第十四話 陰口
飲み物や軽食は、大広間から続きになっている別室に用意されている。サリーシャはユリシアのために果実水を取りに行こうと、足を進めていた。
一人で移動し始めると、またしても人々に挨拶される。「サリーシャ様──」「アハマス夫人──」と次々に話し掛けられた。
「サリーシャ様、ご機嫌よう。少しお話でも──」
「ご機嫌よう。ごめんなさい、少し急いでいるの」
何度目かわからない会話をかわしてその部屋の入り口前に辿り着いたとき、サリーシャは懐かしい人影を見つけた。ユリシアとは別の、フィリップ殿下の元婚約者候補達だ。
部屋に入ってすぐのスイーツが置かれた一画で、彼女達は立ち話をしていた。サリーシャとの間には背丈ほどの大きな装花があり、こちらには気付いていない様子である。
彼女達とは特に親睦を深めていたわけでもなかったが、懐かさを感じたサリーシャは笑顔で声を掛けようとした。しかし、その笑顔はすぐに消える。
「ねえ、お聞きになった? ユリシア様はロッシーニ伯爵家のカルロ様とご結婚されたみたいね」
「聞いたわ。伯爵家嫡男なら上手くやったって感じよね。カルロ様はまだお若いし、見た目も悪くないし、大当たりではなくて? それに引き換え、オデット様はあの老人伯爵よ? 本当にお痛わしい」
「本当に。したたかと言うか──」
扇を手にこそこそと囁き合うご令嬢達の会話を聞いたとき、サリーシャは強い不快感を感じた。
先ほどの照れたように笑うユリシアの様子を見る限り、爵位を目当ての結婚ではないことは明らかに思えた。彼女達に一言もの言おうと思ったとき、サリーシャは動きを止めた。自分の名前が聴こえてきたのだ。
「でも──、一番したたかなのはサリーシャ様よ。だってわたくし、以前マリアンネ様から、マリアンネ様はアハマス閣下と結婚する方向で決まってるとお聞きしたのよ。それなのに、あんなことになったでしょう? その座にちゃっかりと収まって何事もなかったように平然としていられるなんて、どれだけ面の皮が厚いんだか。それに、さっき話し掛けようとしたら適当にあしらわれたのよ。エレナ様にも取り入って、いい気なものね」
「あの事件で殿下達を庇ったから今日のあのドレスでしょう? ひどい傷と聞いていたけれど、アハマス閣下と普通にご結婚したのだから、大した傷にはなっていないのね。ちょっと怪我するだけで辺境伯夫人になれるなら、わたくしがあの場で飛び出せばよかったと思ったわ」
「アハマス閣下のことも、きっと殿下から紹介されたのではなくて? 殿下から紹介されたら閣下も断れないわよね。本当に、見た目はおっとりしいてるけど相当ね」
耳を塞ぎたいような辛辣な言葉の数々に、スーっと気持ちが冷え込んでゆく。飲み物を取りに行くには、彼女達の後ろを通りすぎなければならない。
噂好きな貴族の世界で、陰口はつきものだ。これまでも、様々な人に対するたくさんの陰口を耳にしてきた。
聞き流せばいい。そう思ったのに、内容が内容だけにサリーシャの足は床に貼り付いたように動かなくなった。
「アハマス閣下も、お気の毒に──」
ご令嬢の一人が、ため息混じりにそう発する。
ドクン、と心臓が跳ねた。
──と、そのとき、凛とした女性の声が響いた。
「貴女たち、先ほどからこっそりお話しているおつもりなのかもしれませんけれど、ちっとも声が隠せていませんわよ。そのような根も葉もない憶測を真実のように語るのは非常に不愉快です。殿下に対する不敬にもあたります。慎みなさい」
叱りつけるような凛とした声。
ハッとした様子のご令嬢達が慌てて「申し訳ありません」と謝罪する声が聞こえた。相手の女性の姿はサリーシャの位置からでは見えなかったが、ご令嬢達が慌てた様子で謝ったところから判断すると、それなりの高位貴族のご婦人だろう。
カサカサと衣擦れの音がして、二人のご令嬢が部屋から大広間の入り口へと歩いてきた。呆然としたサリーシャの姿をみとめると、サッと顔色を変える。
「失礼します」
やっと聞こえるような小さな声を発し、ご令嬢達はサリーシャの横を通りすぎる。サリーシャは、何も言葉を発することなくそこに立ち尽くした。
『アハマス閣下も、お気の毒に──』
最後に聞こえた台詞が、反響するように耳に響く。
セシリオは強く、優しく、温かい。辺境伯として王室の覚えもめでたく、アハマスの皆に慕われている。サリーシャはセシリオと結婚して、本当に自分は果報者だと思っている。
──でもセシリオ様は、本当にわたくしでよかったのかしら?
