第二話 結婚式
雲一つない、冴え渡る青空。時折穏やかな風が吹き、木々の葉を優しく揺らすこのよき日に、サリーシャは先日完成したばかりのウエディングドレスに身を包んでいた。髪結い師により美しく結い上げられた金の髪には、レースで作った花の飾りが飾られている。仕立て屋がドレスと一緒に作ってくれたもので、中心には真珠が輝いていた。そして、耳元にも真珠のイヤリングが飾られる。
「目を開けてください」
アイメイクをしてもらっていたサリーシャは、そう言われて閉じていた瞼をゆっくりと持ち上げた。目が合うと、正面からこちらを見つめていた化粧師の両口の端がゆっくりと上がる。
「とてもお綺麗です」
サリーシャは瑠璃色の瞳で化粧師を見つめ返した。
「本当に? おかしくない?」
「わたくしがこれまでの人生で手掛けてきた中で、間違いなく最高の出来栄えです」
化粧師は自信満々にそう断言すると、サリーシャに手鏡を差し出す。サリーシャはそれを受けとると、おずおずと覗き込んだ。鏡に映るのは間違いなく見慣れた自分の顔だ。しかし、今日は化粧を生業とする化粧師にやってもらったので、いつもと雰囲気が違う。
サリーシャはパチパチと目を瞬かせ、自分の顔に見入った。アイシャドウがしっかりと入っているせいで、いつもより少しだけ大人っぽく見えた。
「お綺麗ですよ」
「本当に素敵です」
まわりにいる、今日の準備を手伝ってくれた面々が次々に賛辞を述べてゆく。
「みんな、ありがとう」
その言葉を聞きながら、じわりじわりと自分がセシリオの妻になるのだと実感が湧いてきて、自然と笑みがこぼれた。
「サリーシャ様、そろそろです」
そばに控えていたノーラがサリーシャに声を掛けた。もうそんな時間かと慌てて顔を上げたサリーシャは息をのんだ。ノーラの目に涙が浮かんでいる。
「ノーラ?」
小さく呼び掛けると、ノーラの瞳からポロリと涙がこぼれ落ちた。
「まぁ、ノーラ。どうしたの?」
サリーシャが戸惑ったように尋ねると、ノーラは持っていたハンカチで目元を拭って微笑んだ。
「本当に、ようございました。サリーシャ様が幸せそうにしていらして。──あんな事件があったから、ずっと、どうなるかと思っておりましたの」
「ノーラ……」
泣き顔で微笑むノーラを見て、サリーシャは言葉に詰まる。同時に、どんなに自分が心配されていたのかを悟った。
ノーラは、サリーシャが養女として引き取られたのとちょうど時を同じくして、マオーニ伯爵家でサリーシャ付きの侍女として奉公し始めた。当時十歳だったサリーシャに対し、ノーラは成人したばかりの十六歳。二人の立場は違えど、その時からずっと一緒だった。
田舎娘だったサリーシャが家庭教師から叱責されて落ち込んでいたときも、ホームシックになって泣いていたときも、フィリップ殿下の有力婚約者として仮面を被り出したときも、いつも隣にいた。そして、大怪我をしたサリーシャの世話を献身的にしてくれたのも、老人伯爵に嫁がされると知り絶望に染まるサリーシャを励ましてくれたのも、ノーラだった。
「アハマスに来る途中の馬車の中でのサリーシャ様の塞ぎ込んだ様子がずっと頭に残っておりました。だから、ずっと心配だったのです。でも、今のサリーシャ様は本当にお幸せそうですわ」
サリーシャの手を取ると、ノーラはまっすぐにこちらを見つめて微笑んだ。
「おめでとうございます。サリーシャ様」
「──ありがとう。ありがとう、ノーラ。わたくし、とても幸せ者だわ」
サリーシャもつられて涙ぐむ。本当に、なんと自分は果報者なのだろう。大好きな人に嫁げることも、こんなふうに自分を心配してくれる人が身近にいることも。
「わたくし、幸せになるわ。だから、これが終わったらノーラの番ね」
「……わたくし?」
手を握り返すと、ノーラは途端に戸惑ったような表情を浮かべる。サリーシャはそんなノーラの様子を見て微笑んだ。
ノーラはサリーシャの六歳年上の二十四才だ。美しさの盛りにあたる。今までサリーシャに尽くしてくれてそんな話はなかったが、優しいノーラに素敵な人が現れないはずがない。きっと近い将来、素敵な話が聞けるとサリーシャは確信している。
そうこうするうちにトントンとドアをノックする音がして、心配そうな表情を浮かべたクラーラが顔を出した。きっと、サリーシャがなかなか出てこないので待ちくたびれたのだろう。
「サリーシャ様。ご準備は?」
「出来ているわ。今行きます」
サリーシャが立ち上がると、まわりに控えていた侍女達がサリーシャのドレスのロングトレーンを少し持ち上げて、歩くのを手伝ってくれた。いつも以上にずっしりとしたドレスは、まわりの人達が丹精込めて手を掛けてくれた証し。ちっとも重くはなかった。
