第十三話 義兄と懐かしい人
目の前の男性はサリーシャと目が合うと、にこりと微笑む。
「初めまして、サリーシャ。私はジョエル=プランシェだよ。妻のメラニーがセシリオの姉なんだ」
「初めまして、プランシェ卿。マオーニ伯爵家から嫁いで参りましたサリーシャです。不束ものですがよろしくお願いします」
「プランシェ卿なんて堅苦しい言い方はしなくていいよ。私のことはジョエルと呼んでくれ」
「では、ジョエル様と」
「いいね。こんな可愛らしい妹君が出来て嬉しいな。実は以前、サリーシャを舞踏会で見かけたことがある。あの時はデビューしたてだったのかな? まだ幼さが残る感じだったけど、今やすっかりと貴婦人だ。あんなに小さかった殿下もご結婚されるし、時が経つのは早いな」
ジョエルは楽しそうに笑うと、サリーシャに片手を差し出す。おずおずとそこに手を乗せると、指先に軽くキスをされた。
セシリオの義兄であるジョエルは、物腰の柔らかな男性だった。サリーシャが緊張しないようにわざと砕けた調子で話しているのだろう。年はセシリオよりも八つ上の三十七歳だという。
「義兄上。昨日まで見かけませんでしたが、今日来たのですか? 姉上は?」
「メラニーなら、向こうで旧友につかまって話している。本当は結婚式の前日に王都に到着するはずだったんだよ。だけど、急遽来られなくなってね。最終日でも間に合ってよかった」
ジョエルは両手のひらを上にして、大袈裟に肩を竦めてみせた。
「何かあったのですか?」
「それが、聞いてくれよ。本当に大変だったんだ。パトリックの奴が──」
セシリオとジョエルが近況などを話しているのをぼんやりと聞いていると、とんとんと肩を叩かれて「サリーシャ様」と呼び掛ける声がした。サリーシャは振り返る。
「サリーシャ様、お久しぶりでございます。ご結婚されたとお聞きしましたわ。おめでとうございます」
目の前に立つご令嬢を見つめ、サリーシャは目をしばたたかせる。茶色味を帯びた金髪、琥珀色の瞳、パッチリとした大きな瞳の可愛らしいお顔……
「まあ、ユリシア様! お久しぶりにございます!」
久しぶりに会うその人に、サリーシャは表情を明るくした。
伯爵令嬢だったユリシアはフィリップ殿下の有力な婚約者候補の一人だった。それ故、色々な舞踏会でよく顔を合わせた。
マオーニ伯爵に言われてあまり他のご令嬢と親しくしないようにしていたサリーシャだったが、そんな中でもユリシアだけは何かと気が合い、よく言葉を交わす相手だったのだ。
「今、どうされているのです?」
「わたくしもつい先日、結婚いたしましたの。ロッシーニ伯爵家のカルロ様と」
「まあ、おめでとうございます!」
ロッシーニ伯爵家とは、可も不可もないごくごく普通の伯爵家だ。王都から少し離れた場所に、そこそこの領地を持っている。
「サリーシャ様、せっかくですから向こうでゆっくりお話しませんこと?」
サリーシャはちらりとジョエルと話をしているセシリオを見た。すぐにサリーシャの視線に気付いたセシリオは小さく頷いたので、行ってもよいということだろう。
「では、是非」
サリーシャは笑顔で頷いた。
王宮の大きな舞踏会の会場には、壁際の一画にテーブルと椅子が並べられた場所がある。その一つに、サリーシャとユリシアは腰をおろした。
「改めて、おめでとうございます」
「ありがとうございます。サリーシャ様もおめでとうございます」
「たしか、カルロ様とは幼なじみと仰ってましたわよね?」
「そうなのです。小さい頃から一緒でした」
ユリシアは嬉しそうにはにかんだ。そして、自分たちの周りを見回して誰も聞いていないことを確認すると、少しサリーシャの方へ体を寄せた。
「──今日このような日にこんなことを言うのはどうかと思うのですけれど……」
