第二十九話 望遠鏡②
サリーシャはラウルをつれて、すぐに屋敷の医務室へと向かった。軍事的な要塞及び訓練施設も兼ねるアハマスの領主館には常時複数人の医師達が勤務しているが、プランシェ伯爵邸は違う。医学の知識がある看護師が見てくれたところ、幸い手のひらを少し擦りむいだけで、他には大きなけがはなかった。
──よかった……。
サリーシャはホッと胸を撫で下ろした。しかし、安心するのと同時に頭の中を占め始めたのは、やはり先ほど落とした望遠鏡のことだった。
──早く探しにいかないと。
なくすなんて、あり得ない。あれはセシリオから贈ってもらった、サリーシャの大切な宝物だ。たとえ壊れていたとしても、絶対に回収したいと思った。
手当を終えたラウルを部屋まで送って後のことをルーリィに任せると、サリーシャはすぐに先ほどラウルが転んだ辺りに戻った。
周囲の草の茂みを手でかき分け、丹念に探す。そのせいで、ドレスの袖は泥がついてどろどろに汚れてしまった。
「どこにもないわ……」
サリーシャは途方にくれた。
これだけ探してないのだから、やはり池に落ちたと考えるのが自然だ。
池の中を覗き込むと、灰色の小魚がゆったりと泳いでいるのが見えた。水底が透けて見えており、深さは五十センチくらいだろうか。そこまで深くはなさそうだ。
サリーシャは目を凝らし、川底の端から端まで視線を移動させてゆく。この池のどこかに、サリーシャの宝物があるはずなのだ。
どれくらいそうしていただろうか。
サリーシャは川底の一点に、鈍く光るものを見つけて目を凝らした。深さはさほどないのだが、少し距離がある上に水もやや濁っているせいで、はっきりとは確信が持てない。
──なにか、棒はないかしら?
周囲を見渡して、ちょうどよい長さの木の枝を見つけたサリーシャは、それを手に握った。こちらにその鈍く光るものを引き寄せようと試行錯誤したが、なかなか上手くいかない。
「やっぱり、入るしかないわね」
サリーシャは右手をそっと伸ばして池の水に触れる。まだ暖かさが残る季節なこともあり、さほど冷たくはない。
意を決してサリーシャは靴を脱ぎ、スカートをたくしあげた。いざ足を踏み入れようとしたところで「サリーシャ様!」と声をかけられて、サリーシャはビクンと肩を揺らした。恐る恐る振り返ると、すぐ近くでパトリックが怪訝な表情を浮かべてこちらを見つめている。
「……なにをしているの?」
そう訊きながら、パトリックはバツが悪そうに視線をサリーシャから外す。サリーシャは自分の姿を見下ろし、慌ててスカートを整えた。膝から下の素足が丸見えだ。こんな姿、夫以外には見せてはいけない。
「──その、窓からサリーシャ様がしゃがみこんで、ずっとここでなにかをしているのが見えたから」
サリーシャがスカートを直すと、パトリックはサリーシャの方を向いて言い訳するように説明する。頬はまだ赤らんだままだ。
サリーシャは気が沈むのを感じて目を伏せた。
「お見苦しいところをお見せしてしまい、申し訳ありません。──実は……」
サリーシャはポツリポツリと事情を話し始める。一通りの話を聞き終えたパトリックは、池の方を見た。そのまましばらく静かに池を見つめていたが、ゆったりと片手を上げて一点を指差した。
「サリーシャ様が言っているのは、あれのことかな? あの少し大きめの岩の手前の──」
サリーシャはパトリックの指差す方向を見た。視線の先には、サリーシャがもしかしてあれではないかと思った、鈍く光るものがある。
「そうです」
「よし、わかった。ちょっと待ってて」
そう言うとパトリックは靴も脱がずに、なんの迷いもなく池へと足を突っ込んだ。
「パトリック様! なにを!」
「さすがに僕もこの距離は手が届かない。すぐに取ってくる」
「でも、濡れてしまうわ。服も汚れてしまいます」
「うん。だから早く取ってくるよ。もう濡れてるから、今上がっても同じだよ」
