第五十二話 訓練場
フィリップ殿下としばしの楽しいときを過ごしたサリーシャは、その足でセシリオの元に行った。
居住棟の三階の突き当り、セシリオの部屋の大きな両開きの扉の前に立つと、すっと大きく息を吸う。あまりここの部屋に来たことはないが、来るときはいつも少し緊張する。
サリーシャは大きな木製ドアの彫刻を見つめながらトントンッとドアをノックした。しかし、しばらく待っても中からの返事はなかった。
「閣下?」
声をかけながら金色のドアノブを回したが、鍵が掛かっているようで開かない。何度か回してみたが、ドアは開かないし、中から物音もしなかった。
「おかしいわね」
サリーシャは首をかしげて小さく独り言ちる。
先ほどセシリオに会いに初めて執務棟に足を踏み入れた。そこで勤務中の人にセシリオの執務室の場所を聞いたところ、不在だから居住棟の私室ではないかと言われたのだ。
「どこに行かれたのかしら?」
サリーシャは広い屋敷の中を探し始めた。と言っても、全く見当がつかないので行く場所行く場所が空振りだ。ダイニングルームや図書室、中庭も見に行った。けれど、セシリオはいない。会いたいのに会えないと、益々会いたいという気持ちが募った。
──早く会いたい。
──早く話したい。
──そして、ぎゅっと抱きしめて欲しい。
当てもなく歩き回っていたサリーシャは、モーリスを見かけて、セシリオを見ていないかと尋ねた。
「セシリオ? うーん、執務棟にも私室にもいないなら、厩舎かその隣の訓練場だろうな」
「厩舎か隣の訓練場?」
「ああ。昔っから、姿が見えないときはそこにいることが多い。たぶん、馬の世話をしているか、剣の訓練をしているんじゃないかな」
「そうなのね。ありがとうございます」
顎に手を当てたモーリスにそう言われ、サリーシャはパッと表情を明るくした。そのまま屋敷を出ると、まっすぐに厩舎へと向かった。大きな厩舎には百頭を超える馬が繋がれている。入り口の前に立つと、サリーシャはひょこっと中を窺った。
「閣下?」
呼び掛けたが返事はなかった。
多くの馬の嘶く声で、厩舎の中は少々騒がしい。入り口から見た限りではセシリオは見えなかったが、サリーシャはデオの元に行ってみた。
長旅から帰ってきたばかりのデオは、まるでずっとそこにいたかのように手入れが行き届いていた。焦げ茶色の毛並みは艶やかで、汚れ一つない。きっと、セシリオが綺麗に世話したのだろう。
デオはこんもりと盛られた干し草をむしゃむしゃと頬張っていたが、サリーシャに気付くと片耳をピンと立てて動きを止めた。
「あら、食事の邪魔をするつもりはなかったのよ。きっと、セシリオ様はさっき来たばかりね?」
尻尾をぶんと振ったデオはその質問に答えるように鼻をブルルと鳴らすと、また干し草を頬張り始める。
「ねえ、デオ。またセシリオ様と相乗りさせてね?」
前回はマリアンネと出掛けた後だったので時間がなくて、あまりデオには乗れなかった。次は少し遠出してみたい。その日のことを想像しながらサリーシャは口元を綻ばせた。そうしてしばらくその様子を眺めていたが、おずおずと立ち上がると、セシリオを探しに今度は訓練場に向かった。
ひゅん、ひゅん、と風を切る音が聞こえる。
初めて訪れる訓練場の中を恐る恐る覗くと、そこは土を固めただけの広めの広場になっていた。そして、入り口から三十メートルくらい離れた中央付近でセシリオが剣を振るっているのが見えた。
──セシリオ様、とっても素敵だわ。
サリーシャはセシリオが剣を握るのを見るのは初めてだ。
