ヘンリーの悲劇 後
おいおいおい。ちょっと待て!
なぜ、今その話になる?
今日、結婚式だったんだぜ?
なぜにこのタイミングでそんなことをむし返す?
どうやら嫁さんは、以前に俺が違う柄の刺繍を施したものが似合うと言ったことを今ぶり返して怒っているらしい。
テメェら、覚えておけ。
女とは、ぶり返す生き物なんだ。
それも、もう終わったはずの話をなぜにこのタイミングで!? っていう絶妙な(最悪とも言うな)頃合いを見計らってぶり返す。まるで全面的に自分が被害者って面でな! どこに地雷が埋まってるか、わかったもんじゃねえぞ。
「メリッサ。今はそんな話じゃないだろう? みんな心配してたんだぞ」
「そんなことって! このドレスの裾の刺繍はわたしにとって一生に一度の思い出になるのよ!」
嫁さんは顔を覆うとわんわんと泣き出した。
なら、どうすりゃよかったんだよ!
こっちが似合うと本音を言えばあっちがよかったとぶり返すし、些細な言葉は大袈裟に脳内変換されるし。
呆然と立ち尽くしていると、横から低い呼び声がした。
「ヘンリー。花嫁は無事だったのか?」
目を向けると、一際体格のいい男が眉根を寄せて近づいて来るところだった。ヤバイぞ、あれはアハマスで一番偉い、領主様だ。俺みたいな一兵卒が滅多に近づけるお方じゃない。
嫁さんは領主様を見て「ひっ!」っと小さく悲鳴を上げた。
そりゃそうだろうな。なんせ領主様は『辺境の獅子』とか『アハマスの鬼神』とか、色々な二つ名が付くほどのスゲーお方だ。
かつてのダカール国との戦いで、その鋭い眼光と気迫ゆえに睨み付けただけで敵が次々と失神したらしいと、嘘かホントかわかんねえ生ける伝説が真しやかに囁かれている。俺は多分、本当だと思うぜ。
「いったい何があった?」
険しい顔をした領主様が俺と嫁さんを交互に見比べる。いや、しかしでけぇな。軍人標準サイズの俺が見上げるほどだぞ? チラリと嫁さんの方を見ると、領主様に怯えて小鹿みたいに震えてやがる。おずおずと俺の陰に隠れると、背中の裾をちょこんと摘まんだ。なかなか可愛いところがあるじゃないか。
「それが、どうやらドレスの裾の刺繍が気に入らなかったらしくてですね……」
「なに? ドレスの?」
俺の適当な説明を聞いた領主様の目がくわっと見開き、眉間の皺が更に深いものになる。沈黙と気まずい空気が流れる。ヤベェ、俺も領主様の気迫に震えてチビりそうだぜ。
「……」
「……」
失神しなかっただけ偉かったと褒めてくれ。
とにもかくにも、こうして俺はドレスに気を配れなかった故に嫁に結婚式の当日に逃げられたという不名誉なレッテルを貼られたわけだ。
ん、嫁さん?
なんだかよくわからんが、翌日にはすっかり機嫌がなおっていたよ。だから、二人だけで式をあげたさ。全く違う出来合いのウェディングドレスでな。
「ヘンリー。昨日はごめんなさい。お願い、嫌いにならないでっ!」
なーんてしおらしく言ってすがりついてくるもんだから、怒りは全部吹っ飛んだ。
なんで当日来なかったか?
