第ニ十三話 既視感
ワン、ツー、スリーという掛け声に合わせて、ステップを踏む。たどたどしかった足の動きは、数日もしないうちにスムーズになる。するとそれは自信に繋がり、更に動きが滑らかになる……。
「とてもお上手ですわ」
「ありがとう。サリーシャ様が上手いからだね」
誉められたパトリックは嬉しそうにはにかむ。
「あら、お兄様。その言い方はわたくしが下手くそみたいな言い方だわ?」
「そんなことは言ってないだろう」
横で二人の様子を眺めていたローラが口を尖らせると、パトリックは呆れたように肩を竦める。そして、その場にいた皆がどっと笑いに包まれた。
パトリックのダンスの腕の向上は目覚ましかった。
最初こそ恥ずかしがってサリーシャをホールドするのにも顔を赤くしていたが、一週間経った今ではそれもなくなった。もともと練習していたことや若さゆえの回復の早さも手伝い、サリーシャも驚くほどの上達ぶりだ。まだ長い時間は踊れないが、踊っている姿だけを見れば足を痛めていたとは思えない。
「サリーシャ様と兄上は恋人同士みたいに様になってたよ」
「こらっ、からかうな。それに、サリーシャ様は叔父上の奥方だぞ」
にこにこするラウルに、パトリックが眉を寄せて注意する。ラウルは注意されてふて腐れたような顔をしたが、すぐに笑顔になるとサリーシャのもとに寄ってきた。
「サリーシャ様。もうダンスの練習はおしまいでいいでしょ? 外に遊びに行こう」
「ラウル。サリーシャ様はわたくしとお茶をする約束なのよ」
「姉上はさっきもサリーシャ様と一緒だったじゃないか。ずるいよ」
「さっきまではお母様のお手伝いをしていたのよ。時間に入らないわ。それに、ラウルのところにはそろそろ家庭教師の先生が来る時間よ」
「ええー」
腰に手を当てるローラを見上げ、サリーシャの右手を握っていたラウルががっかりしたような声をあげる。セシリオから聞いていたとおり、三人の子ども達はいつもとても賑やかだ。
「ラウル様。では、お勉強のあとにお外に行きましょう。きちんと終わらせて下さいね」
「本当? 約束だからね」
「はい、約束です。お茶が終わったらお部屋に伺います」
サリーシャが笑顔で小指を差し出すと、ラウルも笑顔で小指を絡めてきた。
お茶会では、ローラとレニーナとお喋りに花を咲かせた。特にローラは社交界にデビューするのが今から楽しみで堪らないようで、しきりにその話をレニーナやサリーシャに聞きたがる。
「舞踏会では男性にダンスに誘われるのでしょう? 楽しみだわ」
「はい、そうですわね。王宮のダンスホールは壁や天井に宮廷画家達の素晴らしい絵が飾られ、とても素敵なのです。好きな人と二人で優雅にダンスを踊れたら、素晴らしい時間になると思います」
「そうよね? わたくし、未来の旦那様に王宮舞踏会でダンスを申し込まれたいわ」
憧れに満ちた瞳で宙を見つめるローラに、サリーシャも頷く。
セシリオと踊ったとき、サリーシャはとても素敵な時間を過ごせた。あの逞しい腕でホールドされると、全てを包まれたかのような錯覚に陥り、世界がセシリオ一色に染まったような気すらした。
「サリーシャ様とお兄様もさっき素敵でしたわ。お兄様、わたくしやレニーナ様と練習するときは無表情なのに、サリーシャ様と踊るときは楽しそう」
「相手が変わると気分も変わりますから」
「そうなのかしら……」
ローラは小首を傾げて人差し指を口元に当てていたが、ふいに顔をあげた。
「ねえ、サリーシャ様はお兄様のことどう思う?」
「パトリック様のこと? 素敵な男性だと思いますよ」
「ふうん」
「きっと、たくさんのご令嬢がパトリック様からお誘いされることに憧れますわ」
それを聞いたローラはとても嬉しそうに表情を明るくする。兄を褒められて、悪い気はしないのだろう。
静かに会話を聞いていたレニーナが持ち上げたティーカップからは、白い湯気が上っていた。
***
サリーシャがラウルの部屋を訪ねると、待ち構えていたラウルはサリーシャのもとに一目散に駆け寄ってきた。
「ラウル様、お勉強は終わりましたか?」
「終わったよ。ほら、見て」
ラウルはサリーシャの手をぐいぐいとひくと、部屋の奥のテーブルへと連れてきた。そこに置かれたノートには、びっしりとお勉強した形跡がある。
「本当だわ。ラウル様は凄いですわね」
「でしょ? 遊びに行ける?」
「行けますよ」
サリーシャがそう言い終わるか終わらないかというタイミングで、ラウルが部屋を飛び出す。
「ラウル様、待って!」
サリーシャは慌ててその姿を追いかけようとした。既にラウルの姿は廊下の端まで遠ざかっている。
──速いわ!
