第九話 再び王都へ
フィリップ殿下の結婚式が行われるちょうど二週間前の日、セシリオ達一行はアハマスを発った。使うのは前回と同じ、豪華な八頭立ての馬車だ。
出発から丸一日、アハマスの中心部を抜けると、そこはデニーリ地区になる。サリーシャは窓からその景色を眺めた。街道から見える一面の畑には、なにかの作物が植えられているようで、一面が緑色になっているのが見えた。
「あれは何かしら?」
セシリオはサリーシャの言葉に釣られるように同じ窓から外を覗き込んだ。畑の中で作業していた農夫達が手を止めて、滅多に目にすることがないような豪華な馬車の一行が通りすぎるのを眺めている。
「なんだろうな? ラディッシュかな? デニーリ地区は土地が肥沃だから、農家によっては二毛作を取り入れている。小麦はバクガの被害が酷かったが、これは無事に収穫できるといいのだが……」
移り行く畑を見つめ、セシリオは目を細めた。
この地域は古くから大河が流れており、土地が肥沃だ。二毛作とは、小麦の収穫が終わった後にその合間の期間を使用して別の作物を育てる手法だ。多くの農家が食い扶持を増やそうと、この耕法に取り組んでいる。馬車から見る限り、遥か向こうまで緑の大地が続いていた。
そこから小一時間もすると、今度は畜産をしているのか沢山の豚が柵に囲まれた中に飼われている、のどかな風景が広がり始めた。その後、あたりの景色は一変して街道の両側は深い森に覆われた。
「ここはもうアハマスではないのですか?」
「いや、ここもアハマスだ。まだデニーリ地区のはずだ。もう少しするとプランシェ伯爵領になる。アハマスとの境界線には看板があるはずだから、よく見ていると分かる」
サリーシャは窓から少しだけ顔を出して前を覗き込んだ。見える範囲では看板は見当たらない。
最初に訪れた時、前回王都を訪れた時、そして今回と、もうこの道を通るのも四回目のはずなのに、そんな看板があったことにはこれまで全く気が付かなかった。
「アハマスって広いわ」
サリーシャは遥か遠くまで伸びる街道を眺めながら呟いた。アハマスはタイタリア王国の北の国境沿いの地域で、形状としては東西に長い。けれど、南下している今ですら二日もかかっている。マオーニ伯爵領の三倍以上の面積はありそうだ。
「そうだな。アハマスは広い。少しずつ、きみを案内しよう。領地内の視察の時に、きみも連れていく」
「はい。閣下の治める土地を、わたくしも見てみたいです」
サリーシャは笑顔で頷く。
アハマスは広い。きっと、サリーシャがこれまでに見ている部分は、アハマス全体で見ればほんの一部分でしかないのだろう。
こんなにも広大な地域を治める夫がとても頼もしく感じられた。それと同時に、自分ももっと役に立てるように頑張ろうと、気を引きしめ直した。
サリーシャとセシリオの乗った馬車は順調に街道を進む。天候にも恵まれ、途中で小雨が降ることはあっても大雨には見舞われずに済んだ。王都に到着する直前になり、サリーシャは移ろう景色を眺めながら、ふとあることに気付いた。
「昨日から、何かの工事をしている地域が多いですわね」
「街道整備の工事だろう。前回、アハマスと王都を結ぶ街道を整備しなおしてほしいと陛下にお願いしたから。早速取り掛かってくれていて、有難いことだ」
セシリオも窓の外を覗いた。道路沿いには多くの工夫や、ドーザーを引く馬が集まっている。昨日から何カ所も工事している場所を見かけるのは、長い街道を出来るだけ効率よく工事するために、いくつかのブロックに分けて作業をしているからだろう。それでも、アハマスまでの道が完全に整備されるには何年もかかる。
アハマスを発って十一日目、サリーシャ達は無事に王都へと到着した。まず王都の中心地にあるタウンハウスへと向かうと、家令のジョルジュが笑顔で迎えてくれた。
「旦那様、奥様。お待ちしておりました。誠にお疲れ様でございます。お部屋の準備は出来ていますよ」
「ああ、助かる」
「ありがとう」
サリーシャがペコリと頭を下げると、ジョルジュはにこりと微笑んだ。
「今年は三回も旦那様が王都にいらして、本当に珍しいことでございます。これまでいらっしゃらなかった分を取り戻す如くの頻度ですね。わたくし共も俄然仕事のやる気が出ると言うものですよ。いつもは旦那様の命を受けてこちらで情報収集するむさ苦しい兵士ばかりを相手にしているものだから──」
「ジョルジュ。悪いが到着したばかりで疲れている。話は後で聞くから、部屋に案内してくれ」
ジョルジュが何やら堰を切ったように喋り出したが、セシリオは面倒くさそうに話を打ち切った。
残念そうに眉を寄せたジョルジュは、すぐに気を取り直したように笑顔を浮かべるとセシリオ達を三階の部屋へと案内した。階段の踊り場や廊下の至る所に美しく花が生けられている。
ジョルジュはセシリオとサリーシャを先導すると、鷹揚な動作で三階の一室のドアを開けた。
サリーシャがおずおずと足を踏み入れると、そこは前回滞在したよりもだいぶ大きな部屋だった。アハマス領主館のサリーシャとセシリオのリビングルームよりは一回り程小さいが、部屋の中央にはゆったりとしたベルベットの布張りのソファーと木製のローテーブルが置かれている。そのローテーブルの上にも生けたばかりと思しき花の入った花瓶が置かれ、その横にはフルーツも置かれていた。
壁に設えられた三つの大きな窓から入る風を受けて僅かに揺れるカーテンは、全体に刺しゅうが施された明るい色合いだ。
サリーシャは興味深げにきょろきょろと部屋の中を見渡した。
「わたくし、前回の滞在のときは二階のお部屋でしたわ」
「ここは基本的にアハマスの領主館と同じ造りなんだ。三階が領主一家が使う部屋で、二階が客間、一階にはそれほど大きくはないが大広間と厨房、ダイニングやリビングがある。前回も使っただろう?」
セシリオの説明に、サリーシャはこくりと頷く。
「この屋敷の裏側、渡り廊下で繋がった別棟は使用人用だ。前回は結婚する前だったからきみの部屋は二階を用意してもらったが、今回は俺と同じでいいだろう?」
「はい。閣下と一緒がいいですわ」
サリーシャは笑顔で頷く。サリーシャの返事を聞いて少し照れたように耳を赤くしたセシリオはゆったりと視線をさ迷わせていたが、何かに気が付いたように窓際に歩み寄った。
「よく見ると、前回とカーテンが変わっているな。新しくなっている」
「そうなのですか?」
「ああ、前回来たときはもっとくすんでいた気がする」
そう言ってセシリオが端を掴んで広げたカーテンはサリーシャの目にも色鮮やかで、真新しいように見えた。
「きっと、ここの使用人達がきみを歓迎して新調したのだろう」
カーテンを見つめていたセシリオは振り返ると、サリーシャを見つめて微笑んだ。
「前回ここに来たときに婚約者として紹介しているが、今夜はタウンハウスの面々に改めてきみを俺の妻として紹介しよう。皆、自分達の女主人であるきみに興味津々のはずだ。この部屋の準備なども、褒めてやるとやる気が湧くと思う」
「はい、わかりました」
サリーシャはこのタウンハウスの使用人達から自分がとても歓迎されていることを感じて、とても嬉しくなった。
その晩、アハマス辺境伯のタウンハウスからは、暖かな蝋燭の光とともに、いつになく明るい笑い声が漏れ聞こえてきた。




