第三十二話 疑惑②
部屋で明日に迫った社交パーティーの準備で自分がなすべきことに漏れがないかの最終確認をしていたサリーシャは、ノーラに頼んで温かい紅茶を用意してもらった。フローラルな香りが漂うそれを一口含むと、見ていたノートをパタンと閉じる。そして、自己嫌悪から深いため息を吐いた。
「どうしよう……」
昨日はセシリオにきつい口調で『あなたには関係ない』と言ってしまった。セシリオは驚いたように目をみはり、信じられないものでも見るかのようにサリーシャを見つめた。サリーシャはその視線から逃れるように顔を背けてしまった。
セシリオを傷つけるつもりなどなかった。けれど、望遠鏡を落としたことを知られたくなくて、咄嗟にあのような口調になってしまったのだ。
さらに、部屋まで付き添ってくれたセシリオにお礼も言わずに別れてしまった。礼を失する態度としか言いようがない。
「謝らないと……」
サリーシャは鈍く光る筒を見つめた。王都を訪れたときにセシリオが『きみに贈ろう』と言って選んでくれた大切な望遠鏡──サリーシャの宝物だ。
久しぶりのセシリオとの再会に心は踊るのに、その想いとは裏腹にセシリオとの距離が遠ざかったような気がする。その原因は、全て自分の不甲斐なさにある。
再びハアッと深いため息をついたサリーシャは、机の上に置いてある伝票を手にとった。この伝票は、社交パーティーで使用する装花のものだ。装花は生花を使用するため当日の朝に納入してもらうのだが、手配は事前に行うのだ。
サリーシャはメラニーの下でパーティーの準備を手伝って、色々なことを学んだ。色々とミスもしてしまったが、それはメラニーやレニーナがフォローしてくれた。
──だけど、アハマスに戻ったら……。
色々なことが不安でならない。
自分のせいでアハマス家に恥をかかせるのではないかと思い、怖くなる。
もう一度ノートを開いて見返していると、ドアがカチャリと開いたような音がした。そちらを見ると、ちょうどどこかにいっていたセシリオが戻ってきたところだった。
「閣下、お帰りなさいませ」
サリーシャは立ち上がって出迎える。
セシリオに悪いことをしてしまったという後ろめたさから、顔がこわばってしまう。無理に笑顔を作ったが、不自然ではないだろうか。
セシリオはサリーシャと目と目が合うと柔らかくヘーゼル色の目を細めた。
いつもと変わらぬその反応に、サリーシャはほっと胸を撫で下ろす。そのとき、サリーシャはセシリオが手に持っているカードに気が付いた。
「閣下、それは?」
セシリオはサリーシャの視線に気付き、自分の右手を見る。そして、サリーシャに差し出すようにそれを見せた。
「今日、社交パーティー用の席札を作った? 廊下でレニーナに会って、五枚ほど書き間違えていると言われた」
「え!?」
サリーシャはサッと青ざめた。あれほど注意を払ったのに、また間違えるなんて……。
呆然とするサリーシャを静かに見下ろしていたセシリオは、持っていたカードに視線を移す。
「これは、きみが書いたのか? 材木商のアルナンド=ドナート氏、運輸会社のローランド───……」
サリーシャはセシリオが読み上げるそれらの名前に聞き入った。全て書いた覚えがある名前だから、サリーシャが書いたに違いない。何回も見直したから、しっかりと覚えている。
サリーシャはぐっと唇を噛み締めて俯くと、小さく首を縦に振った。
「そうか……」
セシリオはなにか納得いかないようにカードを眺めていたが、空いている手をサリーシャに伸ばす。急に腕を掴まれたサリーシャは驚いてセシリオを見上げた。ダメだとわかっているのに、自分の不甲斐なさが情けなくて涙が浮かんできていた。
セシリオはサリーシャの顔を覗きこむと、掴んでいた腕を離して顔に手を伸ばした。手を添えると、サリーシャの目尻に浮かぶものを親指で優しく拭った。
