第五十話 褒賞
部屋を出るまえに、セシリオはもう一度サリーシャの方を向くと、何か言いたげに口を開きかけた。しかし、その唇は音を紡ぐことなくまた閉ざされ、くるりと体の向きを変えて部屋を出る。
なんとなくセシリオの背中に哀愁が漂っていた気がするが、気のせいだろうか。その後ろ姿を見送りながら、サリーシャは首をかしげた。
パタンとドアが閉じたのでフィリップ殿下の方を向くと、フィリップ殿下は笑いを噛み殺したような顔をしていた。パッと見は笑っていないが、よく見ると口元のあたりに力が入って歪んでいる。
「どうかされましたか?」
「いや、くくっ。サリーシャは猛獣使いの才能があったのだな。あの獅子を……」
「はい?」
「いや、何でもない」
しばらく肩を揺らしていたフィリップ殿下はようやく落ち着いてくると、サリーシャを見つめて昔のように表情を綻ばせた。
「サリーシャ、久しいな。息災に過ごしていたか? という言い方はこの状況では少々おかしいか。だが、さきほどに比べてだいぶ顔色がよくなって安心したぞ」
「先ほどはご心配をおかけしました。わたくしは元気にしていましたわ。フィル……フィリップ殿下もお変わりなくお元気そうで」
「フィルでよい。今は二人だ。──ところで、サリーシャと二人で話がしたいと言ったのは、そなたに聞きたいことがあったからだ」
「わたくしに、聞きたいこと?」
サリーシャは少し首をかしげると、フィリップ殿下を見つめた。
久しぶりに正面から見る友人は、相変わらず絵本の王子様が抜け出してきたかのように凛々しく精悍だ。金の髪は部屋の中でも眩く輝き、青い瞳は永遠に続く空のように、どこまでも澄んでいる。先ほどの乱闘のせいだろうか。よく見ると長い髪が少しだけほつれ、おでこにかかっていた。その一房の髪すら、フィリップ殿下の魅力を引き立たせている装飾ように見えた。
「サリーシャには、本当に礼を言っても言いきれぬ。エレナが無事だったのは、そなたのおかげだ」
フィリップ殿下は少し顔を俯かせると、膝の上にのせていた手の指をぎゅっと握り込んだ。そして、その秀麗な顔の眉間をぐっと寄せる。
「それに……あの怪我を負い、そなたが貴族社会において伴侶を探しにくくなることは分かっていた」
そう言うと、フィリップ殿下は握ってた手からふっと力を抜く。手持ちぶさたのようにその手をさ迷わせたあと、テーブルのティーカップへ伸ばした。しかし、口には運ばずに弄ぶように、中の液体をくるくると揺らしているだけだ。
サリーシャは無言で渦を描いて揺れる琥珀色の液体を眺めた。フィリップ殿下は何から話すべきか考えあぐねいているようで、顎に手を当てて言葉を一つ一つ選ぶようにゆっくりと喋る。
「実は、サリーシャに褒賞を用意していたのだ」
「褒賞?」
「ああ。あの日、反逆者からエレナと俺を守った褒賞だ。思いついたものがすぐに渡せるものでもなかった故、事前に準備をすすめていたところ、妙な噂を聞いた。そなたが、祖父と孫ほども歳の離れたスカチーニ伯爵のもとに後妻として嫁ぐと」
サリーシャは目を伏せた。長い睫毛の陰が瑠璃色の瞳を覆う。
サリーシャとスカチーニ伯爵とは、正式には婚約していない。しかし、マリアンネも噂で聞いて知っていたことからも分かるとおり、きっと噂好きな貴族社会では既に正式決定しているかの如く情報が出回っていたのだろう。それが回りに回ってフィリップ殿下の耳まで届いたのだ。
「そなたはあのような色欲にまみれた老いぼれには相応しくない。あの日、俺はこの日にスカチーニ卿が婚約許可を取りに来るはずだと聞いて、そんな申請はその場で破り捨ててやろうと、はらわた煮えくりかえる思いで自ら待ち構えていた」
フィリップ殿下はそこで一旦言葉を切ると、どさりとソファーの背もたれに寄り掛かって天井を見た。
「ところ、なぜか許可を取りに来たのはアハマス卿だった」
部屋の中を、妙な沈黙が覆った。
セシリオは、サリーシャに求婚に来た日にそのまま王室に報告に行くと言っていた。求婚された側のサリーシャとマオーニ伯爵すら知らなかったのだから、フィリップ殿下が知る由もないだろう。
「サリーシャ」
ふいに呼びかけられて、サリーシャは顔をあげた。フィリップ殿下はまっすぐにこちらを見つめており、青い瞳と視線が絡まる。サリーシャはいつにないフィリップ殿下の真剣な様子に、コクンと息を飲んだ。
「そなたは、アハマス卿と婚約して、幸せか?」
「え?」
「そなたは『瑠璃色のバラ』とうたわれたほどの美貌だ。性格も優しく穏やかだ。密かにそなたに想いを寄せる男は多かった。まぁ、俺の婚約者候補だった故に表立って口説く奴はいなかったがな」
サリーシャは黙ってフィリップ殿下の話に耳を傾けた。何を言いたいのか、なぜ今そんな話をし始めたのかがわからなかったのだ。
「それは俺の近衛騎士隊の連中も同じだった。俺と会うためによく王宮を訪れていたそなたに、恋焦がれていた男は一人や二人ではない」
「──それは……身に余る光栄ですわ」
サリーシャはなんと答えればよいのかわからず、当たり障りのない返事を返す。
「だから、褒賞に縁談を、と思っていた」
「え?」
聞き間違えかと思った。
想像すらしていなかった話に、サリーシャは目を見開く。思わず目の前の相手を凝視するが、フィリップ殿下は真面目な顔でサリーシャを見つめ返すだけだ。
「……わたくしに、縁談?」
「ああ。あの事件のあと、サリーシャに想いを寄せる近衛騎士のうち、俺が特に信頼できると思った何人かと面談した。そして、そなたの傷を承知の上で大切にしてくれるであろう男を数人、縁談相手として紹介するつもりだった。近衛騎士は良家の子息ばかりで身元もはっきりしているし、教養もある。そなたが気に入った男がいれば、婚姻の暁には祝いに爵位と屋敷も与えるつもりだった」
それは、破格の褒賞だ。王室自らが縁を取り持つ婚姻。しかも、祝いに爵位と屋敷もつけるなど、そうそうあるものではない。サリーシャが知る限り、そこまで恵まれた褒賞は聞いたことがなかった。王太子であるフィリップ殿下と、その婚約者であるエレナを守ったことに対し、王室として最大限の褒美を用意したのだろう。
驚きのあまり絶句するサリーシャを、フィリップ殿下は少し気の抜けたような顔で見つめ、眉尻を下げた。
「ところが、あの日想定外のアハマス卿が来て、そなたと婚約したいと言い出した」
「……」
「サリーシャ、今一度問う。そなたは、アハマス卿と婚約して、幸せになれるか? 俺ならば、この婚約を穏便になかったことにして、別の男の元に嫁がせてやることも可能だ。アハマス卿も、実家のマオーニ伯爵も、誰も文句は言えぬ」
サリーシャは、ただただ信じられない思いでフィリップ殿下を見つめ返した。




