第五十六話 エレナ
シルク、天鵞絨、サテン、チュール……
サリーシャは目の前に広げられる豪華な生地の数々に呆気に取られていた。床から天井まで一面に設えられた棚には、ありとあらゆる素材が揃っており、溢れんばかりの生地や糸が収納されている。一部は棚から飛び出してこぼれ落ちそうになっていた。
それもそのはず。ここはタイタリア王国の王宮内にある、裁縫所だ。王族の衣裳を作るために、国中から上質な生地や糸、そして腕の良い針子が集められている。
「サリーシャ様、どれか気になったものはありましたか?」
「ええっと、どれも素敵ですわ」
「それは知っております。そうではなくって、サリーシャ様がお好きなものはどれですか?」
ずいっと迫ってくる見た目は可愛らしいご令嬢──王太子婚約者のエレナの迫力に、サリーシャは思わず一歩後ずさった。子爵令嬢であるエレナは、フィリップ殿下と婚約したことから、結婚式までの一年間、王宮に滞在して未来の王妃となるための勉強をしている。
つい一時間ほど前に王宮にセシリオと共に到着したサリーシャは、なぜか陛下や殿下と謁見するでもなく、着いた早々にエレナに捕まって裁縫所へと連行された。
そこで明かされたのは、思いがけない申し出だった。サリーシャへの褒賞に、王太子の結婚式の舞踏会で着るドレスを、王太子妃エレナとお揃いでと言うのだ。
王太子夫妻の結婚式は一日目は結婚式と晩餐会が、二日目と三日目は舞踏会が行われ、三日三晩お祝いが続く。一日目は新婦であるエレナは純白のウエディングドレス、二日目は贅を凝らした豪華なドレス、三日目は通常のドレス──と言っても、王族に相応しいとても高価なものだが──を身に着ける。その三日目のドレスをサリーシャとお揃いで、という申し出だ。
これは、本当に名誉なことで、単に贈られるドレスの価値が高いというだけの問題ではない。
通常、王族の一員となる王太子妃エレナと、同じ舞踏会で同じデザインのドレスを着るなど、絶対に許されない。もし無断でそんなことを行えば大変な不敬にあたり、貴族社会から追放されかねないほどの大問題になる。
しかし、王族が身に付ければ、そのドレスは即ち流行の最先端となる。だから全ての貴族の女性は王族の女性が何を着るのかに高いアンテナを張り、出来るだけ似て非なるものを身に付けようと画策する。
逆に言えば、同じドレスが許されるということは、王太子夫妻から並々ならぬ信頼と寵愛を得ているということを全ての貴族に知らしめることになるのだ。
フィリップ殿下とエレナの婚約期間は一年間だ。結婚式はすでに四ヶ月後に迫っている。来月行われるサリーシャとセシリオの結婚式の三ヶ月後にあたる。今から用意すれば、ちょうどいい具合に素晴らしいドレスが完成することだろう。
「わたくし、サリーシャ様の可憐な雰囲気には絶対にこのあたりが似合うと思いますの」
エレナは一枚の生地を手に取ると、それをサリーシャに見せた。赤みのかかったオレンジ色で、艶やかな見た目は触らずとも上質なシルクだと想像がつく。似合うかどうかはサリーシャ自身にはよくわからなかったが、とても素敵な生地だとは思った。
「サリーシャ様は髪もお美しい金色でしょう? 本当に羨ましいわ。わたくしなんて、つまらない色だもの」
その生地を広げて目の前に置きながら、エレナは少し口を尖らせて自分自身の茶色い髪と一房摘まんだ。
「エレナ様の髪はお美しいですわ。昔、フィリップ殿下がエレナ様の髪はショコラのようにほどよく甘そうだから、思わず食べたくなるような魅力があると仰っておりました」
「え?」
パッと持っていた一房の髪を離したエレナの白い肌が、みるみるうちにバラ色に染まる。真っ赤になった両頬を両手で包み込むようにすると、エレナは少し上目遣いでサリーシャを見た。
「本当に? 殿下はそんなこと仰っていた?」
「ええ。わたくしといらっしゃるときは、殿下は大抵エレナ様のことを話して、無自覚に惚気ておりました。よっぽどエレナ様のことがお好きなのだと思いますわ」
「まあっ!」
ますます赤くなるエレナを見て、サリーシャはほんわかとした気分になり、目尻を下げた。
思い返せば、エレナと出会った日から、フィリップ殿下の会話の内容は明らかにエレナの話題が増えていた。時を追うごとにそれは増え、最後は半分以上、エレナの話題だった。きっと、他の人間に話すと王太子妃候補の件で色々と問題が発生する──つまり、子爵家であるエレナに身を引けと迫る高位貴族が多数現れる可能性があるから、ここぞとばかりにサリーシャに話していたのだろう。