そんな不安が沸き上がってくる。
元婚約者のマリアンネは侯爵令嬢かつ、タイタリア一の武器商人の娘だった。でも、サリーシャの引き取られたマオーニ伯爵家はアハマスと領地が遠く離れているだけでなく主力産業が農業であり、アハマスには何も利益をもたらさない。
「お飲み物はいかがですか?」
目の前にグラスが差し出された。ハッとして顔を上げると、目の前には穏やかな笑顔を浮かべた給仕人が立っていた。彼の持つトレーにはたくさんのグラスが並び、色とりどりの液体が揺れている。
「あ、ああ。ありがとう。いただくわ」
サリーシャは慌てた様子でお礼を言うと、オレンジの果実水を手に取る。その果実水を手に、ユリシアの待つ席へと歩き始めた。
「サリーシャ様、ごきげんよう──」
「アハマス夫人、こんばんは──」
また人々が次々に話し掛けてくる。サリーシャは虚ろな瞳で彼らを見返し、軽く会釈する。
「サリーシャ様!」
視線の先にいるユリシアは戻ってきたサリーシャに気付き、笑顔で片手を振っていた。
***
サリーシャがセシリオの元に戻ったとき、そこにはジョエルの他に一人の女性がいた。紺色の膨らみが少なく落ち着いたデザインのドレスを着ている。その女性と立ち話していたセシリオは、戻ってきたサリーシャに気付くと優しく微笑んだ。
「サリーシャ、ちょうどいい。俺の姉上だ。姉上、彼女がサリーシャです」
紹介するように肩を抱き寄せられて、サリーシャは目の前のご夫人を見た。
ややきつめのヘーゼル色の瞳と高い鼻梁はセシリオのそれとよく似ている。少しうねる焦げ茶色の髪を結い上げて、ハーフアップにしている。その髪に飾られた金色の髪飾りが存在感を放っていた。
そして、身長もセシリオ同様にとても高く、長身かつ十センチのハイヒールを履くサリーシャとあまりかわらない。美人なのだが、その顔つきからやや冷たい印象を受ける人だった。
「はじめまして。サリーシャでございます。よろしくお願いいたします」
「はじめまして、メラニーよ。よろしく」
メラニーは、会釈して顔を上げると、サリーシャのことを真っ直ぐに見つめてきた。あまりに真っ直ぐに見られるので、少し居心地の悪さを感じて目を反らしてしまったほどだ。
「姉上。サリーシャは女主人として仕事をこなし始めたばかりだから、色々と教えてやってください。結婚前は姉上が色々と領主館のことをして下さっていたでしょう? 特に、領地の者達を招いた社交会なんかは姉上が嫁がれてから一度もしていないから、もう二十年近くやってない」
「ああ、確かにそうね」
メラニーはセシリオにそう言われ、納得したように頷く。セシリオの八つ年上のメラニーは現在三十七歳。嫁いだのは十九歳のときだから、今から十八年も前になるのだ。
セシリオの方を見ていたメラニーは考えごとをするように宙に視線をさ迷わせると、またセシリオとサリーシャの方を向き、おもむろに口を開いた。
「サリーシャさん。なら、プランシェ伯爵領に一度お勉強にいらっしゃらない?」