ドアを出ると、クラーラの旦那様──オーバン氏が柔らかい笑みを浮かべて佇んでいた。サリーシャは少しだけ頭を下げて会釈をする。
「本日はよろしくお願いいたします」
「このような大役をお任せいただき、誠に光栄です」
オーバン氏も小さくお辞儀をする。そして、「本当にお綺麗です」と微笑んだ。
結婚式では通常、新郎に引き渡すまでを新婦の父親がエスコートする。しかし、サリーシャとセシリオはこぢんまりとした挙式にしたかったので、アハマスの領地外の人は一切招待しなかった。三ヶ月後に王都で行われるフィリップ殿下の結婚式で親戚たちに会えるので、そこで会食の席を設けて挨拶をする予定だ。そのため、今回の挙式でのエスコート役はクラーラの夫であるオーバン氏にお願いした。
大聖堂の重厚な扉の前に、サリーシャは緊張の面持ちで立った。身長の倍ほども高さのある大きな扉には、びっしりと彫刻がされている。
扉が開いて光が差し込み、サリーシャはその眩しさに咄嗟に目を細めた。
最初に目に入ったのは、外からの光を受けて美しく煌めくステンドグラスだった。全部で五面に分かれたステンドグラスは壁一面を覆っており、圧倒的な存在感を放っている。祭壇の上部、高い天井までの全体に、色とりどりの光が溢れていた。中央の一面だけ、上部が丸型に抜かれている。幾何学模様を描いた色彩の結晶が、大聖堂全体を荘厳で幻想的に照らしていた。
視線を下ろせば柱には天使たちが彫られており、微笑みを浮かべて見下ろしていた。正面の一段上がったところには司教が立っている。そして、その手前には、深緑色に金糸の装飾が入った豪華な軍服を身に纏う、最愛の人が立っていた。
オーバン氏に促され、サリーシャは一歩足を踏み出した。
まっすぐに続く祭壇までの道には真新しい赤い絨毯が敷かれている。敷きたての絨毯の柔らかな感触が足から伝わり、まるでふわふわと浮いているような気がした。距離が近くなると、セシリオがまっすぐにこちらを見つめているのが分かった。ベール越しに目が合うと、ヘーゼル色の瞳が優しく細まる。
目の前まで到着するとセシリオが手を差し出し、サリーシャはそっとそこに手を重ねた。大きな手は、いつかのようにサリーシャの手を包み込むようにぐっと握りしめた。
「とても綺麗だ。その……上手く言えないが、本当に綺麗だ」
少しだけ目元を赤くしたセシリオに、サリーシャにしか聞こえないような小さな声で囁かれた。飾り気のないセシリオの『綺麗だ』という言葉はとても心に響く。
祭壇に向かって二人で並んで立つと、司教が開式の辞を述べ始めた。この光景も、司教の紡ぐ言葉も、一連の流れが全てが夢の中での出来事のような気がする。けれど、横に立つセシリオへの想いと、彼が注いでくれる愛情だけは真実であると確信できる。
「今ここに、二人が夫婦となったことを宣言します」
しばらくして司教が一際大きな声を上げると、参列していた人々が一斉に立ち上がり、拍手が湧き起こった。
「おめでとうございます」
「おめでとうございます」
先ほどオーバン氏と歩いた道をセシリオにエスコートされながら歩くと、次々と声を掛けられた。煌めく光が降り注ぎ、祝福の花びらが舞う。笑顔を浮かべた人々からの拍手が鳴り響き、祝辞が贈られる。
「サリーシャ」
エスコートするセシリオが、少しだけ身を屈めてサリーシャに顔を寄せた。
「はい?」
「式が始まる前から、外にはかなりの人が集まっていた。俺達のお祝いに駆けつけた、一般の領民だ。手を振ってやってくれ」
サリーシャはこくりと頷いた。
大聖堂を出ると、領主とその花嫁の姿を一目見ようと多くの人々が集まっていた。大人はもちろんのこと、小さな子供から老人まで、皆が笑顔で祝辞を述べて手をふっている。事前に聞いてはいたが、その人数はサリーシャの想像を遥かに超えていた。きっと、それだけセシリオが領民から慕われているのだろう。
「サリーシャ? どうした?」
歓喜に湧く人々に圧倒されて立ち尽くすサリーシャを、セシリオが覗き込む。
「その……。何もかもが幸せ過ぎて、夢のようです」
こんな日が来るなんて、数ヶ月前までは想像すらしていなかった。愛する人が微笑みかけてくれる幸せなど、叶わぬ夢でしかないと思っていた。それを、こんなにも多くの人に祝ってもらえるなんて──。
涙ぐむサリーシャの頬を、セシリオが優しく触れる。
「夢じゃない。きみのことはこれからもっと幸せにする」
目の前にセシリオの顔が近づき、唇が軽く触れ合う。あたりの歓声が、一層大きなものへと変わった。
「さあ、手を振ってアハマスの辺境伯夫人の姿を見せてやってくれ」
「──はい」
サリーシャは満面に笑みを浮かべて手を振る。
割れんばかりの拍手と、祝福と、笑顔があたりを覆い尽くした。