サリーシャは改めてエレナを見つめた。小さな体に大きな茶色い瞳と艶やかな茶色の髪は、森で見かけるリスのようで本当に可愛らしい。友人が夢中になるのも頷ける。
「殿下ったら、そんなことわたくしには一言も言ってくれないわ。サリーシャ様がいらっしゃらないと、格好つけたがりなのですわ。三人でお会いするときは、お菓子の好き嫌いをしたりだとか、虫に驚いて大騒ぎしたりしていたでしょう? 今はいつも澄まして、大人ぶって、格好つけているのです。確かに素敵なのだけど、つまらないわ」
エレナは頬をぷくりと膨らませた。サリーシャはそれを聞いて、昔のことを思い出してふふっと笑みを零した。
フィリップ殿下はあまり砂糖漬け菓子が好きでなかった。お菓子の好き嫌いというのは、三人でお茶会をしているときに、いつもサリーシャに『これ、好きだろう?』となかば無理やり、出された砂糖漬け菓子を押し付けてきたことだろう。エレナと二人だと、頑張って食べているようだ。
虫に驚いて大騒ぎというのは、エレナが庭園で巨大なミミズを見つけて目を輝かせてフィリップ殿下に見せたときのことだ。
田舎令嬢のエレナにとって、巨大ミミズは土地を肥沃にする神様的存在だった。それを見つけたエレナは嬉しくなったようで、素手で捕まえてフィリップ殿下に見せたのだ。その時のフィリップ殿下の驚きようと言ったら、長い付き合いのサリーシャも見たことがないほど凄まじいものだった。ちなみに、サリーシャは元は田舎の農家育ちなのでミミズはペットのようなものだ。驚くわけがない。
「きっと、エレナ様の前ではいいところを見せていたいのですわ」
「でも、猫を被っているのよ? つまらないわ」
口を尖らせるエレナを見て、サリーシャは苦笑した。
フィリップ殿下が言っていた『エレナがサリーシャに大層会いたがっている』というのは、半分は本当にサリーシャに会いたい気持ち、もう半分はいいところを見せようとして素を晒さないフィリップ殿下への不満の表れなのかもしれない。しかし、友人が愛する婚約者を前に格好つけたい気持ちも分からなくはない。
要するに、お互いがお互いを大好きで、とても仲が良いようだ。
「きっとその猫はすぐに剥がれますわ。わたくしのときは、うーん、一年位かかりました。エレナ様にはいいところを見せようと頑張るでしょうから……そうですわね、でも、もって二年だと思いますわ」
「あら、二年ならもうすぐだわ! そうだわ、早く猫が剥がれるように庭園でミミズを捕まえて殿下にプレゼントしてみようかしら? いい土が出来て花が綺麗に咲くので、プランターにどうぞって」
こてんと首を横にかしげるエレナは、貴族令嬢としてはなかなか型破りだ。友人夫婦はさぞかし楽しい夫婦生活をおくることになりそうだと、サリーシャは確信している。
「ところで、サリーシャ様。ドレスの色は?」
気を取り直したようにエレナに聞かれ、サリーシャは少し考え、すぐに決めた。晴れの日に着るドレスなら、この色しかないと思った。
「ヘーゼル色で、お願いします」
「ヘーゼル色? 少し、サリーシャ様には地味ではないかしら?」
「でも、セシリオ様の瞳の色なのです。せっかくの晴れの日なら、その色を着たいですわ。それに、主役であるエレナ様と同じデザインなら、臣下であるわたくしは少し地味な色の方が釣り合いが取れます」
「アハマス閣下の色? まあ、それは素敵ね! アハマス閣下は少し……、その……、怖そうでしょう? だから、瞳の色をよく見ていなかったわ」
エレナは少し言いにくそうに、そう打ち明けた。確かに、パッと見のセシリオはいかにも軍人風の風貌をしており、多くの貴族令嬢から見ると近寄りがたいだろう。でもそれは、サリーシャにとっては都合がいい。セシリオが貴族令嬢に大人気になったら、サリーシャは気が気で無くなってしまう。
「では、わたくしは殿下の瞳と同じ空色にするわ。これで色は決まりね。後でデザイナーを呼ぶからサリーシャ様も同席してくださいませ。身長もサリーシャ様の方がずっと高いし、全く同じというわけにもいかないでしょう? ちょっと位はアレンジした方がいいと思うの。ふふっ、仕上がりが楽しみだわ」
立ち上がったエレナは、近くにあった空色のシルク生地を引っ張り出して胸に抱くと、くるりとスカートの裾を揺らして振り返る。そして、サリーシャの顔を見つめて満面の笑みを浮かべた。




