第四話 新たな縁談
目を覚ますと、真っ白なシーツが視界一杯に広がった。少しだけ視線をずらすと、見慣れた天蓋の枠とそこから吊下ったカーテンのドレープが見える。
寝台を覆うアイボリーカラーの落ち着いた色合いのそれは、侍女のノーラが選んでくれたものだ。裾の部分がフリルになっており、落ち着いた中にも可愛らしさがあり、サリーシャもとても気に入っている。
そう。もうだめかと思われたサリーシャは、奇跡的に一命を取り留めた。
背中を刃物で斬りつけられたサリーシャは、致命傷を負った。通常なら命を落とすレベルの大怪我にも関わらずこうして生きているのは、事件直後にタイタリア王室が威信にかけて、最高の医師団をサリーシャのために手配してくれたからに他ならない。
あとから聞いた話では、賊は衛兵たちにすぐに捕らえられたが、奥歯に仕込んでいた毒で自害したため、真相は闇の中だという。
「お嬢様、お目覚めですか?」
しばらくぼんやりとしていると、侍女のノーラの声がして、寝台を覆うドレープが少し揺れた。
「ええ、起きているわ。今、何時かしら?」
サリーシャがそう伝えると、寝台を覆うドレープの裾が引かれ、明るい太陽の光が差し込んできた。春の日差しは布団を覆うベッドカバーの刺繍柄を明るく浮き上がらせる。
「九時ですわ」
「そう。そろそろ起きるわ」
「かしこまりました」
起き上がろうと腕に力を入れると、その途端に背中に引き連れるような痛みが走った。
「痛っ」
サリーシャは小さく悲鳴を上げ、片手で背中を触れる。指の先にあたるぼこぼことした手触りは、傷の跡だろう。触っただけでも盛り上がって醜い傷になっていることがわかる。一度だけ鏡越しに見たとき、そこには背中に斜めに入る赤紫色の醜い裂傷の跡があった。もうきちんと塞がっているのに、体を動かすと時折引き攣れるような痛みが未だに襲ってくる。
ノーラに手伝ってもらいながら傷跡を完全に覆うような詰襟のワンピースを身に着けると、一見すると控えめな印象の淑女が出来上がる。けれど、サリーシャが二ヶ月前にフィリップ殿下の婚約披露会で背中に傷を負ったのは周知の事実だ。
サリーシャはその美しい瞳の色にちなんで、社交界では『瑠璃色のバラ』とうたわれたほどの美しき伯爵令嬢だ。しかし、この傷ではまともな結婚話があるわけもなく、養父のマオーニ伯爵は最近とても不機嫌だ。わざわざ田舎娘を養女にして、多くの家庭教師を付けて多額の投資の上で王太子妃にする計画を立てていたのに、その計画が完全に失敗した。更には、有力貴族に輿入れさせることもできない傷物になったのだから、それも当然だろう。
サリーシャは小さくため息をつくと、のそのそとベッドから起き出した。
***
その日の昼下がり、珍しくサリーシャの私室を訪れたマオーニ伯爵は部屋に入ってくるなり、真っ白な上質紙と額に入った小さな姿絵を差し出した。
「サリーシャ。お前に縁談だ」
「わたくしに縁談?」
サリーシャはマオーニ伯爵と差し出された手紙と姿絵を交互に見比べ、おずおずとそれを受け取った。早速封を開き、中を確認する。
「スカチーニ伯爵ですか」
サリーシャの小さな呟きを聞き、マオーニ伯爵はサリーシャが嫌がっているのだと思ったようで、顔をしかめた。
「傷物のお前を貰ってもよいと言っているんだ。しかも、伯爵だぞ。ありがたい話だ」
スカチーニ伯爵は養父であるマオーニ伯爵よりもずっと年上で、既に齢六十歳を超えているはずだ。細君に先立たれ、子供達も全員独立している。子供と言っても、今十八歳のサリーシャよりもずっと年上ではあるが。もしかすると、孫が同世代かもしれない。
あまりにも予想通りの展開に、サリーシャは内心でため息をついた。
「承知いたしましたわ。お父様の仰せのとおりに」
「とてもよいお話だ。すぐに準備をすすめよう」
マオーニ伯爵はサリーシャの返事を聞くと満足げに微笑み、たっぷりと蓄えた口ひげを揺らしながら頷いた。そして、部屋から出ようとしたときに、ふとサリーシャの手元に置かれた刺繍道具に目を留めた。
「そうだ。伯爵にお会いする時までにプレゼントする刺繍でも刺しておきなさい。アルファベットとなにかモチーフを入れて……。それはお前に任せよう」
「かしこまりました」
サリーシャは頷く。
満足げなマオーニ伯爵が部屋を後にして、部屋のドアがパタンと閉まった。
この刺繍は、春になったので春の小花でもハンカチに刺そうと思って出したものだ。けれど、スカチーニ伯爵に贈るのなら小花柄ではよくないだろう。
サリーシャはマオーニ伯爵が持ってきた、姿絵の小さな額縁を見た。そこに描かれているのは初老の老人だ。片手にステッキを持ち、シルクハットを被ってすまし顔でこちらを見つめている。絵画で見ても祖父のような感覚しか湧いてこない。この老人が自分の未来の伴侶だというのは、なんとも不思議な感覚だ。
サリーシャはしばらくその姿を眺め、スカチーニ伯爵家の頭文字からアルファベットの『S』と、伯爵が被っているシルクハットをモチーフに刺繍を刺し始めた。
***
スカチーニ伯爵との顔合わせの日、サリーシャは朝からノーラに手伝って貰って美しく着飾った。今日の昼過ぎに、スカチーニ伯爵がこの屋敷──マオーニ伯爵邸を訪ねてくることになっている。
ちょうど準備が終わった直後に、屋敷の外に六頭立ての立派な馬車が到着したのが窓越しに見えて、サリーシャはふうっと息を吐いた。チラリと壁際の機械式時計を見ると、予定よりも四時間も早い。スカチーニ伯爵は案外せっかちな人なのかもしれないと思った。
サリーシャは刺し終えたハンカチを忘れないように用意し、手に握った。
──大丈夫。わたしはマオーニ伯爵令嬢のサリーシャ=マオーニ。『瑠璃色のバラ』と呼ばれる美しい娘。さあ、笑え。笑うのよ、サリーシャ。誰よりも美しく、妖艶に。
毎日のように行っている恒例の儀式。そうやって田舎娘の自分を忘れ、伯爵令嬢になりきる演技をし続けた。
サリーシャが完璧に作り上げた微笑みを浮かべたまま階下に降りると、なにやら階下の様子がおかしかった。マオーニ伯爵は酷く慌てた様子で、玄関ホールで執事のセクトルと話し込んでいる。
「どうかしたのかしら?」
サリーシャは独り言ちた。確かにだいぶ予定の時間よりは早いけれど、前日から今日の準備を進めていたのだから、そこまで慌てることもないだろうに。怪訝に思いながらゆっくりと二人に近づいていくと、マオーニ伯爵はサリーシャを見つけて飛ぶように駆け寄ってきた。
「よいか、サリーシャ。全て、話を合わせるのだ。決して、余計なことは言ってはならぬ」
「はい?」
「予定が変わった。もっといい話だ。あまりお待たせしては申し訳ない。いけ」
マオーニ伯爵はそれだけ言って再び執事のセクトルに何か指示をし始めた。使用人からお客様をお待たせしていると促されて応接間に入ったサリーシャを出迎えたのは、なぜか老人ではなく、見知らぬ若い男だった。