そんな複雑な乙女心は一生わからんと断言できる。
しかし解せないのは、なぜか周りからは俺がそのことが原因で嫁さんに頭が上がらない上に、いつもびくびくしてる恐妻家ってことになってやがることだ。訂正させてもらうとな、俺は嫁さんに頭が上がらないんじゃねぇぞ。優しい俺が毎回毎回、仕方がなく折れてやってるんだ。まったく、ひでぇ勘違いだ。
俺はグビグビッと残りの酒を煽る。やっぱり仕事終わりの一杯は格別だな。
「ヘンリー!」
おっと、嫁が呼んでるぞ。
昔は呼ばれりゃ胸が高鳴ってドキドキしたもんだが、今は一体何をしでかしたんだっけ? と動悸がしてくるぞ。
きっと、これは俺たち夫婦の絆が深まっていく過程だな。これをすぎれば胸はなにも反応を示さなくなると、熟年夫婦のコスナー隊長がいっていた。
コスナー隊長は俺が所属する第二部隊の部隊長だ。きっと隊長が言うからには間違いないぜ。
「ヘンリー! 帰ってきてからすぐにお酒ばっかり飲んでないでよ!」
「夕食のときくらいいいだろ?」
「はあ? もう食べ終わったでしょ? 皿洗い!」
「──俺、今日一日みっちり働いてきたんだけど……」
「なによ、わたしがサボってるって言うの? ひどい。ひどいわ……」
嫁さんはひどく傷ついた顔をして口を歪めると、両目にたっぷりと涙を浮かべた。俺はぎょっとしてすぐさま嫁さんの機嫌取りを始めた。
「おいよ、メリッサ。なにも泣くことはないだろう?」
「だって、ヘンリーがわたしのことをまるで怠け者のひどい奥さんみたいに言うから」
「そんなこと、これっぽっちも思っていないよ」
俺は右手の人差し指と親指を差し出して一ミリもないくらい細い隙間をつくってウインクして見せる。すると、メリッサはぎゅっと眉を寄せた。
まずいぞ、これは『ちょっと指の間に空間があいてるけど?』って言いたげな顔だ。仕方がない、次の手だ。おれはすぐさま手を下ろすと、嫁さんを抱き寄せた。
「なあ、機嫌なおせって。メリッサは世界一の嫁だ。可愛くて、優しくて、その上料理上手だしな」
「本当に?」
「間違いない。俺は世界一の果報者だ」
優しく微笑んでからキスしてやると、嫁さんは恥ずかしそうに頬を赤らめた。
どうだ、可愛いもんだろう? うちの嫁さんは。
これはだな、きっと俺に甘えたいんだな。ちょこっとわがままを言って甘えては愛の深さを試しているわけだ。つまり、こんなに嫁さんから愛されている俺はアハマス一の果報者ってわけさ。
俺は気を取り直して盥で皿を洗い始めた。なんで嫁さんの皿も突っ込んだままなんだ? ってところには突っ込んじゃだめだぜ。俺も成長したもんだ。
「今日は何をしてたんだ?」
こんなコップあったかなあと、不思議に思いながらもじゃぶじゃぶと食器を洗い、横で座ってくつろいでいる嫁さんに声をかけた。
「町に買い物に行ったわ。可愛い食器が沢山売ってたの」
「へえ、どおりで。よかったな。メリッサは小花が好きだからぴったりだ」
洗い終えたばかりの新品のコップは、小さな花が沢山散ったデザインだった。可愛い俺の嫁にぴったりだな。『俺の分は?』と聞かないところも成長の証だ。
「小花がわたしにぴったり?」
「ああ、そうとも。メリッサには小花がよく似合う」
俺は蕩けるような視線を嫁さんにむけた。
どうだ、完璧だろう? 俺の反応は。
度重なるすれ違いののちに、俺はついに【完全・嫁さんマニュアル】なるものを自分の中で作り上げたのだ。きっと今夜はとびきりホットな夜になること間違いないぜ。さあ嫁さんよ、遠慮なくこの胸に飛び込んでくるんだ!
嫁さんはうつむいたまま、小さく肩を震わせている。よく見ると耳が赤い。なんだ、そんなに嬉しかったのか。可愛いもんだな、俺の嫁さん。
「なんで! なんであのとき言ってくれなかったのよ!」
ようやく顔を上げた嫁さんの顔は真っ赤になっていた。
俺はすぐさま異変に気付いた。なんたって、嫁の機嫌を取り続けてウンか月のベテランだからな。間違いなく、世界一の嫁さん専門家だ。この短期間におそらく本当のご両親をも超えたと自負している。
しかし、おかしいな。いったい何に怒ってやがるんだ?
「ヘンリーがあのときに小花が似合うって言ってくれれば最初から小花柄にしたのに! ヘンリーのバカ!」
だから、あのときってどのときだよ?
ぽこぽこと俺にパンチを喰らわせる嫁さんをなんとか落ち着かせて話を聞き出すと、どうやらウェディングドレスを選んでいた時のことをぶり返しているらしい。なぜ今ここで!? 恐るべし、女のぶり返し!
「メリッサのウェディングドレス姿は世界一可愛かったぜ? なにせ、着ている女が世界一いい女だからな。どんなドレスも着こなすだろ?」
俺の必死の口説き文句にようやく機嫌をなおした嫁さんは、最終的には感動した様子で俺にむぎゅっと抱きついてきた。よしよし、可愛いもんだ。これで今夜はとびきりホットな──
「ありがとう、ヘンリー。大好き! 今日町に行ったときにね、八百屋のパテックさんのところが離縁するって聞いたの。でも、わたしたちはこんなに仲良しだからずっと大丈夫ね!」
嫁さんは満面の笑顔で俺を見上げた。
ん? 今、最後に嫁の口から不穏な単語が聞こえたな。
このとき、俺は初めて、この結婚生活は本当に大丈夫なのだろうかと不安を覚えたのだった。
いつか嫁さんが家出して再び捜索隊が組まれないことを祈りつつ……




