第十七話 出発前夜
プランシェへ出発する前日となるこの日、サリーシャは侍女達とともに荷物の最終確認をしていた。
開いたトランクに詰められていくのは普段使いのワンピースに靴、鞄、化粧品などの日用品。それに、社交パーティー用のドレスもいるし、アクセサリーだって必要だ。セシリオに手紙を書きたいから少し可愛い便箋も用意しなければならないし、お世話になるプランシェ伯爵家の面々へのお土産も入れなければならない。
サリーシャが見守る中、クラーラの指示のもとそれらの荷物を侍女達が次々とトランクへ詰めてゆく。既に大きな旅行用トランクは三つ目が満杯になりつつあった。
「随分とたくさんなのね」
サリーシャはその荷物の量を見て、目を丸くした。思った以上に多い。
先日王都に行った際もかなりの荷物の量だったが、今回もあまり変わらないかもしれない。日程は短いが、お土産を詰めたせいだろう。
その三つ目のトランクに荷物が詰め終わると、クラーラは持ち物リストのチェックが全て付いているかを確認し、満足げに頷いた。
「奥様、荷物の整理が終わりました。トランクを閉めてしまってよろしいですか?」
サリーシャも手元のメモを見ながら、もう一度忘れ物がないかをチェックする。そして、ふと思い出して慌ててもうひとつ所持品を追加した。精緻な模様が施された金属製の筒を赤いベルベットの袋に入れ、荷物の一番上にコロンと置いた。
「なにかお忘れでしたか?」
「望遠鏡よ」
「望遠鏡?」
「ええ。帰りにどこか立ち寄ろうとセシリオ様から誘われたの。持っていけば役に立つかと思って」
「あぁ、それはようございますね」
嬉しそうにはにかむサリーシャに、クラーラはにっこりと笑いかけた。
その晩、サリーシャはセシリオとのしばしの別れを前に、夫婦水入らずの時間を過ごしていた。サリーシャの隣にゆったりと腰をかけていたセシリオは、持っていたブランデー入りのグラスをクルリと回す。琥珀色の液体が揺れ、あたりに芳醇な香りがふわりと漂った。
「いよいよ明日か。ちゃんと準備は終わっている?」
「はい。今日の昼間に皆に手伝ってもらって終わらせました」
「そうか。──きみを行かせるのは……少々寂しいな」
落ち着いた、けれど寂しげな口調でそう言われ、サリーシャの胸はトクンと跳ねる。
「──閣下も、わたくしと離れるのは寂しいと感じてくれるのですか?」
「もちろん。本当はきみのことを遠くなどに行かせず、俺だけの隣で慈しんでおきたいのだがな……」
セシリオに困ったように微笑まれ、サリーシャは胸の前でぎゅっと手を握った。
まただ。そんなふうに言われると、弱い自分はつい甘えたくなってしまう。けれど、すぐに、それではいけないと思い直した。『アハマス閣下もお気の毒に……』という、フィリップ殿下の結婚式の舞踏会でご令嬢達が話していた内容が脳裏によみがえる。
──だめよ。わたくしはセシリオ様の隣に立って恥ずかしくない辺境伯夫人になりたいのだから。
そう自分に言い聞かせると、覗き込むようにこちらを見つめるセシリオを見つめ返し、サリーシャはふるふると首を横に振った。
「わたくしも閣下と離れるのはとても寂しいです。けれど……、閣下に守られてばかりいると、わたくしはすぐに甘えてしまう」
「守ってやりたいし、甘えさせてやりたいと思っている」
「いけません、閣下。わたくしがいつまでも半人前だと閣下の負担が増すばかりでなく、まわりの方にまでよくない印象を与えます。それは結果的に、閣下が嘲笑されることと同じになるのです。わたくしは、閣下の隣に立って恥ずかしくない自分になりたい」
しっかりと瞳を見つめてそう言うと、セシリオはサリーシャを静かに見つめ返した。そのまましばし無言で見つめあっていた二人だが、先にフッと口元を緩めたのはセシリオだった。
「きみの気持ちはよくわかっているつもりだ。だが……、姉上はアハマスの軍人達に囲まれて育ったせいか、女性にしては厳しいところがあるかもしれない」
「甘ったれたわたくしには好都合です。しっかりと勉強してまいります」
「そうか……」
セシリオは目を細めると空いている腕をサリーシャの肩に回し、その髪を優しく撫でた。剣とペンを握り続けるため豆だらけになった、この大きな手で撫でられるのが、サリーシャは大好きだ。宝物のような優しい触れ方に大切にされていると感じ、とても安心できるから。
しばらくされるがままに身を任せていたサリーシャは、ふとセシリオを見上げた。明日からしばらく会えないと思うと、やっぱり寂しい。サリーシャは目に焼きつけるように、その高い鼻梁のすっきりとした横顔をみつめた。
「あの……閣下、行く前のお願い事をしても?」
「お願い事? なんだ?」
セシリオは僅かに首を傾げたが、サリーシャが言い出しやすいようにと微笑んでくれた。
「今夜はたくさんお喋りしたいです。それに、朝までちゃんと傍にいてください。その……、しばらく会えなくなってしまうから」
おずおずとサリーシャがそう告げると、セシリオは驚いたように目をみはる。
セシリオはどんなに忙しくとも朝夕食時とサリーシャが眠る頃には屋敷の居住棟へと戻ってくる。しかし、日によってはサリーシャが寝たあとに、こっそりと隣の私室へ仕事のために戻っていることに、サリーシャは少し前から気付いていた。領地を不在にしていることが多く、仕事が溜まっているのだろう。
「気付いていないと思っていた」
セシリオはバツの悪さを隠すように苦笑いする。
「気付きますわ」
「そうか。もちろん、その希望はきこう。──なにかお喋りしたいことが?」
「そうですわね。プランシェはどんな場所ですか」
「自然豊かな地域だ。王都に行く途中、森林地帯を抜けるだろう? あの一帯がプランシェだ」
サリーシャはアハマスと王都を往復したときに見た景色を思い浮かべた。確かに、森林地帯が広がっていた。
「ジョエル様とメラニー様のお子様達はどんな子達ですか?」
「そうだな……、一番上は前にも話した通り、きみとほとんど歳が変わらない。最後に会ったのは一年くらい前だが、しきりに剣と銃撃を教えろとせがんできた。伯爵位を継ぐ自覚からか、とても正義感の強い子だ。二番目は女の子で──」
セシリオが話す内容に、サリーシャは相づちを打ちながら聞き入った。
まだ会ったこともないのに、こうして聞いていると自分も知り合いのような気がしてきて、会うのがとても楽しみだ。
ローテーブルに置かれたグラスへとセシリオが手を伸ばし、体が一旦離れる。触れていた場所から心地よい温もりがなくなり、サリーシャは一抹の寂しさを覚えた。
グラスの中のブランデーがゆるりと揺れると再び芳醇な香りが辺りに漂い、コクりとセシリオの喉が上下する。サリーシャはじっとその様子を見守ってから、待ちわびたようにこてんと頭をセシリオの肩に預ける。
頭上からフッと小さな笑い声が漏れ聞こえ、また優しく髪を撫でられる感覚がした。




