第十話 恐怖心
身長の倍ほどもある大きな木製のドアには、全面に蔦や花の彫刻が施されている。表面の金箔が灯されたの明かりを反射して鈍く光っている。
かつて何度もくぐったその会場の入り口を目の前にしたとき、サリーシャは足が震えるのを感じた。
王太子夫妻の結婚式は、三日三晩お祝いが続く。一日目は結婚式と晩餐会が、二日目と三日目は二夜連続で舞踏会が行われるのだ。
昨日、タイタリア王国の若き王太子であるフィリップ殿下とマグリット子爵令嬢であるエレナの結婚式が、王都の大聖堂で盛大に執り行われた。
王都の大聖堂はタイタリア王国で最も由緒正しい聖堂であり、その歴史は百年以上にもなる。
見上げる天井は通常の大聖堂の何倍も高く、そこには人々を見下ろす神々のフレスコ画が描かれている。天井からは大きなシャンデリアがいくつもぶら下がり、真っ白な石造りの柱には精緻な彫刻が施されていた。そして、最奥の祭壇の頭上にはアハマスの大聖堂同様、七色に煌めくステンドグラスが存在感を放ち、太陽の光がより幻想的に射し込んでいた。
──フィル、エレナ様、おめでとう。
サリーシャはそんな神聖なる場所で、寄り添う二人を見つめて目を細めた。お互いに笑顔を見せてはにかみあう二人は幸せそのものだった。
金の煌めく髪に空のような青い瞳を持つフィリップ殿下は、その美貌で諸外国まで名を馳せた王妃譲りの美丈夫だ。真っ白な生地に金糸で見事に刺繍された式典服に身を包む様は、絵本から抜け出してきたのではないかと思うほどの神々しさだった。
そして、エレナは小柄な体つきによく似合う、風船のように大きく膨らんだスカートが特徴の豪華なドレスを着ていた。頭上に冠したのは王室のみに許されるティアラだ。宝石が惜しみなく嵌め込まれた大きなそれは、ステンドグラス越しの光を浴びてキラキラと七色に煌めいている。クリっとした大きな瞳を輝かせるその可愛らしさは見るもの全てを魅了し、サリーシャ達も惜しみない祝福を贈った。
婚約披露パーティーが行われたあの日、サリーシャは二人を心から祝福することが出来なかった。自分の未来の先が見えず、二人を心から祝福する心の余裕を失っていたといった方がよいかもしれない。
けれど、一年の時を経て、サリーシャは彼らを心の底から祝福した。大切な友人であり、自らが忠誠を捧げるべき未来の国王と王妃。彼らが末永く幸せでありますようにと、心から祈る。
チラリと横を窺い見ると、隣にいるセシリオは真っ直ぐに二人を見つめていた。胸の前に両手をあげて、大きな拍手を贈っている。
きっと、自分がこんな風に思えるようになったのはこの人のお陰なのだろう。その広く優しい包容力で、いつもサリーシャを安心させてくれる。セシリオが隣にいてくれるだけで、なにも心配いらないような気がしてくるのだ。
──二人とも、お幸せに。
サリーシャは二人に大きな拍手を贈った。
大聖堂の出口へと見えなくなった二人を見送り、もう一度隣をチラリと見る。今度はサリーシャの視線に気付いたセシリオがこちらを向き、視線が絡まった。
ヘーゼル色の瞳が柔らかく細まる。サリーシャはトクンと跳ねた胸にそっと手を当て、ほんのりと頬を染める。そして、満面に笑みを浮かべて微笑んだ。
そして二日目。
今日はお祝いの舞踏会が行われる。会場となる大広間はサリーシャがかつて背中に大けがを負った、あの場所だ。通い慣れた王宮内の廊下を進み、会場を目の前にしていざそこに足を踏み入れようとしたとき、サリーシャはゾクッとした感覚に襲われた。
──痛い、寒い。痛い、怖い。痛い、痛い……
忘れていたはずの感覚がよみがえる。
体の奥底から急激に恐怖心が沸き起こり、全身を染め上げる。
──また、刺されたら……
そんなことはあるわけがない。
今日は王太子夫妻の門出を祝う舞踏会。一年前のこともあり、警備はネズミ一匹も見逃さないほど厳重だ。
頭では分かっていても、心とからだが言うことを聞かなかった。
指先が段々と冷え、感覚がなくなる。足が震えだしそうになり、逃げ出したいような衝動。すっかりと癒えたはずの背中の傷跡が、またズキズキと痛みだすのを感じた。
「? サリーシャ?」
会場入口で足を止めたサリーシャを不審に思ったセシリオが、怪訝な表情でサリーシャの顔を覗き込む。ヘーゼル色の瞳は真っ青になったサリーシャの顔を見ると、僅かに眇められた。
「どうした? 気分が悪いのか?」
サリーシャはドレスのスカートをぎゅっと握った。
この日のためにセシリオから贈られたのは、焦げ茶色とアイボリー色のコントラストが見事な、豪華なドレスだった。全体にアイボリー色のレースを入れることによって、落ち着いた色合いながら華やかな仕上がりになっている。
さらに、首にはウェディングドレスで使用した真珠を利用して作ったネックレスが輝いている。そのドレスの焦げ茶色の布地が、サリーシャの手の中でぐしゃりと潰れた。
──大丈夫。大丈夫よ……
サリーシャは何度も何度も、自分に言い聞かせるように、心の中で呟いた。
足を踏み出そうとするのに、震えて前に出なかった。無言でサリーシャの様子を見守っていたセシリオは、あたりを見回してサリーシャの腰を抱き寄せる。そして、大広間入り口の横にある参加者用の控室の方へ促した。
「サリーシャ。気分が悪いなら、今日は止めておくか?」
サリーシャを控え室の椅子に座らせると、セシリオは静かにその前に片膝をついて、サリーシャの顔を覗き込む。サリーシャはふるふると首を振った。
「いいえ、行きたいです。殿下とエレナ様のお祝いですし、それに……」
サリーシャは唇を噛んで俯いた。
握りしめたままの、こげ茶色のシルク地がアイボリー色レースの上に重ねられた豪華なドレスが目に入る。この日のために、セシリオがサリーシャに贈ってくれた。
明日の舞踏会のドレスはエレナとお揃いのデザインでヘーゼル色にしたので、今日のドレスはセシリオの髪色であるこげ茶色がいいとサリーシャがおねだりして、わざわざオーダーメイドで仕立てたものだ。
これを着るのを、サリーシャはとても楽しみにしていた。
それに、ダンスもセシリオの忙しい執務の合間を縫っては、二人で練習した。王都の仕掛け時計の人形のように、大好きな人とダンスを踊るのをサリーシャはずっと夢見ていた。セシリオと一緒にあの豪華な大広間でダンスを踊ったら、どんなに素敵だろう。
それなのに、からだが震えて言うことをきかない。
セシリオはサリーシャの震える手と青ざめた顔を見比べた。
「──サリーシャ、怖いのか?」
「…………」
答えられずに俯くサリーシャの手にそっとセシリオの手が重なる。サリーシャはハッとして顔を上げた。




