知でこれから何が起きるか知った上で、あの助言をしてくれたに違いない。
ひょっとすると、浅い穴でも足止めに使えるという事なのだろうか?
私が疑問に思っていると、突然、左斜め前にいた大角うさぎが飛んできた。少し後ろに下がり、通り道に向かって魔法を使ってみる。
が、地面の中を狙ったはずなのだが、位置がずれて地面の上になってしまった。
失敗した!
私はそう思ったのだが、大角うさぎはそこを通る時に転倒し、スコーンといい音がした。
どうも、重さ魔法で足を取られ、大角うさぎの進路が変わって近くの木に激突したらしい。見事、角が木に深々と刺さっている。
私は思わず吹き出しそうになるのを堪えながら、前の大角うさぎに集中した。
また重さ魔法が足にさえ当たってくれれば、次も大角うさぎは転倒し、あわよくば自滅してくれるかもしれない。そして、何度も繰り返せば、そのうち1羽目と同じく木に刺さるに違いない。
私は、これでもう一羽も倒せる算段が付いたと思い、また大角うさぎが飛んでくるのを待った。
が、大角うさぎは私を警戒したまま、左横にある巣穴にジリジリと寄っていった。巣穴に逃げようとしているのだろう。
折角勝法が分かったのに、逃げられてはたまらない。なので、私は大角うさぎを穴から遠ざけるため、前に一歩踏み出した。すると突然、大角うさぎが私に向かって今までで一番の速さで飛び込んできた。
角が刺さる!
私はそう思うと、足がついていかず、後ろに尻餅をついてしまった。咄嗟に、重さ魔法で大角うさぎを下から上に跳ね上げるように使った。
すると大角うさぎが、私の頭上を超えていき、そのまま後方でズンと音がした。
私は後ろを振り返ると、大角うさぎが背中から地面に落ちたようだった。
今なら、拳骨で仕留められるかも知れない。
私はそう思い、慌てて大角うさぎの側に寄ると、拳骨で気絶させることに成功した。
後は、重さ魔法で首の背骨をゴキリと折って、しっかりととどめを刺しておく。
次に、木に突き刺さったやつも、重さ魔法で同じく首の骨を折る。
私は、尚も周りを警戒していると、古川様がやってきて、
「・・・その。
・・・ご苦労さまでした。」
と言ってきた。私は、
「恐れ入ります。」
と返すと、古川様は、
「私が・・・、その・・・、手伝えば一瞬・・・だったけど。
その・・・、巫女様のお言いつけ・・・では、・・・手は・・・出せなくて。」
と言ってきた。そういえば、古川様は人見知りで喋りは上手くないが、歴とした竜人だ。さっき、私は古川様を置いては逃げられないなどと思ってしまったが、冷静に考えれば、古川様は私なんかよりも余程強いに違いない。とすると、先程おどおどしていたのも、私を助けるかどうしするかで迷っていただけという事になる。
私は、置いて逃げられないなどと思っていた事は無かったことにして、
「とんでもありません。
見ていただいているだけで、十分心強かったです。」
と初めから古川様が強いと知っていたふりをして返事をした。
古川様は、
「皮を、・・・その、・・・剥ぐのに、・・・これをお使いください。」
と言って、いつも皮を剥ぐ時に更科さんが貸してくれる物に似た小刀を貸してくれた。
私は、
「ありがとうございます。
助かります。」
と言って、古川様に水を出してもらいながら血抜きや解体をし、皮や角とお肉にした。
内臓は、ちゃんと穴を掘って埋めておいた。
途中、古川様にお肉に【回復】の魔法を使ってもらった。これで寝かせたのと同じ効果が出るに違いない。
古川様は、
「その、・・・そちらで、・・・朝食べる分、・・・その、・・・取ったら、・・・後は全部、・・・その、・・・私達に・・・下さい。
毛皮とか・・・は、・・・私達・・・は、・・・その、・・・立場上、・・・売れません・・・ので、・・・その、・・・全部、・・・お持ち帰り・・・下さって・・・結構です。」
と伝えてきた。私は素材の方は全部もらえると聞き、
「それは助かります。」
と言ってお礼を言った。二羽分のお肉を、自分たちが明日食べる分と残りに分けて近くの熊笹でくるんでいく。
毛皮などは、そこいらの蔦で簡単に纏めて背負えるようにしておく。
私は、
「では、こちらをどうぞ。」
と言って熊笹でくるんだお肉を渡すと、古川様は、
「ありが・・・とう。」
と返事をした。
私は荷物を背負い、
「では、天幕までお送りしますね。」
と声をかけた。が、古川様は、
「・・・その、・・・お気持ちは有り難い・・・ですが・・・。
・・・お答え・・・出来ません・・・ので。」
とよく分からない断り方をしてきた。私は、
「『お答えできない』と言いますと?」
と確認すると、古川様は、
「その・・・、男女・・・の、某・・・。
・・・お誘い・・・ですよ・・・ね?」
と顔を赤らめ聞いてきた。さすがの私も、そう言われれば理解が出来る。
私にそんな気はまったくなかったので、
「いえ。
私には妻もいますし、そう言うつもりではありませんので。」
ときっぱり断ると、古川様は、
「・・・でも、・・・天幕まで行くと、・・・疑われ・・・ます・・・ので。
その・・・、皆様、・・・噂・・・が、・・・その、・・・好き・・・ですので。」
と言った。私は、
「噂ですか・・・。
私も、要らぬ疑いをかけられるのは本意ではありません。
心苦しくはありますが、ここで失礼することにします。」
と言って、古川様を送るのは辞めて、ここで別れてそれぞれの天幕に戻る事になった。
それではと言って挨拶を済ませ、私は天幕に向けて歩き始めた。
戻る道すがら、自然と、笑みが溢れる。
私は、明日の朝食を待ち遠しく感じながら、天幕に戻ったのだった。
作中、山上くんが『お陀仏』と言っていますが、これは勿論、死ぬことを意味します。
お陀仏は阿弥陀仏の略なのだそうで、ご臨終の際に「南無阿弥陀仏」と唱える所から来ているのだとか。江戸時代の終わり頃には使われていたそうで、かの東海道中膝栗毛にも出てくるのだそうです。
・お陀仏
山口佳紀『暮らしのことば 語源辞典』講談社, 1998年, 138頁