第二十八話 望遠鏡
上質なカードにペンを走らせていたサリーシャは、その一枚を書き終えて手を止めると、ハァっと深いため息を吐いた。
待ちわびていたセシリオがプランシェ伯爵邸に到着した。
ずっと会いたいと思っていた。誰よりも会いたかった。だから、本当は周りの目も気にせずにその胸に飛び込んで、優しく抱きしめて欲しかった。──けれど、周りの目が気になって、なによりも、自分は本当にセシリオの妻に相応しいのだろうかという自信の喪失から、素直にそうすることが出来なかった。
さきほどの、部屋でのセシリオの表情が脳裏によみがえる。
優しく微笑んでこちらに手を伸ばしたセシリオの手を避けるようにサリーシャが後ずさると、セシリオの表情はサッと強張った。そして、その手はそれ以上こちらに伸びてくることなく宙で緩く握られ、ゆっくりと下ろされる。
その後、セシリオは何事もなかったかのように振る舞い、ジョエルの元へ改めて挨拶へ行ってしまった。
触られるのが嫌なわけではない。
セシリオから触れられるのは、いつだって胸が高鳴って幸せな気持ちになる。
けれど……、怖かったのだ。
あそこでセシリオに触れられたら、色々な想いが溢れてその胸に飛び込んで泣いてしまいそうだった。そして、自分はまた彼の優しさに甘えてしまうのではないかと思った。
サリーシャはゆるゆると首を振る。
──メラニー様に頼まれた最低限のことですらできないわたくしに、セシリオ様に甘える資格などないわ。
寂しい気持ちに蓋をすると、気を取り直して新しいカードに手を伸ばす。手元のノートに書きしたためられた社交パーティの参加者リストを見ながら、丁寧に名前を書き写していった。
サリーシャが今作っているのは社交パーティの晩餐会で座席に置くための席札だ。
今度こそミスをおかしてはならない。サリーシャは書き終えたそのカードの綴りとノートの綴りをもう一度見比べて一文字も間違っていないことを確認すると、そのカードを端に寄せる。その単調作業を延々と繰り返し、席札を仕上げていった。
全てのカードを作り終えたサリーシャは最後にもう一度間違いがないかの確認をした。一枚一枚手に持ち、順番にノートと見比べる。
「よし。大丈夫ね」
これだけ注意深く確認したのだ。今度こそ間違いないと、サリーシャは満足げにノートを畳む。
ちょうどそのとき、トントンとドアをノックする音がした。「どうぞ」と応えると、ゆっくりとドアが開く。
「サリーシャ様。席札は作り終わったかしら?」
ドアの隙間から顔を出したレニーナがこちらを窺うように見つめる。
「はい、終わりましたわ。これです」
サリーシャは笑顔で頷くと、作りたての席札のカードの束をレニーナに見せる。レニーナも「よかった」と笑顔をみせた。
「では、ローラ様の分とわたくしの作った分とまとめておきたいからそれは預かっていいかしら?」
「もちろんですわ。ありがとうございます」
サリーシャは席札を全てトレーに乗せると、そのトレーごとレニーナに手渡す。レニーナはそのトレーを両手で持つと、会釈して部屋を後にした。
その姿を見送ってからサリーシャが部屋のドアを閉めると、すぐにまたトントンとドアを叩く音がした。
「? なにかいい忘れでもあったのかしら?」
レニーナが戻ってきたのだと思ったサリーシャがドアを開けると、そこから飛び込んできたのはラウルだった。
「サリーシャ様! 僕、お外に行きたいんだけど、行ける?」
「お外ですか? いけますよ」
「よかった! ねえ、サリーシャ様。あれを持って行ったらダメ? この前使った……」
こちらの機嫌を窺うように上目遣いにボソボソと喋るラウルの様子に、サリーシャはすぐにピンときた。
「望遠鏡ですか? では、持って行きましょう」
「やったぁ!」
