第五十三話 抱擁
それを聞いた瞬間、ドクンと胸が跳ねた。
この先を言わせてはならない。絶対に聞きたくない。それが本心でないと知っていても、セシリオからその言葉は絶対に聞きたくないと思った。
「閣下っ!」
サリーシャはお腹の底から声を張った。サリーシャ自身も、こんなに大きな声が自分に出せるなど知らなかったほどだ。突然近距離で大きな声を出したサリーシャに驚いた様子のセシリオを、サリーシャはまっすぐに見上げた。
「閣下。以前、もっとお互いに話をしようと仰いましたわね? 閣下は他の誰でもなく、わたくしを妻にしたいと仰って下さいましたわね?」
「ああ……、言った」
「わたくしだって同じなのです。わたくしは、閣下の──セシリオ様の妻になりたいのです。他の誰でもなく、閣下の、です。ずっと、閣下に愛して欲しいのです」
セシリオがひゅっと息を飲む。サリーシャは構わずに夢中で喋り続けた。
「偶然でも、閣下は助けてくださいました。わたくしは閣下に助けられました。偶然の何が悪いんです? わたくしがエレナ様を庇ったのだって、偶然お側にいただけですわ」
「……」
セシリオは何も答えない。
サリーシャは感情のタガが外れて、言葉が止まらなかった。今、言わなければ、伝えなければ、きっと一生後悔する。そう思って、必死だった。
言葉足らずで不器用な自分達は、この期に及んでまたすれ違いそうになっている。
「閣下は昔、幼かったわたくしに救われたと仰いましたわね? あれだって、偶然です。わたくしは何も考えずに閣下に花冠を差し上げました。おままごとのつもりだったのです。それでも閣下はわたくしに救われたと言って下さいました。偶然だっていいではありませんか。とにかく、閣下はわたくしを助けてくださったのです」
そこでようやく言葉を止めたサリーシャは、セシリオのヘーゼル色の瞳を見つめると、手に触れたスカートをぐっと握り混んだ。鼻の奥がツーンと痛み、視界が滲んでゆく。
「わたくし、怒っています。とっても怒っているんです。だって、酷いですわ。わたくしは閣下をお慕いしているとお伝えしたのに……。わたくしがちょっとでもよい条件をちらつかされたら、手のひらを返してほいほいと付いていくような、そんな女だと閣下は思っていらっしゃるの? それに、閣下はわたくしとの約束を守って下さらないのですか? わたくしを毎日抱きしめて下さるって、幸せにして下さるって仰ったのに──」
その続きは話すことが出来なかった。
息が止まりそうなほどに強く抱きしめられ、続けて荒々しく唇が重ねられる。触れ合う場所の熱さが、二人の想いの熱のように感じた。ようやく唇が離れてヘーゼル色の瞳と視線が絡まると、セシリオは本当に弱ったような、サリーシャが見たことのない顔をした。
「……悪かった。弱ったな。せっかく、人が身を切る思いで言ったのに、きみという人は。やはり、俺にはとても手放せそうにない」
「手放さないで下さいませ!」
サリーシャはセシリオの上着をぎゅっと掴んだ。
「でも、これから先、一生だぞ? アハマスは辺境だから、王都のような娯楽はない。軍人ばかりの、むさ苦しい場所だ。それでもいいのか?」
「でも、閣下がいらっしゃいます」
「──そうか。俺を選んでくれるのか……」
唇を噛むとセシリオは再びサリーシャを抱きしめた。今度は優しく、宝物を胸に抱くように。軍服越しに規則正しい胸の音が聞こえ、サリーシャの中にホッとしたような安心感が広がってゆく。
「だって、わたくし、閣下とずっと一緒にいたいのです。閣下のことがとても好きなのです。一晩いらっしゃらないだけで寂しくて心細くて、……とてもふしだらな夢を見てしまうほどに──」
サリーシャは今朝のことを思い出して顔が上気してくるのを感じた。サリーシャは一晩セシリオと会わなかっただけで、セシリオにキスされて愛を囁かれる、自らの願望を具現化したようなリアリティーたっぷりの夢を見たのだ。
「……? ふしだら?」
怪訝な顔をしたセシリオが、胸に抱いていたサリーシャから体を引き剥がすと、こちらを凝視したままピシッと固まった。
「あの……、その……。わたくし、一晩閣下にお会い出来なかっただけで、寝ている間に閣下に優しくキスをされて『愛している』と囁かれる夢をみたのです。一晩会えなかっただけなのに……」
「……夢?」
熱くなった頬を両手で包んだが、きっと真っ赤になっているのはバレバレだろう。ちらりとセシリオの方を窺い見ると、なぜか表情を消したセシリオの目が据わっており、じっとこちらを見つめている。呆れられてしまったかもしれないと思って、サリーシャは慌てた。
「き、きっと、わたくし、閣下が足りていなかったのです。閣下がいらっしゃらなくて夜に抱きしめて頂けなかったから、あんな願望を具現化したような夢を……」
「……そんな願望があったのか?」
真顔でセシリオに尋ねられ、サリーシャの肌は益々赤くなる。
「だって、昨日は閣下が足りませんでした。閣下がいなくて、すごく寂しかったのです」
シュンとするサリーシャの横で、セシリオは片手で目元を覆った。
「くそっ! なんなんだ、この可愛さは。俺を悶え殺す気か?」
「え?」
もごもごと吐き捨てるように言った呟きがよく聞き取れずに、サリーシャは聞き返した。しかし、セシリオはそれに答えることはなくサリーシャの両肩に手を置くと、大真面目な顔で見下ろした。
「それは困ったことだな? サリーシャ」
「はい、本当に……」
サリーシャはぎゅっと眉尻を下げる。自分の事ながら、こんなことでは夫の留守中にどうなってしまうのか。これから先が心配でならない。困り果てるサリーシャを見て、セシリオはなぜか意味ありげにニヤリと笑った。
「きみがそんなふしだらな夢を見ないように、俺がいるときはしっかりと補充しないと。これから先、毎日抱きしめて、キスをすると約束しよう」
「まあ、本当に?」
恥ずかしそうに顔を赤らめながらも嬉しそうに微笑むサリーシャを見て、セシリオは堪えきれない様子でくくっと肩を揺らす。そして、サリーシャに顔を寄せて微笑んだ。
「サリーシャ。愛してるよ」
もう一度唇が重ねられ、サリーシャは体の奥底からとめどなく幸福感が湧きおこるのを感じた。誰も居ない訓練場に二人の影だけが重なり合って長く伸びる。何度も何度も角度を変えながら徐々に深まっていくそれは、お互いを求めあうようにいつまでも続いた。




