第三話 披露宴
アハマスの領主館の、サリーシャ達が暮らす居住棟の一階にはとても大きな大広間がある。舞踏会なども行える広さを備えたそこで、二人の披露宴は行われることになっていた。
「わたくし、あの大広間は入ったことがありませんわ」
サリーシャはそのことをセシリオから聞いた時、そんな台詞をこぼした。それに対し、セシリオから返ってきたのは予想外の答えだ。
「俺も、殆んど入ったことがない」
「閣下も?」
サリーシャはきょとんとして聞き返す。生まれたときからここに住み、この屋敷の主であるセシリオが殆ど入ったことがないとはどういうことなのか。
「かつてはあそこで、アハマスの各地域を治める長官達や周辺の諸侯を招待して社交パーティーを開いたりしていたようなのだが、長い間女主人がいなかったから……」
それを聞いてサリーシャは「あぁ」と納得した。社交パーティーやお茶会の企画は、通常女主人が取り仕切る。サリーシャが引き取られたマオーニ伯爵邸でも時々社交パーティーやお茶会が行われていたが、それはいつも義理の母が取り仕切っていた。
以前クラーラから、セシリオの母はセシリオを出産して程なくして儚い人となったと聞いた。そのため、アハマスでは女主人が不在で長らくあの部屋も使われることもなかったのだろう。
「では、これからはわたくしがしっかりと取り仕切って企画しないといけませんわね」
サリーシャがぐっと手を胸の前で握りこむと、セシリオはふっと目元を和らげた。
「新たな辺境伯夫人に期待するとしよう」
そして、何かを思いついたように視線を宙に浮かせる。
「確か、俺がまだ小さかった頃──姉上が成人してから嫁ぐまでの数年間、女主人の代理として様々なことを取り仕切っていた。フィリップ殿下の結婚式の際に会えるはずだから、話を聞くといい」
「閣下のお姉様? はい、お会いできるのを楽しみにしております」
サリーシャは笑顔で頷いた。
セシリオには、八つ歳上の姉がいる。アハマスと領地を接する、プランシェ地方を治める伯爵夫人だ。どこかの社交パーティーで一緒になったことが一度くらいはありそうな気もするが、サリーシャは特に気にもしていなかったので記憶にない。いったいどんな人なのだろう。少しの不安もあるけれど、楽しみな気持ちの方が大きい。
サリーシャは期待に胸を膨らませ、口元を綻ばせた。
***
およそ十七年の時を経てその役目を果たすべく開かれた大広間は、セシリオとサリーシャの門出を祝うべく、見事に当時の美しさを蘇らせていた。もちろん、日々の清掃は屋敷の使用人達によって抜かりなく行われていたが、絨毯やカーテンの経年劣化、塗装剥がれなど、傷んでいる部分も多かった。それを、今回の結婚式に合わせて全て修理、もしくは新調したのだ。
大きな広間はマオーニ伯爵邸にあった社交パーティー用広間よりもさらに二回りほど大きく、天井からはシャンデリアが吊るされ、そこに灯された明かりが煌々と広間を照らしている。
アンティーク調のそれは、おそらくこの領主館を建てた時から使用しているものだろう。今日のために絨毯が張り替えられた広間には長いダイニングテーブルのセットが何台も設置され、その上には豪華な料理が所狭しと並べられている。各テーブルには今朝摘み取ったばかりの花が美しく飾られて華やかさを添えていた。
部屋の一番上座の一段高いところにセシリオと二人並んで座り、その様子を眺めていると、セシリオは少しだけこちらに体を傾けて、サリーシャの耳元に口を寄せた。
「料理長が、何ヶ月も前から悩みに悩んで決めたメニューだ。みな、久しぶりの大仕事に張り切っている」
小さな秘密の暴露に、サリーシャは表情を弛めた。普段はサリーシャとセシリオ、そして身の回りの世話をするごく限られた使用人達しかいない領主館も、今日ばかりは大賑わいだ。
「みな、楽しそうですわね」
「ああ。きみが来てくれたおかげだな」
