第六話 いざ、アハマスへ
セシリオはその一ヶ月後、約束通りサリーシャの住むマオーニ伯爵邸に迎えの馬車を寄越した。
前回より更に豪華な八頭立ての馬車は、黒と銀色のシンプルな見た目だ。金箔等の華美な装飾は無いものの、かえってそれがとても上品な雰囲気を漂わせていた。車内のシートは天鵞絨に覆われており、外見より内装の方にお金がかかっていそうに見える。
「旦那様からサリーシャ様に、こちらを」
使いで来た青年からは、セシリオ直筆だという手紙を手渡された。サリーシャがその手紙を開くと、そこには、あまり国境地帯を領主不在にするわけにはいかないので、迎えに行けなくて申し訳ないと謝罪の言葉が書かれていた。そして、サリーシャが来ることを楽しみにしているとも書かれていた。
「とても丁寧な方なのね……」
手紙は短かったが、そこからは誠意が感じられた。サリーシャはその手紙をしばらく眺めてから持参する荷物に仕舞うと、見送りに現れたマオーニ伯爵に向き直る。
「それでは、行って参ります。お父様」
「気をつけて。アハマス閣下に失礼がないようにするのだぞ」
自慢の口ひげを揺らしながらそう言うマオーニ伯爵に、サリーシャはこくりと頷く。
貴族の結婚など、殆どの場合が政略結婚だ。それでも、多くの夫婦は上手くやっていく。セシリオとは一度しか会っていないが、印象は決して悪くない。縁あって夫婦となるのだから、上手くやっていきたいと思った。
マオーニ伯爵を始めとする屋敷の面々に最後の別れを告げると、サリーシャはアハマスまで唯一同行する侍女、ノーラとともに馬車に乗り込んだ。
その豪華な馬車に揺られること数日。
この日も馬車の中で揺られていたサリーシャは、窓の外を覗いた。外に見えるのは鬱蒼と茂る森林だ。何回窓を開けてもみえる景色は森林ばかり。もう何時間もこの光景が続いている。
景色が移り変わるうちはそれを見ていると気分が高揚したが、同じ景色ばかり続くようになると、途端にサリーシャの頭には色々な疑問や不安が浮かんできた。
「ねえ、ノーラ。どうしてアハマス閣下は、わたくしを妻にと望んだのかしら?」
サリーシャは窓から視線を室内に戻すと、ずっと不思議に思っていたことを同行したノーラに尋ねた。
「それはもちろん、サリーシャ様の美貌に見惚れ、望まれたのではないのでしょうか? サリーシャ様は『瑠璃色のバラ』と呼ばれるほどの美女でいらっしゃいますもの」
さも当然といった様子で答えるノーラに、サリーシャは首を振ってみせる。
「でも、アハマス閣下は辺境伯でいらっしゃるわ。閣下が望まれて簡単に手にできない女性など、公爵令嬢と王女殿下くらいよ」
サリーシャは、なぜセシリオが自分を望んだのかがわからなかった。すでにスカチーニ伯爵との婚約話が進み始めていたのにも関わらず、突如その話がとん挫して、代わりに現れたセシリオ。
実は、マオーニ伯爵邸にセシリオからのサリーシャをもらい受けたいという書信が届いたのは、サリーシャとセシリオが面会した日の午後だった。アハマスはとても遠いので、書信がどこかで滞って到着するのが遅れたのだろう。つまり、養父であるマオーニ伯爵もあの日あの時間にセシリオが現れたのは完全に想定外だったようだ。それを聞いて、サリーシャはなぜあの時にマオーニ伯爵があんなにも大慌てしていたのかがようやく分かった。
そして、心配していたスカチーニ伯爵の方は、サリーシャと話が済んだ後にセシリオが直接先方を訪れ、話を付けていた。サリーシャはもちろん、マオーニ伯爵もこれには驚いた。つまり、セシリオはサリーシャがスカチーニ伯爵に嫁ぐ予定であると知っていながら、婚姻申し込みの打診をしてきたのだ。
未来の花嫁と正式な顔合わせをするための準備をしていたら、その花嫁の夫になると名乗り出た男が突然屋敷を訪ねて来たのだから、スカチーニ伯爵はさぞかし驚いたことだろう。しかし、セシリオはアハマス辺境伯だ。スカチーニ伯爵がどんなに不服に思ったとしても、上位貴族であるセシリオにその不満をぶつけることは出来ないだろう。
アハマスは国防の要の地だけに、そこを自治するアハマス辺境伯は国からとても重用されている。何代か前には当時の王妃を輩出したほどの名門貴族だ。
サリーシャは確かに社交界で美しいと評判の娘だったが、他にも美しいと評判の娘は何人もいた。その中にはまだ婚約者がいないご令嬢もいたし、侯爵令嬢だっていた。特に、ついこの間までフィリップ殿下の花嫁選びが行われていたこともあり、多くの年頃の有力貴族の令嬢は独身で残っている。みな、フィリップ殿下の妻の座を狙っていたのだ。
会った印象ではセシリオは確かに貴族らしからぬ衛兵のような風貌をしているが、けして醜男ではない。むしろ、顔のつくりは整っていたし、態度も紳士的な人に見えた。
つまり、彼はこんな傷物になった自分ではなくて他に沢山いる美しい娘を望むことも容易だったはずなのだ。それなのに、なぜセシリオは自分を望んだのか。サリーシャにはそれがわからなかった。
「本当に、随分と遠いですわね。もう五日も馬車に乗っているのに。こんなに遠いと、王都がまるで遠い世界になってしまいそうですわ」
ノーラが車窓の移り変わりを眺めながら、小さく笑った。
「王都が遠い世界に……」
サリーシャはその言葉を聞いて、あることに気付いた。遠すぎて、王都のことがまるで遠い世界。そうであるならば、王都で起こったこともあまり情報が入ってこないのではないだろうか。
ということは……
サリーシャは青ざめた。
「もしかして……。大変だわ……」
「はい?」
両手で口元を抑えるサリーシャを、ノーラが怪訝な顔で見つめる。
きっとそうなのだ。セシリオはフィリップ殿下の婚約発表の舞踏会で賊の侵入による騒ぎがあったことは知っていても、それでサリーシャが傷物になったということは知らないに違いない。顔合わせの際も、こちらからはわざわざ背中に大きな傷があることを言ったりはしていない。ということは、セシリオがそのことを知らなくてもなんら不思議はないのだ。
「どうしましょう」
サリーシャは自分自身をぎゅっと抱きしめた。
これが単に遊びに行くだけなら、別にいい。けれど、サリーシャは彼の妻になりに行くのだ。妻となったら何をするのか、経験はなくともある程度の知識くらいはある。
──この醜い傷を見られたら、わたしは捨てられるかも知れない。
真っ先にそんなことが頭に浮かんだ。
こんな醜い傷を背中に負った娘など、通常であれば妻に望むわけがない。マオーニ伯爵家と縁を結びたがっている下位貴族であれば、それでもサリーシャを妻に望むこともあり得るが、アハマス辺境伯はマオーニ伯爵家よりも格上だ。傷物になったサリーシャを迎えても、なにもメリットはない。
考えれば考えれるほど、そうに違いないと思えてきた。
サリーシャは到着前から気分が落ち込んでくるのを感じ、膝の上の手をぎゅっと握り締めると、無言で顔を俯かせた。