「失敗することは誰にでもある」
サリーシャを励ますような、優しい口調。
“失敗することは誰にでもある”
それはわかっているけれど、物事には限度というものがある。サリーシャが答えられずにいると、セシリオはにこりと微笑んだ。
「書き直そうか。姉上にこれの作成を任されたのだろう? 途中で投げ出すのはさすがによくない。今度は俺も書き間違いがないか一緒に確認しよう」
優しく諭すように言い聞かされ、サリーシャはおずおずとテーブルに向かうとペンをとる。セシリオはテーブルを挟んで向かいに置かれていた椅子を移動させると、サリーシャのすぐ隣に座った。そして、カードとノートを見比べながら書くべき名前を読み上げてゆく。
「最初はアルナンド=ドナート氏。綴りは……」
サリーシャはセシリオがゆっくりと読み上げる名を、その通りに書き写してゆく。そして書き終えると、二人で一緒に間違いがないかを確認した。
書き直さなければならなかったカードはたったの五枚だ。二人でやれば確認まですぐに終わった。
「ほら。すぐに終わっただろ?」
セシリオはポンポンとサリーシャの頭を撫でる。いつものように、その触れ方はとても優しい。サリーシャは色々な感情がごちゃ混ぜになり、目の奥がツーンと熱くなるのを感じた。
「……わたくし、失敗してばかりなのです」
しばらくされるがままに頭を撫でられていたサリーシャは、顔を俯かせたまま呟いた。
「……。ほかにはどんな失敗を?」
「三回も注文ミスをしました。メラニー様の孤児院慰問の手土産もいつの間にかなくしてしまいました。全部レニーナ様とメラニー様が尻拭いして下さったのです。それに、今も席札も書き間違えるし……」
「それは……大変だったな。でも、席札は直った。もう大丈夫だ」
「大丈夫ではありません!」
急に体勢を変えてセシリオに正面から向き合ったサリーシャの強い口調に、セシリオは驚いたように目をみはる。サリーシャは、その顔が涙でぼんやりと滲んでくるのを感じた。
「ちっとも大丈夫ではないわ。こんなに失敗ばっかりするなんて……。メラニー様に言われたのです。わたくしがしっかりしていないとアハマスに泥が塗られる。閣下が恥をかくと」
セシリオはサリーシャを見つめながら、僅かに眉を寄せる。
「あまり酷いようなら、子ができないうちに閣下にわたくしはアハマス辺境伯夫人に相応しくないと進言しなければならないと言われました」
その瞬間、セシリオは見たことがないくらい怖い顔をした。
かつてサリーシャが夜にアハマスの屋敷を飛び出したときと同じくらい、いや、それ以上に怒っている。
「サリーシャ」
セシリオが低い声で呼びかける。サリーシャはビクンと肩を揺らした。
「俺の妻に相応しいかどうかは俺が判断する。姉上ではない。それに、俺は結婚する前にサリーシャだから妻にしたいのだと伝えたはずだ。忘れたのか?」
「いいえ。忘れてなどおりません。でも……わたくしが閣下と一緒にいると、閣下に迷惑をかけるかもしれません」
「でも、ではない。迷惑などかからないと言っているっ!」
いつにない強い口調に、サリーシャは恐怖を覚えて体を強張らせた。セシリオがサリーシャに対して怒ったことなど、結婚してから一度もなかった。
「それとも、やっぱりパトリックのような優しい貴族風の男がよかったのか?」
「なにを……」
なにを言っているのか意味がわからない。なぜここでパトリックの名が出てくるのか。
怒っているはずのセシリオは、なぜかひどく傷ついたような目をしてサリーシャを見つめる。そしてサリーシャの背に手を回して抱き寄せると、肩に顔を埋めた。
「俺は、きみが思うほど優れた男ではない」
くぐもった低い声が、耳元で聞こえた。




