第三十三話 疑惑③
「え?」
サリーシャはセシリオの顔を見ようと体を離そうとしたが、セシリオの腕に力がこもり、それは叶わなかった。
「昨日、パトリックと池にいただろう? 望遠鏡を探してて」
サリーシャは驚いて、先ほどより力を込めてセシリオの胸を押した。今度はすんなりと腕が外れる。ゆっくりとセシリオの体が離れ、ヘーゼル色の瞳としっかりと目が合った。
「どうしてそれを……」
「パトリックにさっき聞いた。サリーシャがなくした望遠鏡を探して自分で池に入ろうとしていたと」
「…………」
サリーシャは目を伏せた。
知られないようにあんなにきつい言い方をしてしまったにも関わらず、結局は知られてしまった。
自業自得だろう。
「申し訳ありません」
「いや、それはいいんだ。ラウルが転んだ拍子に落としたのだろう?」
「はい」
サリーシャが頷くと、セシリオの手がサリーシャの手に重ねられた。大きな手はサリーシャのそれを容易に包み込んでしまう。
「ただ、嫉妬した」
「──嫉妬?」
サリーシャはその言葉の意図するところがわからず、セシリオを見つめた。セシリオはふっと視線を下にずらす。
「きみがパトリックには頼ったのに、俺には頼ってくれないのかと嫉妬した」
「閣下……」
サリーシャは驚いて目を見開く。
サリーシャから見ると、セシリオはいつも落ち着いている、穏やかな大人の男性だ。嫉妬などという言葉をセシリオから聞くことになるなどとは思ってもみなかった。
「それに、それだ」
セシリオはサリーシャの唇をなぞるように指で触れた。扇情的なその動作に、サリーシャの胸はドクンと跳ねる。
「サリーシャは、いつになったら俺のことを名前で呼んでくれる? 結婚したらそうなるかと思ったが、ちっとも変わらない。それなのに、他の男、会ったばかりのパトリックのことすら親しげにその名を呼ぶ」
恨めしげに目を細めるセシリオを見つめ返し、サリーシャはなにも言えなかった。セシリオのことを『閣下』と呼んでいたのはいわば癖のようなもので、意図的に名を呼ばなかったわけではない。
「きみが……、俺のような武骨な男ではなくやはりパトリックのような貴族らしい男に惹かれるのだろうかと心乱された」
「……──あり得ません。パトリック様は閣下の甥であり、それ以上でもそれ以下でもありません」
そんなことを思われていたなんて、夢にも思っていなかった。
サリーシャの中で異性としての好意がある男性は後にも先にもセシリオしかいない。
「そんなところでも、俺は嫉妬してる。情けないことに、自分よりも十以上年下の甥に嫉妬したんだ。ここに到着したときに二人が屈託のなく笑い合っている姿を見て、もやもやもした。きみが思うより、ずっと狭小で子どもっぽい男だ」
フッと自嘲的に笑うと、セシリオは唇に触れていた手を離し、サリーシャの頬に添える。
「幻滅したか?」
「いいえ」
サリーシャはゆるゆると首を振る。
幻滅など、するわけがない。いつも完璧な大人の男のようにみえるセシリオの隣に立つことに、及び腰になっていた。けれど、セシリオでもそんなふうに思うのかと知り、むしろホッとした。
「ほんの一年前まで、ひとりでも平気だった。なのに、今はたった半月きみと離れただけで、ひどく寂しく感じた。手紙が届くのが楽しみだった。それに、サリーシャが笑うと疲れが吹き飛ぶ」
セシリオは両手でサリーシャの頬を包み込むようにしたまま、ヘーゼル色の瞳でまっすぐに覗き込んでくる。その瞳は、セシリオの真摯さを表すかのように澄んでいる。
「俺にはきみが必要だ。だから、俺のそばにいろ。俺の妻にふさわしいのは、きみだ」
その瞳を見ていると、色々な気持ちが溢れてくる。
この人が、好きだ。
本当に、心から好きだ。
セシリオが必要なのは、サリーシャの方だ。プランシェ伯爵家の皆がとてもよくしてくれるから気が紛れていたが、本当はとても寂しかった。ずっと会って抱きしめて欲しかった。
──だけど……。
自分のせいでセシリオに迷惑がかかるのではないかということが、どうしても引っかかるのだ。
「でも……」