と、ユリシアは前置きしてから小さな声で囁く。
「お父様はとても悔しがってましたけれど、実はわたくしは、エレナ様がお妃様に選ばれてホッとしましたの。お二人とも、本当にお幸せそうでしょう? それに、わたくしにはお妃様になることなど荷が過ぎますし、──」
尻すぼみになる声と逆行するように頬はほんのりと赤く色付く。サリーシャはその様子を見てすぐにピンときた。
「もしや、ユリシア様は元々カルロ様をお慕いしていたのですね?」
「──その……、カルロ様とは、小さいときから一緒だったから……」
ごにょごにょと濁すように先ほどと同じことを言うユリシアの頬は益々赤くなった。涼しい季節にも関わらず、首まで赤くなっている。ユリシアは照れ隠しのようにサリーシャに話題を振った。
「でも、サリーシャ様がアハマス閣下に嫁がれたのは意外でしたわ。これまで、一度もお話を聞いたことがありませんでしたから」
「ええ、まぁ……」
屈託ない笑顔を浮かべてこちらを見つめるユリシアに、サリーシャは曖昧に微笑む。セシリオからの求婚は、サリーシャ自身も夢にも思っていなかった。おそらく、予想していた者など誰もいないだろう。
「昨日もサリーシャ様をお見かけしたのですが、アハマス閣下とずっと楽しそうにダンスをされていたから話しかける機会がなかったのです。とても仲良しでいらっしゃるわ。アハマス閣下とは、以前にお会いしたことがあったのですか?」
「ええ。ずっと昔の、まだ小さい頃に」
「なら、そのときに見初められたのかしら。サリーシャ様はお綺麗だから」
愉しそうに笑うユリシアを見て、サリーシャは胸に靄がかかるような気分を感じた。
セシリオがサリーシャと出会ったとき、サリーシャはまだ十二歳になったばかりの子供だった。その頃に見初めたとは到底考えられない。
以前、セシリオは小さかったサリーシャの言葉に精神的に救われたと言っていた。だから、サリーシャの窮地を知り助けようと思ったと。
これを一言で言い表すなら……、『同情』もしくは『恩義』だろうか。決して『愛情』ではない。
少なくとも、マオーニ伯爵邸を訪ねてきたとき、セシリオはサリーシャのことを愛していたわけではないはずだ。
もちろん、今現在のセシリオの与えてくれる愛情に偽りはないと信じている。けれど、ふと今まで思ってもみなかったことが脳裏をよぎる。
──セシリオ様は、もしもあの頃のことがなかったとしても、わたくしを好きになって下さっていただろうか。
「あっ」
カシャンという音と共に小さな悲鳴が聴こえて、顔を俯かせてサリーシャはハッと顔を上げた。同じテーブルに向かって座っていたユリシアのグラスが倒れ、中身が零れている。
「ユリシア様、大丈夫でございますか」
「ごめんなさい。初めて着るドレスで、袖に引っかけてしまったわ」
ユリシアのドレスは肘の部分から袖が鐘のように大きく広がるベルスリーブのデザインになっていた。サリーシャの方へ体を寄せていたせいでグラスをその袖に引っかけてしまったのだろう。
幸い、中身は殆ど入っていなかったので零れたのはごく僅かだ。慌てたように手持ちのハンカチで零れた飲み物を拭こうとするユリシアを止めて、サリーシャは近くにいた使用人を呼ぶ。
「テーブルに零してしまったの。拭いてくださる?」
「かしこまりました」
サリーシャは辺りを見回した。あいにく、近くに飲み物を配っている給仕がいない。待っているよりも自分で取りに行った方が早そうだ。
「ユリシア様、わたくしは別の飲み物を取って参ります」
「ごめんなさい、サリーシャ様」
「いえ、大丈夫ですわ。すぐ戻ります」
そう言い残すと、サリーシャは軽食と飲み物が置かれた大広間と続きになっている部屋へと向かって歩き始めた。