サリーシャがにこりと微笑むとラウルは大げさなくらいに大喜びした。そして、セシリオと同じヘーゼル色の瞳を嬉しそうに細めてサリーシャを見上げる。
「僕、ルーリィと先に下で待っているから、サリーシャ様もすぐにきてね」
「はい、かしこまりました」
サリーシャはにっこりと微笑んだ。
自然豊かなプランシェ伯爵邸の庭園には、様々な小動物や小鳥が現れる。先日庭で遊ぶのに付き合ったとき、サリーシャはふと思いついて持参した望遠鏡を持って行ったのだ。ラウルは初めて使うそれをいたく気に入り、その日一日ずっと筒を覗いたまま離さなかったほどだ。
サリーシャは持参した荷物の中から赤いベルベットの袋を手に取ると、中から望遠鏡を取り出した。金属製の装飾が施されて鈍く光るそれを、大切に胸に抱くと、いそいそと庭園へと向かった。
***
サリーシャが庭園へと向かうと、ラウルはいつぞやのように地面をほじくって遊んでいた。しゃがみ込んだラウルのことを侍女のルーリィが静かに見守っている。近づくと、地面に落ちた小枝や葉が折れるパキンという音が鳴る。その音でサリーシャが来たことに気付いたラウルは、笑顔で駆け寄ってきた。
「サリーシャ様、持ってきた?」
「はい。持って参りましたわ」
サリーシャはラウルに望遠鏡を手渡す。ラウルは目を輝かせてその筒を握りしめた。
「どこかに小鳥はいないかな?」
「あちらに何羽かとまっておりますわ」
サリーシャは少し離れたところに生えた大きな木の上を指さす。羽は黒く、胸のあたりは白い鳥がとまっているのが見える。
「本当だ」
ラウルは頬を紅潮させて早速望遠鏡を持ち直し、それを覗き込んだ。よく見えるのか、覗いたまま口元は笑みを浮かべている。
しばらく観察を続けていたラウルは、望遠鏡を目元から離すとサリーシャの注意を引くようにスカートの端を引く。
「サリーシャ様、あっちに行こう」
すぐにひとりで走り出したラウルを、サリーシャは追いかける。
そのときだった。
目の前でラウルが勢いよく転び、前に倒れた。
土から張り出した木の根に足を引っかけたのだ。それと同時に、前方の池からポシャンという音がして、水紋が広がる。
「ラウル様!」
サリーシャはサッと青ざめてラウルに駆け寄った。ルーリィも慌てた様子で駆け寄ってくる。
ラウルを助け起こすと、その瞳にはいっぱいの涙が浮かんでいた。
「どこか痛いですか? 怪我は?」
サリーシャはルーリィと共にラウルの体の状態を目視で確認する。膝のあたりが土でドロドロになっているし転んだ拍子に手をついたせいで手のひらからは僅かに血が滲んでいた。大きな怪我はないように見えるが、もしかしたら膝も擦りむいているかもしれない。
「手のひらを怪我しています。お洋服も変えないと。手当に戻りましょう」
「……うん」
痛みに耐えるように目に涙を浮かべたまま口元を一文字に結んでいたラウルは、ふと自分の両手を見つめて表情を強張らせた。
「サリーシャ様、僕……」
サリーシャはその様子にハッとして辺りを見渡す。どこにも望遠鏡がない。きっと、転んだときに落として転がっていったのだ。
「ごめんなさい……」
「後で探すから大丈夫ですよ」
サリーシャはラウルを安心させるようにしゃがんでその顔を覗くと、何事もなかったかのようににっこりと微笑みかけた。ラウルは不安そうにサリーシャを見つめ返してきたが、ホッとしたように息を吐いた。
「さあ、戻りましょう」
「うん」
サリーシャはラウルの背に手を添えながら、もう一度後ろを振り返る。
目を凝らしたが、見える範囲には落ちていない。
──せっかくセシリオ様からいただいたのに、どうしよう……。
平静を装っていたサリーシャだったが、内心ではいいようのないほどにショックを受けていた。




