第五話 突然の求婚者
サリーシャは目の前のソファーに腰掛ける男を眺めた。こげ茶色の髪を後ろに撫でつけ、貴族がよく身に着けるような上質な黒のフロックコートを着ている。しかし、貴族らしからぬ体格のよさは衣服の上からもうかがえた。
がっしりとした、まるで衛兵かのような体躯の持ち主だ。髪もサリーシャの知る貴族男性は長く伸ばし後ろで結うのに対し、目の前の男は短く切られている。頬には古い傷跡のようなものが何カ所か残っており、もしかすると本当に衛兵なのかもしれない。年齢は二十代後半からせいぜい三十代初めくらいだろうか。
そして、男の後ろには中年の男性が控えていた。薄茶色の髪にだいぶ白髪が混じりはじめているその男性の方が、年齢的にはスカチーニ伯爵に近い。けれど、姿絵と顔が全然違っていたし、肌の感じからしても年齢はせいぜい四十歳過ぎだろう。それに、立っている位置的に彼は椅子に腰掛ける若い男の従者に見えた。
サリーシャは困って後ろを振り返った。ここに案内した使用人と目が合ったが、彼は無言で頷くだけでなにも言ってはくれない。きっと、この二人がお客様で間違いはないのだろう。仕方がないので、サリーシャはもう一度そのお客様に向き直った。
「はじめまして。サリーシャ=マオーニにございます」
サリーシャはその若い男に向かって精一杯美しく微笑んで淑女の礼をしてみせる。その途端、無表情だった男の表情が強張り、眉間には深い皺が寄った。
自分はなにか粗相をしただろうかと不安になって、その若い男を見つめていると、男はコホンと咳払いをして立ち上がった。立ち上がった拍子に重い布張りのソファーが揺れ、ガタンと大きな音が鳴る。
その男は本当に大きな人だった。王宮に出入りしていたため、衛兵や騎士達には見慣れているサリーシャですら、その体格のよさには目をみはった。身長は平均的な男性より二回りは大きく、肩幅も胸の厚さも服の上からでも人並み以上であることが容易に想像出来る。そして、ヘーゼル色の瞳はまるで全てのことを見透かしそうなほど、鋭かった。
サリーシャは男から無言で差し出された手に自分の手を重ねた。こちらを見つめるヘーゼルの瞳が、スッと細められる。
「アハマス辺境伯のセシリオ=アハマスだ」
「アハマス辺境伯閣下……」
サリーシャは口の中でその名前を小さく復唱した。
アハマスはタイタリアの北の国境に位置する辺境の地であり、タイタリアの国防の要となる重要な地域だ。アハマス辺境伯は古くよりその地域全体を自治しており、実質的に国防軍を兼ねている。
サリーシャはその男──セシリオを見返した。
軍人を兼ねているのであれば、この逞しい体つきも納得出来る。しかし、アハマスの辺境伯がマオーニ伯爵家に一体何の用事があるのだろうか。マオーニ伯爵家の領地とアハマスは全く方向も違う。
更に言うならば、なぜ当主であるマオーニ伯爵ではなく、サリーシャが応対しているのか、その理由がわからなかった。
セシリオはそんなサリーシャの胸の内など露にも知らぬ様子で、サリーシャの手を持ち上げて甲にキスをした。乾いてカサカサした感触が、肌に触れる。不快感はなかった。サリーシャがぼんやりとこげ茶色の髪に覆われた頭頂部を眺めていると、セシリオが顔を上げ、ヘーゼル色の瞳がまっすぐにサリーシャを捕らえた。
その瞬間、サリーシャはコクンと小さく息をのんだ。
その眼差しは軍人らしく、絶対に狙った獲物は逃がさないとでも言いたげだ。あまりにも鋭い眼差しにサリーシャは幾ばくかの恐怖心を感じ、咄嗟に手を引こうとした。しかし、それは叶わなかった。セシリオの手がしっかりとサリーシャの手を握っていたのだ。
「あの……」
普通、挨拶が終われば手は離される。というより、手は重ねるだけで、しっかりと握る人など、なかなかいない。どうすればよいのか分からずに戸惑っていると、後ろにいた男性が窘めるようにセシリオに声を掛けた。
「セシリオ様。サリーシャ様がお困りですよ」
「あ、ああ。これは失礼」
それを聞いたセシリオは慌てたように手を離し、小さく「済まなかった」と呟いた。ぽりぽりと耳の後ろを右手で掻き、バツが悪そうに視線をさ迷わせる。と、その時、外で執事のセクトルと話し込んでいたマオーニ伯爵がやっと部屋に現れた。
「お待たせいたしました。アハマス閣下」
いつの間に着替えたのか、正装姿のマオーニ伯爵は部屋に入るなりにこやかに笑みを浮かべ、丁寧に腰を折った。サリーシャが引き取られたここは伯爵家だが、辺境伯は侯爵と同格なので、セシリオの方がマオーニ伯爵よりも上位貴族にあたるのだ。
サリーシャがマオーニ伯爵のこんなに機嫌よさそうにしている姿を見るのは久しぶりだ。よくわからないまま見守っていると、マオーニ伯爵がセシリオに歩み寄り、二人は握手を交わした。
「突然の訪問で申し訳ない」
「いえ、構いません。いつでも歓迎しますぞ」
「それで、例の申し入れの件は?」
「もちろん、お受けします。娘もたいそう喜んでおります。なあ、サリーシャ?」
突然、マオーニ伯爵に話を振られ、サリーシャは戸惑った。何の話をしているのか、ちっとも見えてこない。しかし、すぐに先ほど言われた言葉を思い出した。
『よいか、サリーシャ。全て、話を合わせるのだ。決して余計なことは言ってはならぬ』
マオーニ伯爵は先ほどサリーシャにそう言った。きっと、今のこのやり取りもこの『話を合わせなければならない事柄』の中に含まれているのだろう。そうと気づくと、サリーシャはすぐに顔に笑みを浮かべてセシリオに向き直った。
「はい。大変光栄なお話だと、嬉しく思っております」
その途端、セシリオの表情が少し緩んだ。
「そうか。そうか……」
何度か確認するように、セシリオが小さく呟くのがサリーシャの耳に聞こえた。そして、セシリオは少し興奮気味に言葉を続けた。
「それはよかった。わざわざ辺境からここまで返事を聞きに来た甲斐があったと言うものだ。では、王室と先方には俺から報告しておこう。伝言していたとおり、一ヶ月後に迎えを寄越す。準備しておいてほしい」
「はい、かしこまりました」
「よろしくお願いしますぞ。アハマス閣下」
王室に何を報告するのだろう。先方とは一体誰を指すのか。
それに、迎えとは何の迎えだろう。
様々な疑問が頭に浮かび、話が全く見えてこないが、サリーシャはとりあえず笑顔で頷いた。マオーニ伯爵も終始笑顔で頷いているので、この反応で間違ってはいないはずだと思った。
まさかこの時は、自分がこの一月後にアハマスの地に嫁ぐためにここを去ることになるとは、夢にも思っていなかったのだ。