第五十一話 友人
機械時計の歯車がまわる、カチッカチッという音と、窓を揺らす風の音、そして、廊下を遠ざかるコツコツという足音。全てが聞こえてくるような、シーンとした静寂が二人を包んだ。
サリーシャは今言われたことを、頭の中で咀嚼する。その意味をしっかりと理解して確認するように、ゆっくりと時間をかけて。
フィリップ殿下はサリーシャに縁談を、と言った。王族が後押しした縁談であれば、辺境伯であるセシリオも身を引くしかないだろう。どんな男性達を宛てがうつもりなのかは知らないが、きっと、フィリップ殿下がお墨付きをつけるだけのことがある、心身ともに立派な、良家出身の、見目麗しい男性に違いない。与える爵位も男爵などの低位なものではなく、少なくとも子爵位、あるいは伯爵位あたりかもしれない。
これ以上は思いつかないような光栄な話だ。サリーシャのことを考えて、フィリップ殿下が悩みぬいた末に決めたのだろう。でも……
俯いたまま黙り込んでいたサリーシャは、意を決して顔を上げた。悩むまでもなく、自分の思いは決まっている。
「とても有難いお話だと思います。フィルが……わたくしのことを思って真剣に考えてくれたこともわかるわ。でも、わたくしはセシリオ様をお慕いしているのです」
「本当に? サリーシャに惚れている男には、アハマス卿よりもっと見目麗しくスマートな男もいるぞ? きっと、そなたを大事にしてくれる。それに、このような辺境の地でなく、王都の近くに居を構えることができる」
「そうかもしれません。でも、悩むまでもありませんわ」
サリーシャはまっすぐにフィリップ殿下を見つめて、首を振るとそう言いきった。
サリーシャが望むのは、セシリオの隣であり、ほかのどこでもない。王都の近くに住めるとか、見目麗しいとか、そんなことは関係がなかった。
しばらく無言でサリーシャを見つめていたフィリップ殿下は、その本気具合を見極めたのかふっと表情を緩めた。
「そうか。なら、よいのだ。先ほどのアハマス卿とサリーシャの様子を見て、答えは分かっていた。だが、一応確認しようと思っただけだ」
王族である殿下の申し出を断るのは、ある意味不敬にあたる。しかし、フィリップ殿下はサリーシャを見つめ、怒りもせず口の端を持ち上げた。
「あれは男の俺から見ても、いい男だ。責任感が強く、実直で男気がある。少々、貴族らしさに欠けるところがあって、無骨だがな」
「知っております。セシリオ様はあれでいいのです。あれ以上素敵になられては、沢山の魅力的な女性が閣下に夢中になって、わたくしは心配で気が休まるときがなくなってしまいますわ」
「……これは随分と惚気られてしまったな」
フィリップ殿下は愉快でたまらないと言った様子で肩を揺らした。サリーシャはその様子を見て、にんまりと口の端を持ち上げる。
「あら? だって、あの時に申し上げたではないですか。殿下に負けないくらい素敵な男性を射止めて、幸せに暮らすと」
「ははっ、そうだったな。さすがはサリーシャだ。その宣言通りだな」
そう言うと、フィリップ殿下はサリーシャを見つめて目を細める。そして、二人は声を上げて笑った。フィリップ殿下とこんなふうに歓談をして笑い合うのは本当に久しぶりだ。お互いに近況を報告し合い、また笑う。まるで、あの悪夢の婚約披露パーティーの前に戻ったかのように感じた。
「サリーシャ。そなたの気持ちはよくわかったが、褒賞がなしというわけにもいかぬ。なにか他に、欲しいものはないか?」
「欲しいもの? すぐには思いつきません」
「そうか。今回の件で、事件解決に大きく貢献したアハマス卿にも褒賞があるだろう。近日中に王都に召喚がある故、その時までに何が欲しいか考えておいて欲しい」
「わかりましたわ」
サリーシャはコクリと頷いた。本当に欲しいものなどなにもないが、なにも与えないというのも王室として具合が悪いのだろう。