磨きあげられた剣が夕日を浴びてキラキラと輝く。それなりに重い剣をまるで棒切れを持つかのように軽やかに、そして、演舞を披露するかのように鮮やかに、セシリオは剣を振るっていた。その華麗な動きに、サリーシャはしばしの間、時が経つのも忘れて見惚れていた。
どれくらいそうやって眺めていただろう。ふと動きを止めたセシリオが視線を移動させ、サリーシャの姿を捉えて僅かに目をみはった。
「サリーシャ?」
「! 閣下!」
セシリオが自分に気付いてくれて、名前を呼んでくれた。たったそれだけのことが、とても嬉しい。
サリーシャは思わず全力で走り寄ると、まっすぐにその広い胸に飛び込んだ。驚いた顔をしたセシリオは、慌てた様子で持っていた剣をその場に投げ捨てると、危なげなくサリーシャを受け止める。ぽすんとぶつかる衝撃と共に、ふわりと体を包むぬくもり。それに、ほのかな汗の匂い。
「サリーシャ、危ないだろう? 剣を持っているときに飛び込んできて、怪我をしたらどうするんだ」
「だってわたくし、閣下を見つけて嬉しかったんですもの。剣を持つ閣下もとても素敵でしたわ」
サリーシャが笑顔で見上げると、眉を寄せていたセシリオは僅かに目を見開き、視線をさ迷わせる。照れているのだろうか。そんなところもとても愛しく感じ、この人が堪らなく好きだと思った。
「モーリス様にここを聞きました。よく、閣下が一人で来ていると。ここは閣下にとって、わたくしでいう、中庭のような場所ですわね?」
「きみでいう中庭? ──そうかもしれないな。誰かに付き合って貰うこともあれば、一人で来ることも多い。汗を流すと、気持ちがすっきりとする」
あたりを見渡したセシリオは、言われて初めてそのことに気付いたようだ。ゆっくりと視線を移動させ、最後にサリーシャを見つめた。
「──ところで、殿下はなんと?」
「アハマスは、遠いとぼやいておりました。明日、明後日はゆっくりと滞在するので、町を見たいと」
「そうか。他には?」
「閣下には今回の件で褒賞があるから、王都に来て欲しいと」
「それだけ?」
そう尋ねながらこちらを見つめるヘーゼル色の瞳に、不安げな色が浮かぶ。その様子を見たサリーシャは、セシリオはフィリップ殿下が縁談を勧めるであろうことを、何となく分かっていたのだろうと思った。
「他には……殿下から縁談を勧められました」
「……ああ。──どんなやつらだ?」
「紹介してくださるのはとても見目麗しく、心身ともに立派な男性だそうです。身のこなしもスマートで、良家の出身で、信用できる方々だとか」
笑いながら答えるサリーシャに対し、真面目な顔をして聞いていたセシリオは、聞こえるかどうかの小さな声で「そうか……」と呟いた。そして、前を向いてまっすぐに顔を上げた。
「俺は……きみに危険が迫ることを事前に把握できずに、みすみす渦中に放置してしまった。あと少し遅れたら、きみを永遠に失っていたかもしれない」
「でも、間に合いましたわ。閣下はいつだってわたくしを助けてくださいますもの」
「偶然だ。一歩間違ったら、きみは死んでいた。きみを守ると誓ったのに、俺はそれすら出来ていない……」
セシリオは何かに堪えるようにぎゅっと目を閉じて、ゆっくりと開くと、まっすぐにサリーシャを見下ろした。そこに言い知れぬ様々な感情が入り交じっているのを感じとり、サリーシャはぎゅっと胸を掴まれるような感覚を覚えた。
「見目麗しく、心身ともに立派で、信用できる男か……。殿下の選んだ相手なら、間違いはないだろう」
セシリオは目を細めると、サリーシャの頬をそっと撫でる。そして、名残惜しそうにその手をおろして、優しい目でサリーシャを見つめた。
「きみのことを思うなら、ここで手離してやるべきなのかも知れない」