パトリックは苦笑すると、じゃぶじゃぶと池の中に足を進める。目的の場所に辿り着くと腰を屈めて片手で川底を探り、立ち上がってサリーシャの方を振り返った。
「サリーシャ様。これかな?」
片手を顔の横の辺りに上げてこちらを向いて微笑むパトリックの手には、銀色の筒が握られていた。
間違いない。サリーシャの宝物だ。
頷くサリーシャを見て、パトリックは笑顔でこちらに戻ってきた。
「はい。どうぞ」
コロンと手のひらに乗せられた望遠鏡はびしょ濡れだし泥も付いていたが、ぱっと見た限りでは壊れてはいないように見える。
「ありがとうございます」
サリーシャは思わず涙ぐんだ。大切な宝物が戻ってきたことも嬉しかったし、パトリックの優しさもとても嬉しかった。
「びしょびしょだ」
パトリックが自分の姿を見下ろして苦笑する。サリーシャは慌ててパトリックに持っていたハンカチを手渡したが、そんなものではどうにもならないほどの濡れ具合だ。
「すぐに戻りましょう」
「うん、そうするよ。風呂に入りたいかな」
明るく笑ってくれるパトリックの気遣いが身に染みる。
「足は平気ですか?」
「うん。最近すごく調子がいいんだ。サリーシャ様のおかげだね」
「パトリック様の頑張りのおかげですわ」
そんな他愛のない話をしながら並んで屋敷へと歩き始めると、視線の先の玄関が開いて人が出てくるのが見えた。
「あ、叔父上だ」
パトリックが呟いた時、サリーシャは表情を強ばらせた。せっかく贈って貰ったプレゼントを池に落としたなど、セシリオには絶対に知られたくなかった。
「二人の姿が見えたから来てみたのだが……。サリーシャ、パトリック、いったいどうしたんだ?」
びしょ濡れのパトリックと袖を泥で汚したサリーシャの姿に、セシリオは困惑したような表情を浮かべる。「実は……」とパトリックが話し始めたとき、サリーシャはとっさに話を遮った。
「なんでもございません。閣下には関係ありませんわ」
自分でも驚くほど、大きな声が出る。パトリックはびっくりして目を丸くしていた。
「──サリーシャ?」
こちらを見つめるヘーゼル色の瞳が戸惑うように揺れたのに気付いたが、サリーシャはその視線から逃げるように目を反らした。
その日の晩、セシリオは久しぶりにジョエルと酒を飲み交わしていたため、夜が遅かった。セシリオには先に寝ていてよいと言われたが、ちっとも眠くならない。
セシリオがプランシェに来てくれた。
それはサリーシャにとって、嬉しくもあり、怖くもあった。
話したいことはたくさんあるのに、セシリオに優しくされると甘えて弱音ばかりを吐いてしまいそうな気がするのだ。それに、昼間のことを訊かれたらどう答えればいいのか、考えがまとまらない。
時計を見ると、時刻は既に夜の十一時を過ぎていた。
サリーシャは広いベッドに一人で潜り込むと、目を閉じる。けれど、意識は冴え渡り、一向に眠気はやってこない。窓の外でミミズクが鳴く声が、はっきりと聞こえた。
一時間近くそうしていただろうか。ふいに、背後の部屋のドアがカチャリと開く音がした。
「サリーシャ?」
ベッドの端に外側を向くように横になっていたサリーシャは、小さな呼び掛けが聞こえたが瞳を閉じたまま寝た振りをした。
「さすがにもう寝たか……」
少しがっかりしたような声が聞こえる。なにか作業するような物音がしばらく続いたあと、ベッドがぎしりと鳴り、頬に柔らかな感触が触れる。
「お休み、サリーシャ」
しばらくすると、背後から規則正しい寝息が聞こえてきた。サリーシャがくるりと寝返りを打つと、セシリオはサリーシャに背を向けるように寝ていた。サリーシャは恐る恐る手を伸ばす。
──あったかい……。
広い背に触れると、じんわりと体温の温かさが伝わってくる。両手と額をセシリオの背にくっつけるようにぴったりと寄り添うと、とても安心する。
さっきまでちっとも眠くならなかったのに、あっという間に意識は薄れていった。