あまりの素早さに脱帽してしまう。これはあの年配の侍女が外に行ってはいけないと止めた理由もわかる。まだ十代のサリーシャですら追いかけるのが大変だ。
スカートの裾を持ち上げて小走りで追いかけると、廊下の角、階段の手前あたりで「ラウル!」と叱る声が聞こえてきた。
「廊下や階段を走ってはいけません。何度も同じことを言わせないで」
「母上、ごめんなさい……」
急いでそちらに向かうと、ラウルがメラニーに叱られていた。ちょうど走っている最中に、メラニーに遭遇したようだ。シュンと項垂れるラウルを見て、サリーシャはとっさにそこに飛び出した。
「申し訳ありません、メラニー様。ラウル様はわたくしと遊ぶ約束をして待たされていたので、少々興奮していたのです」
メラニーは突然現れたサリーシャを見ると、目を眇る。
「興奮していたらこの行為が正当化されるとでも? ラウルが興奮していたのならば、大人のあなたが嗜めるべきではなくて? 誰かとぶつかって大怪我でもしたら大変なのよ?」
「……申し訳ありません」
サリーシャはぐっと唇をかんで頭を垂れる。メラニーの言うことはすべて正論であり、言い返す余地もない。
メラニーははあっとため息を吐くと、「以降は気をつけて」と言ってその場を立ち去った。サリーシャとラウルはその後ろ姿を見送ってから、どちらともなく顔を見合わせた。
「サリーシャ様、ごめんなさい」
小さく呟いてしょんぼりとするラウルの顔を、サリーシャは屈んで覗き込んだ。
「いいえ、メラニー様の言うとおり、わたくしがラウル様をしっかりと見ておくべきでした」
小さな手をとると、そっと包み込む。
「ラウル様。お外に遊びに行きましょうか?」
「いいの?」
「もちろんです。その約束ですわ」
にこりと微笑むサリーシャを見て、ラウルはぱぁっと表情を明るくする。
「サリーシャ様が本当のお姉様だったらよかったのに」
「ローラ様とレニーナ様がいらっしゃいますわ」
「でも、いつかお嫁に行っていなくなっちゃうんでしょ?」
サリーシャはぐっと言葉に詰まったが、すぐに優しく微笑みかけた。
「そのときには、きっと新しいお姉様がいますわ」
「新しいお姉様?」
ラウルはヘーゼル色の瞳で不思議そうにサリーシャを見上げる。サリーシャはラウルを見返してにこりと笑う。
「そうです。パトリック様がご結婚したら、その奥様はラウル様の新しいお姉様ですよ。それに、わたくしも時々遊びに来ますわ」
そう言ってから、サリーシャは前を向く。さきほどのメラニーの少し張ったような凛とした口調が脳裏によみがえる。
──どこかで、聞いたことがあるような……。
既視感のようなものを覚え、記憶を辿る。しかし、どこで聞いたのかが思い出せない。ここに来てから人を叱りつけるメラニーを見るのは初めてなのだから、気のせいだろうと思い直した。




