第十六話 協定
アハマスの領主館にある執務室で、セシリオは待ちわびていたものが届いたと確信して口の端を上げた。大きめの封筒を裏返すと、そこには予想通り封蝋が施され、プランシェ伯爵家の紋章が押されいる。
執務机からペーパーナイフを取り出し封を切ると、中からは二枚の上質紙が出てきた。二枚とも内容が同じであることを注意深く確認してからペンを取り出すと、それらの一番下の空白に丁寧に『セシリオ=アハマス』とサインを書きしたためた。
ちょうど書き終えたタイミングでコツコツと扉をノックする音がして、モーリスが入室してきた。
「入るぞ」
「ああ。返事を聞く前にもう入ってるだろ」
「まぁな。来期の兵士と武器の配備計画表を持ってきた」
モーリスはそう言いながら、セシリオの執務机に書類の束を置く。置かれた僅かな衝撃で、小さなビンに入ったペンのインクが波紋を描きながら揺れた。
「もうそんな時期か」
セシリオは置かれた書類をみて、誰にいうでもなく独りごちる。
サリーシャが初めてここに来てから、そろそろ一年が経とうとしている。
「なにか例年と比べて変わりはあるか?」
「特には。ただ、ここ数年ベテラン兵士の引退が増えてきているから、来期は若手をもっと増強した方がいいかもな」
「そうか」
セシリオはモーリスの持ってきた書類をぱらぱらと捲りながら相づちを打つ。
兵士はその任務の特性上、平均年齢が低い。大体十代後半から三十代後半までが中心となっている。それ以上の年齢になると一部はそのまま軍に残って若手の指導役になるが、ほとんどの者は辞めて別の仕事──例えば金持ちの屋敷の用心棒だったり、町中の剣術教室だったり、場合によっては全く別の道を進むこともある。
ダカール国との関係が悪くなり始めたのがちょうど十年くらい前だから、その頃に大量に増員した兵士達の一部が引退の時期を迎えているのだろう。
一方、モーリスは執務机の上で乾かしている書類に気付き、それを覗き込んだ。
「例のものが来たのか?」
「ああ。これで一気に制圧できればいいのだが。少なくとも、これまでのように捕獲目前で手出しできなくなって泣きをみることはなくなる」
セシリオはようやくインクが乾いた書類を一枚手に取り、頷いた。
今日届いたこの書類は、アハマスとプランシェの協定書だ。
窃盗団の一味がアハマス軍の追っ手から逃れるためにプランシェ伯爵領に逃げ込むことは以前から問題になっていた。
セシリオは王都で義兄のジョエルに会った際に、そのことを相談した。そして会談の結果、治安維持のために犯罪者を追う場合に限り、お互いの領地を越えてその権限を施行できるような協定書を締結することで合意したのだ。
この協定があれば、今までは目前で捕り逃して逃走する様を指を咥えて見ているしかなかった窃盗団を、そのまま追跡できるようになる。
書類の上部には金の鷹を模した意匠が描かれ、全体を蔦が取り囲むような模様が施されていた。そのうちの一枚を、セシリオは丁寧に厚紙に挟み、執務室の鍵のかかる書類棚にしまった。そして、残ったもう一通も厚紙に挟み、これが届いた時と同じくらいの大きさの封筒に折れないように仕舞うと、蝋を垂らして家紋を押した。ドンッという音が執務室に響く。
「こっちはプランシェ伯爵領の控えだ。早馬で届けさせてくれ」
「わかった」
セシリオはしっかりと封蝋が施されていることを確認すると、その封筒をモーリスに手渡した。
「ちょうど来月にはサリーシャがプランシェに行く。俺もサリーシャを迎えに行きがてら姉上の主催する社交パーティーに参加するつもりだから、帰りにデニーリ地区も視察してくる。アルカン殿から直接、治安維持隊の派遣や今回の協定の効果を聞きたいしな」
「ああ、そうだな」
モーリスは同意するように頷くと、一拍を置いて何かを言いたげにセシリオを見つめてきた。セシリオはその視線に気付くと訝しげな顔をした。
「なんだ?」
「今度こそ奥様をどこかに連れて行ってやれよ」
以前にも言われたようなことをまた諭すように言われ、セシリオはバツが悪そうに視線を逸らす。
「わかっている。視察しながら色々とまわってくる」
モーリスはその様子を眺めながら、苦笑した。
フィリップ殿下の結婚式に参加するために王都に行くセシリオに、モーリスは少し羽を伸ばして来いと言って送り出した。しかし、結局セシリオ達はどこにも寄ることなくまっすぐにアハマスに戻ってきた。
どこかに寄ってくればよかったのにとモーリスは呆れたが、セシリオから翌々月にプランシェ伯爵領で開催される社交パーティに参加することになったと聞き、納得した。
プランシェ伯爵家からは年に二回、社交パーティの招待状が届く。領地周辺を取り囲む隣領の領主や領地内の各地区長官、有力者などを呼んで交流を深めるのだ。
姉夫婦かつ隣の領地ということもあり、セシリオも一年に一回はこれに参加するようにしていた。ただ、これに参加するとなると一週間は領地を留守にすることになる。ただでさえ王都に行って一ヶ月近く領地を留守にしていたので、溜まった仕事を処理したかったのだろうと容易に想像がついた。
それにしても……とモーリスは目の前の男を眺める。
「よく奥様を行かせる気になったな。まだ新婚なのに」
セシリオは僅かに眉を寄せると、執務机の脇に置かれていた紅茶を一口含んだ。自らを落ち着かせるかのようなこの行動を見て、モーリスはセシリオが本当はサリーシャを行かせたくはなかったのだろうなと敏感に感じ取った。
行くだけで丸二日かかる距離だが、セシリオも追ってそちらに向かうのだから会えないのはせいぜい二週間と少しだ。けれど、その期間ですら、セシリオにとっては断腸の思いだったのだろう。
「仕方がないだろう。サリーシャ自身がそう望んでいたし、俺の妻として一人前に役目を果たしたいという意思の表れなのだから。彼女のためを思うならそれがいいと、姉上も言っていた」
「可愛い子には旅をさせよ、だな」
「サリーシャは俺の子どもではなく、妻だ」
「わかっているよ、そんなこと」
憮然とした表情のセシリオを見て、モーリスはくくっと肩を揺らした。