そうだろうか? でも、そうなら嬉しいと思う。
暫くすると、セシリオとサリーシャの元には次々と招待客が挨拶に来た。最初に来たのは三十代半ばくらいの、恵まれた体躯の男性だった。式典用の軍服を着ているが、セシリオのものよりはずっと飾りが少なく質素だ。
「閣下、おめでとうございます」
「ああ、ありがとう」
「奥様。私はアハマス軍にて第二部隊隊長を務めるデシレ=コスナーです。本日は誠におめでとうございます」
「はじめまして、コスナーさん。ありがとうございます」
セシリオとサリーシャは祝辞を述べる一人一人にお礼をしてゆく。サリーシャは知らない人が殆んどで、セシリオが小声でどういう人なのかを補足して説明してくれた。
多くはこのアハマスとタイタリア王国を守るための軍事の幹部の者たち、アハマスの政治を担う文官の中でも要職を務める者たち、そして、地方を治める長官達だ。
サリーシャはセシリオと想いを通わせてからというもの、少しずつ女主人となるための勉強を始めていた。辺境伯であるセシリオの治める領地は通常の貴族と異なり、とても広い。そのため、アハマスは全体を六つのエリアに分けて治められていた。中央のアハマス領主館の直轄地と五つの地区だ。セシリオの下で、それぞれの地方長官が担当の地域を治め、隅々まで目が行き届くようにする仕組みになっているのだ。
「閣下、おめでとうございます」
何人目かわからないほど多くの人々と挨拶して、次にサリーシャ達の前に現れたのは口ひげをはやし礼服を着た小太りの中年男性と、豪華なドレスを着た女性だった。
「ああ、ありがとう。アルカン殿、久しいな。遠いところご苦労だった」
「奥様。私は南部のデニーリ地区を治めるウェンリー=アルカンです。そして、こちらは妻のバーバラです」
男性のとなりにいた女性はスカートを摘まみ、小さくお辞儀する。首から下がる大粒のダイヤのネックレスがキラキラと輝いていた。
「本日は誠におめでとうございます」
「どうもありがとう」
サリーシャは笑顔で頷く。
サリーシャの覚えたての知識では、デニーリ地区は広いアハマスの中でも南部に位置しており、ここからだと王都に向かう方向だ。恐らく、馬車だと二日近くかかる距離のはずだ。
「そういえば、デニーリ地区は今年、バクガの被害が酷くて災難だったな」
セシリオがそう言うと、アルカンは肩を竦めて両手を上げて見せた。
「本当に、酷いものだ。おかげで小麦が大打撃です」
サリーシャは『バクガ』という言葉に聞き覚えがあった。たしか、セシリオと初めて城下に出掛けた際に、今年はバクガのせいで小麦の収穫が少なかったと言っていた。恐らく、害虫の一種なのだろう。
しばらく領地の近況について話を聞いていたセシリオは腕を組んで、ふーむと眉を寄せた。
「ここ最近視察にも行っていないな。今年は時間を見つけて行くとしよう」
「いつでも歓迎します」
アルカンは一礼すると視線をずらし、サリーシャを見つめた。
「奥様も是非ご一緒にどうぞ」
「ええ、ありがとう」
サリーシャも頭だけ下げて会釈する。アルカンが去ったあと、セシリオは浮かない表情を浮かべた。
「デニーリ地区はアハマスで一番の農業地帯なんだ。大きな河川が通ってるから、土地が肥沃でな」
「そうなのですね」
サリーシャは話を聞きながら相槌をうつ。アハマスで一番の農業地帯で害虫の被害というのは、領主として頭が痛い問題なのは容易に分かる。
「もう、かれこれ三年くらい視察に行ってない。近いうちに──」
セシリオが何かを話し始めたが、その声はすぐに明るいかけ声にかき消されてしまった。
「閣下、おめでとうございます」
「あ、ああ。ありがとう」
次に現れたのは眼鏡をかけた、いかにも賢そうな顔をした文官風の男性とその妻だった。そうして、二人は永遠に続くのではとも思える長い祝辞の列に、また引き戻されたのだった。




