第十一話 その手は
「サリーシャ、大丈夫だ。きみのことは俺が守ってやるから。絶対に守ってやる」
「──申し訳ありません」
「何も謝ることはない」
手を握られて微笑まれた時、フッと体から恐怖心が抜け落ちるのを感じた。ただ手を握られただけなのに、この人がいてくれるだけで、とても強くなれる気がした。
「わたくし、舞踏会の会場で閣下とダンスを踊りたいのです」
控え室の椅子に座ったままポツリと呟くサリーシャに、セシリオは小さく頷いて見せる。
「あまりきみに無様なところは見せたくないが、善処しよう」
そう言うセシリオの眉間には、やっぱり今日も皺が寄っていた。散々練習したのに、とうとうダンスへの苦手意識を克服することはできなかったようだ。サリーシャはその様子を見て、思わずクスクスと笑い出した。
セシリオはなにかと『ダンスが苦手だ』と言う。
最初こそ、いったいどれ程苦手なのかとサリーシャも心配していた。もしかしたら、目も当てられないくらいに壊滅的に下手くそなのかもしれないと思ったのだ。
しかし、蓋を開けてみれば、セシリオの苦手はサリーシャの予想とは少し違っていた。
一緒に踊ってみて分かったことは、セシリオがタイタリア王国の平均的な男性よりも体が大きすぎるということだった。
セシリオは平均的な貴族男性よりも二十センチ位、頭一つ分近く背が高い。当然、足の長さも全然違う。つまり、ステップの一歩が大きすぎて、普通のご令嬢では噛み合わないのだ。
それに気付いたサリーシャは出来るだけ自分も大きなステップを踏むように練習した。セシリオにも一歩を小さくしてもらうようにお願いした。
幸い、サリーシャはタイタリア王国の貴族令嬢の中では長身にあたる。今日は十センチもあるヒールを履いてきたので、セシリオともかなり身長の釣り合いがとれている──とは言っても、やはり頭一つ分の差はある──はずだ。
「閣下は、わたくしと一緒に踊って下さいますか?」
「もちろん。きみと踊るために散々練習した。きみの相手以外は遠慮したいところだ」
「まあ、ふふふ……」
先ほどまではあれほどの恐怖心を感じていたのに、今は笑みがこぼれる。セシリオはそんなサリーシャを見つめて、目尻を下げた。
「サリーシャ、まだ怖い?」
「いいえ、大丈夫ですわ」
「行けるか?」
「はい。閣下が一緒なら」
目の前に差し出されたごつごつした手に、そっと自分の手を重ねる。
その手はサリーシャが知るどの手よりも、大きくて、優しくて、そして、力強い。
一年ぶりに足を踏み入れたその空間は、あの時と何ら変わらなかった。
記憶の中にあるぎっしりと精緻な絵が描かれた壁や天井。それらを彩る真っ白な彫刻と金箔で装飾された柱。目に写るのは何一つ変わらない光景。
ただ、絨毯だけは全面が張り替えられていた。きっと、サリーシャの血が落ちなかったのだろう。それ以外は、あんな事件が起こったとは想像もつかないほど、事件前と同じ佇まいだった。
「大丈夫か?」
「はい、平気です」
セシリオはエスコートするサリーシャを心配そうに窺い見る。サリーシャは顔を上げて口の端を上げて見せた。
大広間の入り口を入ってすぐのところでは、続々と会場入りする貴族達の招待状を文官達がチェックしていた。セシリオも持っていた招待状を差し出す。文官はセシリオとサリーシャの顔を交互に見てから招待状に視線を落とし、小さく頷いた。
「アハマス辺境伯、セシリオ=アハマス閣下とそのご令室、サリーシャ=アハマス夫人!」
文官が会場に向かって大きな声でセシリオとサリーシャを紹介する。セシリオとサリーシャは一度立ち止まると、深くお辞儀をしてからその会場へと入った。
「アハマス閣下、お久しぶりでございます」
「アハマス閣下、ご結婚おめでとうございます」
「アハマス閣下、また褒章を賜ったとか。おめでとうございます」
会場を歩き始めるとすぐに、ひっきりなしに色々な人から声を掛けられた。セシリオはそれらを適当にかわしてゆく。
今日はフィリップ殿下の結婚披露の舞踏会だが、参加している貴族達にとっては王宮舞踏会のような、社交の場を兼ねている。滅多に舞踏会に姿を現さないアハマス辺境伯に挨拶しようと、皆その機会を伺っていたのだろう。
辺境伯はタイタリア王国では公爵に次ぐ高位貴族にあたる。序列としては、侯爵と同格だ。ただし、独自の軍隊を持ち領地も広大な辺境伯の方が実質的に上と見る貴族も多い。さらに、セシリオは先の戦争やついこの間のものまで、様々な褒章を賜っており王室の覚えもめでたい。それ故、この機会を利用してなんとかして縁を繋ぎたいと考える者は多いのだ。
「閣下は人気者でございますね」
あまりにも沢山声をかけられるので、サリーシャは目を丸くした。サリーシャの義父であるマオーニ伯爵も顔が広い人だったが、こんなには声をかけられていなかった。
「どうせ、殿下や陛下に自分のことをよく言って欲しいとか、そんな下らないお願いをしてくるだけだ。適当にあしらっておけばいい。大切な人はちゃんときみに紹介するから」
セシリオが心底嫌そうに口をへの字にしたを見て、サリーシャは苦笑した。この様子だと、社交パーティーに殆ど出ずに領地に引きこもりだったのも頷ける。ご本人が望んでいるいないに関わらず、次から次へと向こうから人が寄ってくるらしい。
ゴーン、ゴーンと銅鑼が鳴る。
サリーシャはその音に反応して、大広間の最奥を見つめた。そこには螺旋階段があり、階段の上にはさほど大きくはないが豪華な扉がある。
「そろそろお二人が出てきますわ」
サリーシャはそう言いながら、セシリオの腕をくいっと引いた。
しばらくすると、螺旋階段の上の大きな扉から国王陛下夫妻が姿を現した。それに続き、他の王族達が次々と姿を現して用意された上座の席に着席してゆく。最後に、昨日とはまた違う式典服とウェディングドレスを着たフィリップ殿下とエレナが現れると会場は大きな拍手に包まれた。
エレナは昨日とは打って変わり、ダンスに適した膨らみの少ないドレスを着ている。そのドレスにはサリーシャの着たウエディングドレス同様、真珠が縫い付けられていた。
「始めよ」
立ち上がった国王陛下が右手を挙げて舞踏会開始の合図をすると、オーケストラの演奏が始まる。それに合わせて、主役であるフィリップ殿下とエレナの二人だけがまず中央で踊った。
次に、国王陛下夫妻がダンスに加わり、その次に他の王族達が加わる。それらが終わってから、やっと臣下である他の貴族たちが踊ることが出来るのだ。
華麗に踊る人々を見つめていると、セシリオがかがんでサリーシャの耳元に口を寄せた。
「そろそろ行こうか?」
「はい」
差し出された手に自分の手を重ねると、いつものようにエスコートには少しばかり強過ぎる力で握られる。けれど、その力強さが返って安心できる。サリーシャは握られた手をしっかりと握り返した。