「──そう言えば、マオーニ伯爵には一足先に褒賞を与えておいた。サリーシャの功績は、現段階ではマオーニ伯爵家の功績にもなるからな」
「お義父様に? 一体何を?」
「単純に、金一封と陛下と俺直々の礼の言葉だ。ついでに、俺がマオーニ伯爵領に視察に行く際はガランタの村も見たいと伝えておいた」
「まあっ!」
サリーシャは驚いて両手で口を塞ぐ格好をした。
ガランタの村とは、サリーシャの出身の村だ。昔、まだフィルのことを自分が射止めるべきフィリップ殿下だと知らなかった頃に、うっかりと自分は元は平民で田舎の村の出身だと話してしまったことがある。農業以外は何もないような、典型的な田舎の村。そこに、未来の国王が視察に行くとなると……
「フィル、わざと言ったわね?」
「なんのことだ? 俺は、サリーシャの生まれ育った村を見たいと思っただけだ」
フィリップ殿下は器用に片眉を上げ、口の端を持ち上げた。
サリーシャはふぅっと肩の力を抜く。きっと、養父のマオーニ伯爵は今頃焦ってガランタの村を整備していることだろう。もしかしたら、あの田舎の村に水道やピカピカの道路、学校まで出来るかもしれない。ひょっとすると、もうずっと会っていない親や兄弟たちと手紙をやり取りできるだろうかとも思った。
「ところで、一つお聞きしても?」
「なんだ?」
「あの……、マリアンネ様はどうなるのでしょう?」
ブラウナー侯爵は先ほど拘束ベルトをされて連れていかれるところを見た。しかし、マリアンネの処遇がどうなるのか。今は部屋で近衛騎士監視の元で軟禁されているようだが、サリーシャはそのことが引っかかり、おずおずと話を切り出した。
「マリアンネ嬢は、直接は何も罪は犯していない。ただ、父親は間違いなく死刑だろう。爵位も没収となる故、今後は平民として生きていくしかないだろうな」
「平民……」
サリーシャは小さく独り言ちた。
平民として生きている女性など、世の中にごまんといる。サリーシャだって、もとは平民だ。しかし、マリアンネは生粋の貴族令嬢だ。あの性格で、平民の暮らしに対応できるとは思えなかった。
「気にするな。何とでもなるものだ。まあ、その優しさはサリーシャの美徳ではあるのだがな」
黙り込むサリーシャを見つめ、フィリップ殿下は少し困ったように眉尻を下げた。
いつの間にか窓の外は夕焼けに染まってきていた。茜色に染まる空は、あの日にセシリオと見た夕焼けを彷彿とさせる。白とピンク色に染まった雲が、その茜色の空を美しく彩っていた。
「もう、こんな時間だわ」
その声に釣られるように、フィリップ殿下も窓の外を見た。
「本当だな。俺とサリーシャがずっと部屋に籠って話しているから、アハマス卿があらぬ心配をしているかもしれない。そろそろ、行ってやるといい」
「はい」
「次は王都で会おう。エレナも大層サリーシャに会いたがっている」
「エレナ様が?」
「ああ。俺よりサリーシャが好きなのではないかと、疑ってしまうほどだ」
少し口を尖らせて拗ねたような顔をする友人に、サリーシャは表情を崩してふふっと笑った。フィリップ殿下のこんな表情は、長年の付き合いがあるサリーシャも見たことがない。きっと、エレナだけがさせることが出来る表情なのだろう。
「エレナ様はきっと今頃、殿下がお近くにいらっしゃらなくて大層寂しがっておりますわ」
「そうかな?」
「そうですわ。だって、わたくしもセシリオ様が一日いらっしゃらないだけで、とても寂しくて──」
「なんだ。ただの惚気か」
呆れたように呟いたフィリップ殿下は、両手を上に向けて肩を竦めて見せる。そして、サリーシャの顔を見て微笑んだ。
「サリーシャと久しぶりに話せて、楽しかった。アハマス卿と共に、近々王宮に来てくれ。最大限の歓迎をしよう」