「でも、はなしだといっただろう? サリーシャは、俺と離縁したいのか?」
「いいえ、したくありません」
サリーシャは真っ青になってぶんぶんと首を振る。
「では、やはりアハマス辺境伯夫人はサリーシャ以外にあり得ない」
少年のように微笑んだセシリオの顔が近づき、軽く唇が触れる。一旦離れて目が合うと、セシリオはいつものように優しくヘーゼル色の瞳を細めて微笑んだ。
「サリーシャ、愛してる」
そのたった一言で、心が喜びに震えた。
落ち込んでいた気持ちがふわりと軽くなるのを感じる。
──わたくしは、こんなにもこの人を欲している。
そのことを、まざまざと知らしめられた。離れるなど無理だ。
そんなことになれば、きっとサリーシャは王宮で刺されて出口の見えない暗闇に突き落とされたと感じたとき以上の絶望に突き落とされるに違いない。
また目の奥が熱くなり、鼻がツーンと痛みだす。
「──本当は、閣下に抱きしめて欲しかったんです」
「ああ」
「閣下に会えなくて寂しかったんです」
「ああ」
「でも、閣下に甘えてしまいそうで……」
「俺はサリーシャを甘やかしたいんだと言っただろう?」
優しく抱き寄せられてすっぽりと包まれると、幸福感がこみ上げてきて抑えていた気持ちが溢れだす。この人が、好きだ。
「わたくしも閣、かっ、んん、セシリオ様を愛しております」
こんな場面で言葉を噛んだサリーシャを見下ろしながら、セシリオは嬉しそうに笑う。サリーシャを包む広い胸板が笑っているせいでくつくつと揺れた。
「もう、閣下! 笑わないで下さいませ!」
「閣下?」
「あ……」
間違えたと思って言いなおそうとしたが、その前に顎に手を添えられて顔を上げさせられる。どちらともなく瞳を閉じるともう一度顔が近づき、お互いの存在を確認するようにゆっくりと、深く唇が重なった。
そして、また顔を見合わせて笑い合う。
「閣、……、セシリオ様。わたくし、失敗ばかりで……。気を引き締めないと、本当にアハマスに泥を塗るようなご迷惑をかけてしまうかもしれません」
またもや言い間違えたサリーシャに、セシリオはくくっと笑う。
「迷惑ではないから大丈夫だ。そもそも、毎年社交パーティーをすべきところを二十年近くしてなかったんだぞ? 少しの失敗くらい、誰も気にしない」
セシリオは一旦口をつぐんで思案するように視線を宙に浮かせる。
「それに、恐らくなのだが……、きみはそんなに失敗をしていないのではないかと思うんだ」
「え?」
サリーシャは訝し気に眉を寄せる。セシリオは自身のポケットに入れていた、最初にサリーシャが作ったというカードを取り出した。
「これは本当にきみが作ったのか? 俺にはどうも違うように見えるが」
サリーシャはセシリオの差し出したカードを手に取った。名前が書いてあるが、綴りが違う。しかし、それ以上に気になったのは文字だ。サリーシャによく似た文字が書かれているが、跳ね方や丸みの付け方が僅かに違う。
「え? なんで……」
サリーシャはそれを見つめたまま呆然とした。
これは自分の文字ではない。けれど、サリーシャは確かにこのカードと同じ氏名を記載したカードを作った。ということは、誰かがカードをすり替えたとしか思えない。
──まさか、レニーナ様が?
出来上がったカードは、レニーナに預けた。
何回かミスを繰り返した注文などもいつも三人で手分けしたものを最後はまとめて使用人に託し、発注していた。やろうと思えば、商店に渡る前に伝票を書き換えることも可能だろう。それに、思い返せば孤児院の慰問にメラニーも一緒について行ったので、用意した籠から物を抜くこともできるかもしれない。
──でも、なんでそんなことを?
レニーナにはそんなことをする理由がない。むしろ、尻拭いが増えて自分の仕事が増すのだ。
そのとき、ふと以前に『いろいろと思い描いていたことはあったけれど、機会を逸してしまったわ』と寂し気に言ったレニーナの顔が脳裏に蘇ってサリーシャはハッとした。
──もしかして……。
真っ青になったサリーシャは、なにも言わずにただセシリオの顔を見つめることしかできなかった。




